綻び重ねて
今日は我ながら恵まれていると思う。大広間のモニターに映されていた朝のニュースでは僕の運勢は良いこと尽くめ。試合では個人戦、チーム戦共に勝利をもぎ取り絶好調の真っただ中。この日の風向きは全て僕に向いていると思っていた。午後を迎えるまでは――。
昼食を済ませて食堂を出た僕の足取りは軽い。珍しいことに今日入っていた試合は午前中だけで、午後からは自由に過ごせるんだ。今の時間帯ならナナシも仕事の休憩に入っているだろうし、久しぶりに声をかけに行ってみようか――なんてことを考えてみる。
ナナシはこの屋敷で働いている女の子。彼女は明るくて優しく、いつも笑顔を見せてくれる。ちょっと気の強いところもあるけど、一緒にいると楽しい子なんだ。僕とナナシは友達と言えば友達なんだけど、最近は妙に意識してしまう機会が増えていた。例えば、姿を見ているだけで胸が熱くざわめいてしまう瞬間が。
そしてこの感覚の正体に気付いてしまって以来、僕はナナシに対して前のように接することが出来なくなってしまった。その上ナナシの方も僕を避けている気がして、余計に近付けなくなった。やがて顔を合わせる回数すらも減ってしまい、このままでは本当にまずいということで現在に至る。
「今なら中庭辺りにいるかな……? ああ、何か緊張してきたっ」
思わず声に出してしまう程に僕は胸を高鳴らせていた。はやる気持ちを落ち着かせながら中庭までやって来ると、そこには予想通りナナシの姿が。
木の下のベンチに座り、ただ空を見上げている彼女の横顔には、この快晴とは反対の色が浮かんでいた。唇を引き締め、今にも泣き出してしまいそうな――。
そんな姿を見ていられなかった僕は先程までの恥じらいを捨て去り、中庭に足を踏み入れた。
「やあ、ナナシ」
「えっ、ピット……何か用?」
ナナシは僕を見てぎょっとすると、すぐに視線を逸らしてしまった。どこか突き放すような空気を漂わせる彼女の姿に、僕の胸は小さく傷む。
「いや、こうして顔合わせるの久しぶりだし……それに、何か元気無さそうだから、どうしたのかなって」
「別に、何でもない」
ナナシは素っ気なく答えると、視線をまた空に戻してしまう。こんなの、誰がどう見たって何も無い訳がないじゃないか。
「もしかして何か悩んでる? 僕で良かったら相談に、」
「いいってば! もう放っておいて!」
突然立ち上がり声を荒らげるナナシの目には、うっすらと涙が滲んでいた。僕は呆気にとられてしまい、続きの言葉を喉の奥につまらせる。
一体何が彼女の心を乱しているのか分からない。でもここで引いたら今度こそ僕達の繋がりが断ち切れてしまう気がする。何より、苦しんでいるなら僕の手で支えてあげたい――その一心が自身の背中を押していた。
「……悪いけど、それは聞けないよ。君がそんなに辛そうにしてるのに放っておける訳ないだろ」
「ピットこそ、私に構ってる時間が勿体ないでしょっ……」
絞り出すように放たれた声は震えていた。ナナシは突然何を言い出すんだ。君と過ごす時間が勿体ないだと。そんなこと一度も感じたことはないのに、どうして。
「ピット、先月入った新人の子と仲が良いみたいだし……そっちに行った方が良いよ! 最近私を避けてたのもそういうことでしょ?」
「ちょっと待って、仲が良いってどういうこと……?」
「あの子とよく楽しそうに話してたじゃん! この前は、寄り添いながら歩いてたしっ……」
拳を握りしめ捲し立てるナナシの瞳からは大粒の涙が零れ落ち、頬を伝っていく。まずい、彼女はなんだか大きな誤解をしているみたいだ。楽しそうに話していたというのは、屋敷で迷っていた新人さんを案内していた時のことだろう。
寄り添っていたというのは、庭掃除の際に足を痛めた彼女を医務室まで連れて行った時のことに違いない。それ以外であの新人さんと絡んだことはほぼないんだから。そもそもあの子はマルス王子に夢中なんだし。
ナナシと距離を置いていたのだって、照れくさいのもあったけど君が僕を避けていると思い込んでいたからだ。それがこんな形ですれ違いを起こしてたなんて。こうなったらもうなりふり構ってなんかいられない。潤んだ瞳で睨んでいるナナシの前へ、僕は一歩踏み出した。
「ナナシ、僕の話を聞いて」
「やだっ、来ないで!」
「ナナシ!!」
思わず声を張り上げるとナナシは固まってしまった。もう決めたんだ。ここで全てはっきりさせるって。僕はナナシの両肩に手を置いて、彼女の目を見つめながら口を開いた。
例の新人さんとは困っていた所を助けただけで親しい関係はないこと。そしてナナシを避けていたのは接し方が分からなくなったから――ということを包み隠さず伝えていく。
「最近、その……君を見てると胸が熱くてどうしようもなくて、」
僕の言葉を聞いたナナシの顔がみるみる赤く染まっていく。君には僕の見せる全てをその目に焼き付けてほしい。格好いいところも、ダメな部分も。
「ナナシのこと……好きなんだって気付いてから、この先どうすればいいのか分からなくて、君から逃げてた。本当にごめん」
僕が頭を下げるとナナシは突然膝から崩れるようによろけてしまった。すかさず支えてあげると、赤くなった目を拭いながらはにかむような笑顔を見せてくる。
「何か、力抜けちゃった。私こそ勝手な思い込みでピットのこと傷付けて、ごめんなさい。それと……私からも、ひとついいかな」
僕は静かに頷いて見せるとナナシは少しの沈黙の後、意を決したように口を開く。僕から目を逸らすことなく、真っ直ぐな眼差しで。
「私も……ピットのこと好きだったんだよ。出逢った頃から、ね」
僕はこれでもかと目を見開く。まさか同じ気持ちだったなんて夢にも思わなかったから。でも耳に届いたナナシの言葉は現実のもの。それを確かめるように抱き締めると、彼女の腕が僕の背中へと回されるのを感じた。
「……僕、嬉しくてどうにかなりそう」
「私も、自分の頬をつねってみたい気分だよ」
僕等は見つめ合うと自然に唇を重ねる。初めて感じる柔らかさが心地良くて、もっと触れ合いたいと欲が出る程だ。やがてどちらともなく顔を離すと、僕らの間を爽やかな風が吹き抜けていった。一時はどうなることかと思ったけど――やっぱり僕はこの日一番の幸せ者だ。
3月29日にリクエストしてくださった方へ。ピットとのすれ違いハピエンということで、互いに心境の変化に戸惑いながらも遠回りの末に…という内容となりました。この度は素敵なリクエストとお祝いの言葉をありがとうございました!
お持ち帰りは当作品をリクエストされた本人様のみとさせていただきます。