俺という男は
日曜日の昼前。トレーニングルームで鍛練をしていた俺は、一旦休憩するためベンチに腰を下ろす。呼吸を整えながら額から流れる汗を手の甲で拭おうとすると、横から真っ白なタオルを差し出された。
「お疲れ様アイク。ほら、ちゃんとタオルで拭かないと」
「ん、ああ……」
やんわりと目尻を下げて微笑むこの女はナナシ。この屋敷で働く使用人の一人であり、俺にとって初めての恋人。以前から暇をみては俺が鍛練している様子を見に来ていて、最初は物好きな女だと思っていた。飽きないのかと聞くと"全然"と即答するような奴で。
しかし少しずつ交流を重ね、ナナシが向けてくる優しさに触れていく内に俺の中で彼女の存在は大きくなり、心の隅まで埋めていく勢いであった。
手が軽く触れただけでも指先から全身に熱が広がり、終いには隣に立つだけで勝手に胸がざわつく有様で。やがてこの想いが恋だということに気付かされた頃、同じ思いを抱えていたというナナシから告白を受け今の関係に至る――。
「すごい汗だね……替えのタオルも持ってきてあるから」
いつもナナシから受け取るタオルはざらつきの無い柔らかな手触りで、ほのかに洗剤の香りがする。こうして彼女は毎回洗いたてのものを用意し、水分補給のドリンクも温くならないようにと魔法瓶に入れてきてくれる。
これも使用人としての仕事を終えるとすぐに準備しているとのことで、こういった然り気無い気遣いにも俺はずっと支えられ身も心も癒やされてきた。こいつは素直過ぎるほどに愛情を向けてくれているというのに、俺はこの沸き上がる想いを示す術も録に知らない男だ。
「俺は……お前に何か返せているだろうか」
「え? いきなりどうしたの」
きょとんとした顔。ナナシは俺の質問にすぐには答えず少し考え込んでいるようだったが、やがて柔らかく微笑むと俺の手に自身の手を重ねて指を絡ませてきた。俺のより細くて力強く握れば折れてしまいそうな、誰よりも守りたい温もり。
「私はね、アイクが横にいてくれるだけで充分だよ」
「……本当にそれだけで良いのか?」
「ああもう、私が良いって言ってるんだから良いの! そんなこと気にするの、いつものアイクらしくないよ」
そう言って少しむくれた表情をしたナナシは、絡めた指を解くとそのまま俺の腕を軽く叩いてきた。その仕草がまるで子供をあやすようで、俺はつい口をつぐむ。
「私は、アイクがいつも元気でいてくれたらそれで良いから。分かった?」
「そう……か」
ナナシの笑顔につられ俺も自然と口元を緩めると、それを見た彼女は満足そうに大きく頷く。これからもこの笑顔を一番傍で見られるなら、今のままでいいのかもしれない――と、簡単に割りきれないのが俺だ。
***
翌日、俺は改めて自分なりにナナシへの想いをどう表すべきかと模索していた。ここはストレートに言葉に乗せて伝えるべきか。それとも軽いスキンシップから――ああ、どれも上手くいく光景が浮かばない。
まず言語化するにしても気の利いた言い回しができるほど、俺は器用じゃない。そして触れ合うというのは更にハードルが高く感じられた。単純に手を繋いだり抱き締めたとして、それだけで伝えきれるのかと。
これまでもナナシから触れてきて、俺はそれを受け止める。つまり与えられるだけの立場に甘んじていたに過ぎない。これで本当にアイツと対等だと言えるのだろうか。うんうんと唸っていると、突然背後から一人の影が重なってきた。
「随分考え込んでるようだけど、君が悩むなんて珍しいな」
「……マルス王子」
「当ててみせようか。ナナシさんのことだろう?」
見事に言い当てられてギクリとした俺を見て、マルス王子は悪戯っぽく笑った。もう誤魔化しようもないと胸の中で白旗を挙げると、素直に肯定して相談することにした。ナナシに俺の想いをどう伝えたら良いのかと――。
「なるほど、もしかしたら君は一早く結果を出そうと焦ってないかい? その上にどこか格好付けようと考えるから余計に難しくなるんだ」
王子の指摘に後頭部を殴られたかのような衝撃を受ける。こうした彼特有の鋭利なセンスは戦法や剣技にもよく表れている程で、同じ剣士として流石の一言だ。しかし肝心の答えには手を伸ばせぬままで。
「俺は一体どうすればいいんだ……」
「まずは焦らないこと。言葉で伝えるのも、君からのスキンシップも少しずつ実践していけばいいのさ」
"聡いナナシさんなら、きっと君の意図を察してくれるよ" と、最後に付け足した王子はやんわりと微笑んだ――。
***
「はい、しっかり水分補給してね。いつもアイクは目を離すと水飲むの忘れるぐらい打ち込むんだから……」
「ああ、その……いつも助かる。ありがとう」
照れ臭くて堪らないが何とか礼を述べて魔法瓶を受け取ると、ナナシは何事かと言わんばかりに目を丸くした。そしてすぐに破顔すると俺の肩に頭を乗せて寄り添ってきたではないか。
まずは日々感謝するという形から入ろうと試みたのだが、これは想像以上の反応だった。
「アイクが素直にお礼言うの、何か新鮮かも」
そう言って俺の腕に自分の腕を絡ませたナナシは、そのまま肩に頭を預けて目を閉じる。更には"でも、嬉しいなあ"なんて甘い声色で呟くものだから、俺は堪らずその肩を抱き寄せてしまった。
「わっ、アイクどうしたのっ?」
「……すまん、嫌なら離れる」
「はあ、普通ここで引こうとする? 私は離さないからね!」
ナナシは俺の身体に抱きつくと、"もっと強く抱き締めてよ"とねだってくる有り様。だが、俺はもう知っている。この強引さは照れ隠しだということを。だからナナシの望み通りに力一杯抱き締めてやると、彼女は嬉しそうに俺の名を呼んだ――。
あこ様へ。アイク甘夢ということで、大事な恋人に想いを伝えるべく不器用なアイクが奮闘するという内容になりました。ただでさえ恋の悩みというものは難しく、アイク一人では困難と判断して王子に友情出演してもらいました。
この度は素敵なリクエストありがとうございました! お持ち帰りはあこ様のみとさせていただきます。