光、芽生えて
仕事上がりの夕暮れ時。駆けて、走って、辿り着いた先は屋敷の裏庭。橙の光が照らす足元は次第に滲んでいく。嗚咽を漏らせば、ぽたりと音を立てて地面に染みを作った。
「私、やっぱりダメだ……」
今日の出来事が頭を過ると、再び視界がぼやけてきた。思い出すだけ自分を追い詰めていくというのに――。
この日、食堂の当番だった私は朝食の配膳や片付けを任されていた。食事を終えたファイター達が食堂を出ていき、片付けの作業に入った時のこと。
水がこぼれていたのか、濡れていた床に足を取られた私は――よりにもよって食器が積み重ねてある机の上に倒れ込んでしまったのである。
やがて食堂に駆け込み惨事を目の当たりにした先輩。その額には、はっきりと青筋が浮かび上がっていた。
"ナナシ……何ということをしてくれたの"
震える声からは確かな怒りが伝わってきて、思わず身を強ばらせた。普段は穏やかで滅多に怒るような人ではないから、尚更心に重たくのしかかる。
その後は周囲の人達が手伝ってくれたこともあり、すぐに食器の処理を済ませることはできた。
しかし先輩からはたっぷりとお説教を受けることとなり、芽生えかけていた自信は呆気なく折れてしまう。
仕事を終えてからも彼女からの叱責が頭から離れず、胸の痛みを振り払うように駆け出した。こうして今に至る――。
「私、本当に此処に居ていいのかな……」
気付けばそんな言葉が口をついていた。行く宛もなく彷徨っていた所をマスターに拾われた私は、なんとか仕事を覚えようと頑張ってきた。
やがて半年が経ち、慣れてきたと思った矢先にこんな失態を犯してしまうなんて。小さな失敗は幾つかあったけど、これほどの事態を引き起こしたのは初めてだった。
もしかしたら今後も皆に迷惑をかけてしまうだけではないか。そんな未来を想像すると怖くて、辛くて、涙が止めどなく溢れ出してしまう。
「誰も居ちゃいけないなんて、言ってないよ」
ふと背後からかけられた穏やかな声に、恐る恐る振り向く。そこにはファイターのひとりである少年、ネスの姿があった。彼はこの屋敷に来てから初めてできた友人だ。
いつの間にいたのか、驚きのあまり涙が引っ込んでしまう。彼はこちらに向かって微笑むと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「ネス……何で、ここに」
「走っていくナナシが見えたから。なんか、ほっとけなくて」
そう言うなりネスは私の前に立つ。どうしよう、彼にこんな姿だけは見せたくなかったというのに。
泣き顔まで見られた以上、どう言い繕っても誤魔化すことはできない。彼から目を逸らすように俯く。
我ながらどこまでも往生際が悪いと思うけれど、これ以上弱い部分を見せたくない。私なりの精一杯の抵抗である。
「……今朝のことでしょ、食堂の一件」
「え、見てたの……?」
「だってあれだけ大きな音だったし、何があったか気になったんだよ。僕が来た時には片付け終わりそうな所だったけど」
それなら先輩に叱られている姿もしっかり見られていたということ。改めて事実を突きつけられると、今度こそ顔を上げられなくなる。
きっと呆れられただろうな。失望されたかもしれない。こんな使用人なら、いない方がマシとさえ思っているんじゃないだろうか。
そんな不安ばかりが頭の中を駆け巡っていく。もういっそのこと、この屋敷から消えてしまいたい。
「……みっともない所、見られちゃった。ごめん、嫌な思いしたよね」
なんとか絞り出した声は、情けないほどに弱々しい。ネスからの返答が怖くて仕方がない。ここから離れたい。もう、一人になりたい。
ふらつく足取りで歩を進め、彼の横をすり抜けようとした時――突然強い力で腕を掴まれたかと思うと、屋敷の外壁に押し付けられた。
冷たいレンガの感触が背中に伝わり、思わず身を震わす。そっと顔を上げると、真剣な眼差しを向けるネスと目が合った。手を私の両側の壁につき、逃さないとばかりに。
一体、何がどうなっているんだろう。戸惑いながら彼の顔を見つめていると、やがて静かな声が耳に届いた。
「話は終わってないよ。確かにあの時はびっくりしたけど……君だってわざと失敗したわけじゃないだろ」
「でも、やらかして、皆に迷惑をかけたのは……事実だし」
「一回失敗したらそれで終わりなの? 君が今まで重ねてきたことも、全部否定することになるじゃないか。そんなのおかしいよ」
真っ直ぐに向けられた言葉は、立ち込める暗雲を吹き飛ばすような衝撃をもたらす。堪えていたものが今にも溢れ出しそうになり、ひびの入った壁を塞ごうとする自分がいた。
「僕はナナシがこの屋敷に来てから、ずっと見てきたよ。君は一生懸命仕事を覚えようと、失敗しないようにっていつも気を張っててさ。慣れない環境の中、笑顔で頑張ろうとする姿を見て……いつか支えになりたいって思ったんだ」
ネスはそこで一旦言葉を切ると、静かに瞼を閉じる。そして再び開かれた双眸は真っ直ぐに、私だけを見つめていた。
僅かに細められた瞳に宿る暖かな輝きは、私の心を少しずつ溶かしていく。同時に胸の奥で燻っていた感情が弾け、遂に涙となって頬を伝った。
嗚咽混じりにしゃくり上げていると、温もりと共に視界が暗くなる。
「思い切り泣いていいよ。ここには僕しかいないから」
包み込むように抱き締められ、耳元で囁かれる心地よい響き。私はただ彼の胸に身を委ねるだけ。
今まで我慢していたものを吐き出すかのように、声を上げて泣いた。その間、彼は優しく背中を撫でてくれていたのだった――。
***
ネスに涙を明かしたあの日から一ヶ月が経つ。もう多少のことではへこまない心の余裕もある。
しかし心機一転して仕事に励む私の中に、ある大きな変化が生まれていた。
それは、彼と顔を合わせる度に頬が熱くなってしまうこと。あの一件以来、まともに目を合わせることができなくなってしまったのである。
初めての感覚に翻弄される私。だけど頬に宿る熱は決して不快なものではなく、むしろ尊さすら感じるもので。
ある日ゼルダ姫に相談をしてみると、それが"恋"というものだと教えられた。私はネスに、恋をしているのだと。
自覚してからというものの、ふとした瞬間に視線が彼を追いかけてしまう。戦いの際に見せる真剣な表情や、私に笑いかけてくれる時の柔らかな瞳。
どれもが輝いて見えて、その度に胸が高鳴る。時には苦しく、狂おしくなるほど、彼を想うようになっていた――。
「――ねえナナシ。君が僕に告白してくれた時の台詞、今でも覚えてるんだよ」
「えっ、それはもう忘れていいって……!」
とある休日の昼下がり、街の一角にて。私とネスはバーガーショップのテラス席で、ゆったりとした時間を過ごしている。
私が勇気を振り絞って気持ちを打ち明けた日。彼もまた自分の想いを伝えてくれて、私達は晴れて恋人となり一層関係を深めていった。
「忘れたりするもんか。君の気持ちを聞けた時、凄く嬉しかったんだ。これから大人になっても、ずっと覚えてるから」
「はあ、分かった……絶対忘れないでよ?」
観念すると頷いてみせた。同時に春の陽気が私達を包み込み、穏やかな風が頬を撫でていく。私こそ、あの時ネスが励ましてくれたことは一生忘れない。
これからも私の欠片として、心の奥に大事にしまっておくから。幸せに満ちたひと時を噛み締めながら、私とネスはそっと顔を寄せていく。
「ネス……私のこと、好きになってくれてありがとう」
「そんな、こっちこそ……ありがとうだよ。これからもよろしくね、ナナシ」
至近距離で微笑みを交わすと、どちらともなく唇を重ねた。"温かさ"と"暖かさ"が重なれば"熱"となり、私達を心地よく包み込んでいく――。
るるか様へ。ネスの甘夢ということで、このような感じとなりました。気が滅入っている時こそ、好きな人物に励まされるとより元気になれますね。
今回はとっても素敵なコメントとリクエストをありがとうございました!
お持ち帰りは、るるか様のみとさせていただきます。