これは僕とナナシの出会いの話――。時は今から約一年と半年前の秋まで遡る。僕はある探偵事務所で探偵の一人として活動していて、この日もスリークという町で受けていた依頼について一段落ついた所だった。
事務所に戻る前に休憩がてら適当なカフェに入り、熱々のホットコーヒーを一杯。砂糖を入れて一口つけると、舌の上でほろ苦さと砂糖の素朴な甘味が熱と共に混ざり合う。
窓の外には夕暮れの町並みが広がっていて、仕事を終えて家路に着く人、下校途中で寄り道をする学生などが通りかかり、一日の終わりを感じさせる穏やかな空気が流れ始めている。
なんとなく人の流れを眺めていると、雑踏の中に一人の女性の姿を見つける。――それが後のナナシ。実は僕、以前から仕事でスリークに来る機会がある度に彼女を見かけていた。
ある時は友人らしき人と楽しそうに笑っていて、またある時には項垂れながら力なく歩いていて。危うく躓きそうになっていたこともあったな。ただそれだけなのに、見かける度につい目で追っている自分がいた。
当時の僕は彼女の名前すら知らないにも関わらず、どんな人物なのかなどと少しずつ興味を惹かれていたんだ。
横切っていった彼女の顔はこの澄み渡る秋の空みたいに晴れ晴れとしていて、その様子を見るに何か良いことがあったんだろうと察する。今日は月半ばだし、給料日とかかな。とにかく元気そうならそれで良いと、そう思っていた。
こうして遠ざかっていく彼女の後ろ姿を見つめていた時――背中をひやりと冷たいものが走った。僕は子供の頃から勘は鋭い方で、こういう時には何かしら悪いことが起きる。
このままではきっとあの人は。僕は急き立てられるように立ち上がると、飲みかけのコーヒーをそのままに会計を済ませて店を飛び出す。だけど彼女は軽快な足取りで進んでいくものだから、かなり距離が空いてしまっていた。
それでも諦めずに追い続けると、やがて横道へと曲がっていくのが見えた。先程から感じている胸騒ぎは収まるどころか、次第に大きくなっていくばかりだ。
はやる気持ちを抑えつつ曲がり角へ駆け込んだ時だった――。女性の短い悲鳴が聞こえると同時に、倒れこむような音が薄暗い歩道に響いた。
やっぱり。息を切らす僕の視界に飛び込んできたのは、道路に倒れている女性の姿と、奥へと走り去っていく男の背だった。
よく見ると男の方は脇にバッグのような物を抱え込みながら、何度も後方を確認するように駆け抜けていく。これは、誰がどう見てもひったくりの犯行現場じゃないか。
まずは男を追うよりも目の前で跪いている女性の容態を確かめないといけない。僕は彼女の側に歩み寄ると声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「う……私は大丈夫、です。それよりバッグ、いきなり取られちゃって……あの中には携帯とか財布とか、大事なものが入ってるのに」
女性は抑揚のない声で呟くと、呆然としたまま立ち上がることもせずに男が去っていった方向を見つめていた。恐らく突然襲われたショックで精神的に立て直せないんだろう。
幸い女性には目立った怪我はなく、頭を打っていたりもしていない。――ここから先は僕の出番だ。今ならまだ間に合う。
「あなたはここで待っていてください。すぐに戻りますから」
「えっ……まさか、追いかけるんですか……?」
僕は彼女を安心させるように微笑んでみせ、男が通っていた方向へ駆け出した。既に見失っているんだから追いつくのは不可能だと思うかもしれないけど、僕にはそれができる。
走りながら意識を集中させると、道の上に男の足跡が浮かび上がって見えてきた。実は僕、超能力者というもので子供の頃からこういった不思議な力――PSIを扱うことができる。でも使うのは主に仕事の時だけで、日常生活で使うことは一切無い。
年齢を重ねていくにつれてこの力は失われるどころか精度が増していき、今も事務所の仲間達と訓練を重ねることで強化されつつある。この軌跡を可視化する力も、探偵になってから習得した能力の一つだ。
僕はその力を駆使しながら男の後を追い続ける。絶対に逃がすか。あの打ちひしがれた彼女の姿を思い出すと、なんとしても捕まえるという強い意志が湧き上がってきた。
やがて路地裏に差し掛かると少し先に男の走る姿を捉える。ここまで来ればもう捕まえたも同然だ。右手の人差し指を奴の背中に向けると、意識を一点に集中させる。
"――PKパラライシス!"
心の中で念じると同時に指先から赤と青の光が交差しながら飛んでいき、男に命中すると絡みつくように浸透していく。すると効き目が出たみたいで、奴はよろめくとゴミ箱などをひっくり返しながら地面に転がった。
今使った力には対象を痺れさせる効果があり、大して傷つけることなく動きを止めるのに最適なんだ。
男は自分の身に何が起こったのか把握しようと必死な様子だ。なんとか体を動かそうと試みるもそれは叶わず、横たわりながら僕を見上げていた。
「う、動けねぇ……っ、何し、やがった!」
「これは返してもらう」
男の腕の中にあった女性のバッグを取り上げると、奴は恨めしげに睨みつけてくる。しかしその瞳には僅かながら恐怖の色が浮かんでいた。
得体の知れないものを見るかのような目付き。そういった視線には慣れきっている。
「おい、お前……っ、何なんだ……!?」
「あなたに教える義理は無い。それより自分のことを気にかけるべきじゃないかと」
男が下らない罵詈雑言を浴びせてくる間に携帯を取り出すと、警察に通報した。最寄りの交番はこの場所のすぐ近くだから、すぐに警官が駆けつけてくることだろう。
「へっ、無駄なことだ……俺が実行した証拠なんて何処にも無い。警察に突き出したところで意味なんかねえよ――」
「それなら安心していい。あそこの通りには防犯カメラが付いてるんだ。あなたの犯行の一部始終もしっかりと記録されているから」
今度こそ詰んだことを悟った男は、舌打ちしつつも諦めたようで黙り込んだ。犯行前に予め周囲の下見をしていなかった所を見るに、思いつきの突発的なものだったんだろう。程なくしてパトカーが到着し、警官達が男を連行していく。
実は僕の所属する探偵事務所は超能力者集団という特殊な立場にあるものの、設立当初からこの国の警察と協力関係を結んでいる。
なのでこのように事件解決や犯人確保に協力する機会もよくある事だった。状況説明を求めてきた警官に話を済ませると、この一件についてはすぐに片付いた。
パトカーを見送った後、僕は急いで女性の元に戻ると奪われたバッグを手渡した。彼女はそれをそっと受け取ると、大事そうに抱えだした。余程嬉しいのか、瞳を潤ませながら何度も頭を下げてくる。
「ありがとうございます……! これには財布の他にも大事なものが色々入っているから……取られた時は本当にどうしようかと」
「無事に取り戻せて良かったです。それでは、僕はこれで」
手短に会話を済ませると僕は踵を返す。でも本当は、彼女ともう少しだけ話をしていたかった。しかしあの事務所に勤める者として、一般人と必要以上に関わると所長から大目玉を食らってしまう可能性もある。
こういう状況にでもならないと、僕達は僅かな接点を作ることすらできないんだ。名残惜しさを胸に秘めて、そのまま彼女から遠ざかろうとした時のことだった。
「――あの、待ってください!」
背後から響く声によって、僕の足は意思に反するように止まった。本当ならこのまま振り切ることもできるのに、僕は一体どうしてしまったんだ。戸惑いの中振り向くと、彼女は焦り気味に駆け寄ってきた。
「せめて、お礼をさせてください。じゃないと、私の気が収まらないから……!」
そう言う彼女の瞳は真剣そのもので、強引に断るのも気が引けてしまう。それに、もしかしたらこれを期に彼女と親しくなれるかもしれない。
しかし、これ以上彼女と関わるのは僕の立場としては避けなければいけなくて。二つの声が僕の中で葛藤している。
前から彼女のことを知りたかったんだろう。少しぐらい良いじゃないか。いや、やはり駄目だ。一般人に関わり過ぎてはいけないんだ。
こうしてせめぎ合う思いの中に、もうひとつ割り込んでくるものがあった。――それなら、彼女と絡むのはこれが最初であり最後にすればいい。この一度きりだ、と。
無理やり自分に言い聞かせるように心の中で唱える。これも何かの縁だと。それから彼女の提案で近くの喫茶店に入り、お茶と軽食をご馳走になることになった。
後で彼女から聞いた話だけど、ここで僕を引き止めないと二度と会えない気がしたから、というのが理由だったらしい。これも運命だったのかな。
「今日は給料日なんです。遠慮せずにお好きなものを注文してください!」
女性は僕にそう言って微笑むと、自身もメニュー表を開き始めた。お礼とはいえ、女性に奢られるという状況に僕は少しばかり居た堪れなくなる。
――いや、本当はそれだけではない。以前から気になっていた女性と、こうしてテーブルを挟んでお茶を楽しむといったシチュエーションだからこそだ。
メニュー表を眺めるふりをしてそっと彼女を見つめてみる。何を注文するのか迷っているらしく、難しい顔をして悩んでいるみたいだ。
時折前髪をかき分けたり、軽く頬杖をついたり。そんな様子がなんだか微笑ましくて、いつの間にか僕は彼女の仕草に見蕩れてしまっていた。
こんな感覚、何年ぶりか。久々に湧き上がるものに心を任せていると、不意に彼女が顔を上げて僕を見た。その視線を受けて咄嵯に目を逸らすと、僕の反応を不思議に思ったのか首を傾げる。
「あの、決まりました?」
「えっと、すみません。もう少し時間ください」
「はい。実は私もまだ迷ってて、決まってないから……」
眉を下げて苦笑する彼女に、僕もつられて微笑み返す。こんなに気が抜けたことは、探偵になってからここ数年は無かったと思う。
「あっ、このデザートも気になる……でも帰ったらすぐ夕飯だし、やっぱ飲み物だけにしようか……」
そう呟きながら眉間に皺を寄せる彼女。僕もいい加減注文するものを決めないといけないな。さっき別の店でコーヒーを飲んだばかりだし、小腹も空いてることだから軽食を頼もうか。
僕はこの店特製のスキップサンドを、女性はカフェモカを頼むことになった。店員が注文を確認してからキッチンの方へ向かっていく姿を見届けると、先に女性の方から口を開く。
「そういえば自己紹介がまだでした。私はナナシと言います。先程は本当にありがとうございました」
言い終わると同時にナナシさんはバッグを抱きしめながら深々と頭を下げてくる。対する僕は大したことはしていないと、両手を振った。
「ナナシさん、ですか。僕はネスと言います」
今まで知りたくて堪らなかった彼女の名前を聞けたからか、浮かれた僕は迂闊にも自分の本名を名乗ってしまった。
僕の所属している事務所の探偵達は依頼主、相談者以外の人間に自分の本名を名乗ることは殆どない。自分が如何に気が緩んでいるかを思い知らされて心の中でため息をつく。
普段なら他人と接する時はもっと慎重に行動するはずなのに、どうしてこうも感情に流されてしまうんだ。精神といったものを制御する訓練は今まで何度も重ねてきたじゃないか――。
「あの、具合悪いんですか……?」
苦悩する心が顔に浮かび出てしまっていたらしく、ナナシさんは僕を心配そうに見つめていた。慌てて笑顔を作り、大丈夫だと伝えると彼女は安堵の表情を浮かべて胸を撫で下ろしていた。
せめて今だけは探偵としてじゃなく、一人の男としてナナシさんと過ごしたってバチは当たらないと思いたい。注文したものが来るまでの間、僕達はゆるりと会話を楽しむことにした。
「それにしてもバッグが戻ってきて本当に良かった。この中には大事なお守りも入ってるから」
「へえ……そのお守りとは?」
興味が湧いてきた僕が訊ねてみると、彼女は財布の中から一枚の写真を取り出して見せてくれた。それには四、五歳ぐらいの女の子と、彼女に寄り添うように立つ年配の女性が写っていた。
「祖母の写真です。小さい頃とても可愛がってもらって……かなり変わり者でしたけど、私にとっては今でも大好きなお婆ちゃんです」
懐かしむように写真を見つめる彼女。きっと祖母と過ごした頃の思い出が心の中で巡っているんだろう。やがて瞳を細めるとすっかり暗くなった窓の景色に視線を向ける。
「……六年前に亡くなったんです。私、元々オネットに住んでたんですけど、十二年前に動けなくなった祖母を介護する為に家族でこのスリークに移住してきたんです。それから暫くして祖母が亡くなった後、いつまでも実家を空けておく訳にはいかないので両親はオネットに戻ったんですが、私は一人でこの町に残ることを決めたんです」
「お婆さんと過ごした町だから……ですか?」
「最初はそうでした。当時の私は祖母への未練が深くて、どうしても離れられなかったんです……でも長年住んでいる内に、私自身この町の魅力に気付いてきたんです。流石あの祖母と祖父が愛していた町だなって」
そこまで言い終わるとナナシさんはやんわりと笑顔を浮かべる。初対面の僕に対して、大切な思い出話までしてくれるとは思わなくて、内心嬉しくて堪らなかった。
もう一つ驚いたのは、彼女の実家もオネットにあるということだ。ここからも会話の幅を広げていけるのではと、少し期待しつつ今度は僕から切り出す。
「ナナシさんにとってそのお二方は、本当に素敵な人だったんですね。実は僕の実家もオネットにあるんです。学生の頃まで実家に住んでたんですけど、今でもたまに家族に顔を見せに行くんですよ」
それを聞いた途端にナナシさんの顔色がぱっと綻ぶ。彼女は久々に故郷について語り合える人と出会えて嬉しいと喜んでいた。
「ネスさんもだったんですか。あそこの図書館はテスト勉強の時によくお世話になったんです。帰りにはバーガーショップに立ち寄ってつい買い食いしちゃって……懐かしいなあ」
「あのゲームセンターも改装してから結構賑わってましたよね。僕も学生の頃友人達とよく遊びに行ってて――」
一度語り始めると中々止まらず、注文したものが来た後も僕達は時が経つのも忘れて盛り上がっていた。お陰でお互いに趣味や嗜好まで知ることができ、この時間で一気に距離が縮まった気がする。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、気付けば夜の七時。いい加減事務所に戻らないとまずいか。人通りも落ち着いてきた頃――いよいよ僕達に別れの時が訪れる。店を出るとナナシさんはもう一度頭を下げてきた。
「今日は助けていただいて、本当に嬉しかったです。この御恩は忘れません」
「僕こそ御馳走様でした。今後もどうか気をつけてください。最近何かと物騒ですから」
「はい……また機会があったらお会いしたいですね。それでは!」
そう言い残してナナシさんは軽く会釈をすると、僕に背を向けて歩き出す。彼女は再び僕に会えると信じてくれている。しかし、僕にとってはこれっきりになるんだ。
これ以上ナナシさんと関わってはいけない。こうして僕は彼女の背中を眺めながら、心の奥で久々に味わう苦味を噛み締めていた。
車を駐車場に止め、事務所に戻った頃には時計は八時を回っていた。同僚や先輩達は別の依頼を受けていたり帰宅していたりで、中は静まり返っている。
僕は自分のデスクに着くと、今回解決した依頼についての報告書をまとめ始めた。報告は簡潔かつ的確に、がこの事務所の標語だ。
言葉にするのは簡単だけど、これが想像以上に骨が折れるもので。故に僕はこの書類を作成するという作業が一番苦手なのである。
加えて僕の脳内には、ナナシさんの声や表情がいつまでも焼きついて離れずにいる。結局報告書を書き上げるのに一時間程かかってしまい、所長に提出した時点で九時をとうに過ぎていた。
一旦家に帰って仮眠を取るか。そうして所長室を出ようとした時、背後から所長に呼び止められた。その声は普段よりも重厚感のあるもので、僕のこめかみからは一筋の冷や汗が伝う。この感覚は今日で二度目だ。
「ネス。何故呼び止められたか、よく分かっているだろう」
「……はい」
僕は振り返ると、静かに返事をした。所長は椅子にもたれながら深いため息をつき、鋭い眼光で射抜いてくる。
所長は学生の頃にお世話になった恩師の友人であり、当時進路に迷っていた僕の持つPSIを見抜いただけでなく、こうして超能力探偵としての道を示してくれた人でもある。
そんな彼も卓越した力を持つ超能力者であり、特に物体や生物に込められた記憶を読み取る力――"サイコメトリー"に特化している。
つまり、所長に対して隠し事は一切できないということだ。どれだけ上手く嘘を吐いたところですぐに見抜かれてしまう。だからこそあのスローガンを掲げているという訳だ。
普段は多少のことは大目に見てくれる人だけど、今回については流石に見逃してはくれないらしい。
「まず理由を聞こう。お前は、その女性に何を感じた上で接していた?」
所長の瞳は真っ直ぐに僕を捉えていた。その意識をこちらに集中させているのが伝わってきて、既に尋問は始まっているんだと悟る。
対する僕はというと、不思議と落ち着いていた。何故なら僕自身、自分の気持ちや感じたものに嘘をつくことはできない性分だからだ。
真っ直ぐに所長と視線を合わせると、小さく息を吐く。――これから話すことに偽りはない。
「……癒し、安らぎ。そういったものです」
僕が答えると、所長は眉を僅かに上げた。そして口元に手を当てて考え込むような仕草を見せる。てっきりお小言を言われると思っていただけに、正直意外だった。
「最初はこれっきりにしようと、何度も振り切ろうとしました。でも――やっぱりできません。より彼女のことを知りたいと、強く願っている自分がいるんです」
僕の言葉に迷いはなかった。すると所長は表情を和らげて苦笑する。予想外の反応に困惑していると、彼は机の引き出しから封筒を取り出した。それには僕が先程提出した報告書が入っている。
「その報告書に……不備がありましたか?」
「内容自体に問題はない。だが、この紙にはお前の煩悶する意思が染み込んでいた。この報告書を作成している時ですら、その女性の姿を切り離せなかった証だ」
所長は封筒を引き出しにしまい、代わりに掌に収まるほどの小さな装置を取り出して机の上に置く。あれは確か記憶処理をする際に使うもので、余程のことがなければ表に出てくることの無い物だ。
今、彼の瞳は糸のように細められている。その表情には、何処か挑戦的な意思が込められている気がした。何故なら、それは普段複雑な仕事を持ち込んできた依頼人に向けるものに酷似していたから。
「そこまでお前の判断力を鈍らせ、思考を埋め尽くす程の女性だ。どれ程の人物か興味が沸いた。ひとつ、私なりに試させてもらう」
「試す、とは……?」
「何、単純な話だ。探偵業における基本は、依頼人と探偵が共有する"情報"を厳守し信頼関係を結ぶことにある。今後その女性が私の抱える探偵と絡む以上、そういった素質も見定めたい」
所長はルールを説明し始めた。まず、口外してはいけないという前提を付けた上でナナシさんに探偵だということを打ち明ける。後は彼女の動向次第。そのまま厳守し続けている限りは関係を続けて構わないという。
但し――もしナナシさんが自ら外部に漏らした場合は如何なる理由があろうとも彼女の記憶から僕と関わったものを消去した上で一切の関わりを絶つ、というものだ。
「少なくとも一年、この条件は明かしてはならない。何故なら素のままの人格を見極めたいからだ。だが、その一年を無事に乗り越えられたなら……その時はお前の口から語ることを許可する」
この話は僕にとっては大きな賭けであった。全ては何も知らないナナシさんに委ねるということだからだ。だけど、これ以外に所長の許しを貰う方法は無いだろう。
「――分かりました。僕は、あの人を信じます」
静かに頷いてみせると、机の上の装置を手に取った。その瞬間、所長の瞳が爛々と輝いたように見えたのは恐らく気のせいではないだろう。
僕がここまで厳しい条件を突きつけられたのにはそれなりの理由が思い浮かんだ。それは半年前、一人の後輩がやらかしてしまったことにある。彼はある日、酒に酔った勢いで交際相手に自分が超能力探偵であることを漏らしてしまった。
それだけでなく目の前で超能力を見せたことで、すっかり信じ込んだ女性は家族や友人達にも言いふらしてしまうという事態に。危うくこの事務所の関係者の情報までもが晒されようとした既のところで、その女性と身内の人間への記憶処理を施し事なきを得た――という過去がある。
当時対応に追われていた所長の怒り顔は一生忘れられない程の恐ろしいもので、僕や先輩方の間では語り草となっていた。今となってはとばっちりも良いところだ。
こうしてナナシに探偵の話を打ち明け、友人として関わることを許されてから二ヶ月が経った頃。お互いの性格を把握してきたこともあり、軽口を叩き合えるぐらいの関係になっていた。
それと同時期に、ナナシが僕より年上だということを知る。年齢を明かした時、意外にも彼女はあっけらかんとしていた。僕としては今まで同い年ぐらいだと思っていたから、当時は少し驚いたけど。
だからといって、接し方を改めるのは嫌だった。折角縮まった距離が離れてしまう気がしたから――。そこは彼女も同じ考えだったみたいで、気にせず今まで通りに接して欲しいと言われた。
その後、何も知らないナナシはしっかりと約束を守り続けてくれて、無事一年を迎えることができた。そろそろ頃合を見てあの話を打ち明けようと考え始めていた時のことだった。
数年前から追っていた例の黄金像と組織についての重大な情報が、突如として舞い込んできたのである。事務所は活動方針を組織の追跡に切り替え、調査を続けることになった。
本来ならようやく進展があったことを喜ぶべきなんだろうけど、僕としては複雑な思いだったのは言うまでもない。
当分の間ナナシと平穏な時を過ごすことができないと思うと、寂しくて切なくて堪らない。だから、せめて僕のことを心に刻みつけておきたかった。
あの日の別れ際。ナナシを思い切り抱きしめて、頬にキスまでして。当然彼女からは怒られたけど、暫く会えなくなるんだからこのくらいは許して欲しい――。
そこからの半年間は、今まで以上に過酷なものだった。連日連夜、組織の痕跡を追い続ける日々。時には戦闘になることも珍しくなく、その度に十三年前の『あの冒険』の記憶が鮮明に思い出された。
辛いこと、切ないこともあったけれど、仲間と信頼し合って困難を乗り越えていく喜びを知った。あの色褪せることのない経験があったからこそ、今の僕が存在している。
互いに支えあった親友達も、今ではそれぞれの道を歩んでいる。赤いリボンのあの子は園児達を導く母性溢れる先生に、眼鏡の天才は父親に並ぶ程の世界的権威に、文武両道の彼は一国を治める若き王に――。
子供の頃はまさか自分が探偵になるだなんて、微塵にも考えたことは無かった。本当に人生は何があるか分からない。一寸先は闇とはよく言ったものだ。
だけど後悔なんてしていない。この道を歩んでいたからこそ、ナナシというかけがえのない存在に出逢えたんだから。彼女と出逢い、過ごした時間だって僕の大切な宝物のひとつなんだ。
そしてこれからも、ナナシと共に『平穏』という日々を重ねていきたい。この未来の実現の為にも、僕は一刻も早くこの一件に終止符を打たなければならないんだ――。
こうして現在に至る。微かに春の訪れを感じさせる三月のある日。ナナシと再会し、彼女に全てを語り終えた僕の元に最後の黄金像の所在を掴んだという報せが入った。
今度こそ決着をつけるべく、再び彼女の元を離れることになる。――しかし、今の僕達の間にはこの一年と半年で築き上げてきたものがある。他の誰にも崩されることのない確かなもの。
「ナナシ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
だからこそ、今の僕達にはこの一言だけで十分だったんだ。ミラーに映るナナシの姿が小さくなり曲がり角に差し掛かるまで、彼女はずっと僕を見つめていた。
何だかんだ言いつつも今まで何とかなっていたし、今度もきっと大丈夫。何故なら僕はひとりじゃないから。再び彼女と笑顔を交わせる時を思い描きながら、アクセルを踏み込んだ――。
これはネスとナナシさんの出会いなどの裏付け的な話です。
こちらの話は読まなくても本編を読む分には問題ありませんが、読んでいただけるとより二人の関係性やネスの勤める職場の背景がわかるかと思います。
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