神出鬼没

Morning glow

某日、喫茶店にて


「やっぱ駄目だなあ、私」

 まだ日の高い夏の夕暮れ時。スリークの一角にある喫茶店。コーヒーに口をつけるも、氷の冷たさが唇を刺激するだけで味は感じられない。
 鉛のように重い気持ちがそれを味わおうとしていないだけかもしれないけど。窓に反射している自分の顔を見つめ、ひとつため息をつく。
 ――この日、仕事の出来栄えは最悪といってもいいものだった。水の入ったバケツはひっくり返すわ、作業の手順を間違えるわで同僚の作業にまで影響が及んでしまった。
 些細なミスが切っ掛けとなり招いてしまった事態。結局依頼人の要望に応えきれず、予定通りに終えることすらできなかった。当然、会社に戻ると上司から厳しい叱責を受けることとなった。
 今の会社に転職して数ヶ月。こんなことではこの先やっていけないと、暗に釘を刺されたようなものだ。
 思い返すたびに自分が情けなくなってきて、涙すら滲みそうになる。今泣いてもどうしようもないことは分かっている。
 泣くくらいならもっと気を引き締めなければ。そう自分に言い聞かせて堪えるも、一度沈みきった気持ちは中々浮上してこない。
 改めて自分の無能ぶりに呆れると、もう一度大きなため息をついた。――そんな時、ふとテーブルに一人の影が落ちる。

「随分大きなため息だな」

 馴染みのある声にはっと顔を上げる。そこにはアイスコーヒーの入ったグラスを片手に、穏やかな笑みを浮かべているネスの姿があった。紺色のシャツに黒のスラックスを纏い、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 思いがけない人物の登場に動揺を隠しきれない。よりにもよって、こんな時に現れるなんて。固まる私を他所に、彼は向かいの席に腰を下ろした。

「こうして顔を合わせるのは三週間ぶりだね。ナナシは仕事終わったところかな? お疲れ様」
「まあ、うん……ネスこそ今日は、どうしたの」
「僕は仕事の最中。依頼のターゲットが会社から出てくるまで暇だから、ちょっと休憩に来たら君がいたってワケ」

 言い終えるとネスはコーヒーを喉に流し込む。そして頬杖をつくと、窓の外に視線を向けた。西日に照らされた横顔には、ほんのり憂いを含んだものがあった。――今、彼は何を考えているんだろう。
 普段の飄々としたものとはかけ離れた姿。思わず見蕩れていると不意に彼が正面へ向き直り、ばっちりと目が合ってしまった。慌てて俯くと彼の小さく笑う声が聞こえてくる。

「見たいならもっと見てくれてていいんだよ」
「な、何言ってんの? 自意識過剰じゃない?」
「じっくり眺めてたくせによく言うよ」

 彼の言う通りしっかり見つめていたのは確かだ。でもここで素直に認めたら、次はどう揶揄われるか分かったものじゃない。
 苦し紛れだと分かりつつ反論しようとするも、ネスの瞳がすっと細められたことで口を噤んでしまう。

「それで――今日は何があった?」

 少しだけ真面目さを帯びた表情でこちらを見据えてくるネス。その問いかけによって自然と手に力がこもる。今の私にとって一番聞かれたくないことだったのに。

「何でもないよ。それに、今は一人になりたいの」
「本当にそう思ってる?」

 ネスの言葉が胸の奥に深々と入り込んでくる。今の私の心は放っておいてほしいという気持ちと、抱えているものを打ち明けたいという思いで入り乱れていた。彼はそんな私を急かすことなく、ただ静かに微笑みながら待ってくれていた。

「……ネスはさ、仕事で失敗したこと、ある?」

 ようやく絞り出した声は自分でも驚く程に拙いものだった。グラスの中のコーヒーに映る私の顔が、悲しげに見つめ返してくる。
 しばしの沈黙の後、ネスはそっと首を縦に振った。探偵という身であり困難な依頼を数多くこなしてきた彼にも、失敗というものがあったのか。

「そりゃあ、あったよ。特に……資格を取って探偵になったばかりの頃はね」
「ネスにもそういうの、あるの……?」
「ターゲットに尾行を勘付かれたりとか、綺麗に証拠を持ち去られて取り逃がしたりとか。他にも色々と、ね」

 淡々と語っているけど、その言葉の端々からは悔しさが滲み出ているように感じた。彼が少しだけ目を伏せたのは、差し込む西日のせいだけではないのかもしれない。

「その度に所長や先輩方からは厳しく叱られたっけな。『お前は優れた勘に頼りすぎだ。まず観察眼を養え』って散々言われたよ。それがまた難しいものだったけど――

 そこで一旦言葉を区切ると、ネスは再びコーヒーを口に含む。氷が音を立てるグラスを置いた時には、普段通りの穏やかな表情に戻っていた。

「今ではこうして一人の探偵として認めてもらって依頼を任されてる。ここまでやってこられたのは、そういう経験のお陰だと思ってるよ」
「そっか……ネスも、色々悩んでたんだ」
「誰にでもそういうことってあるでしょ。さて、今度こそ聞かせてもらえるよね? ため息の理由」

 ネスに促されるまま、遂に本題を打ち明けた。今日の仕事でやらかした失態の数々、自身を情けないと嘆く心も全て吐き出していった――
 声に出していくにつれて目頭が熱くなっていく。駄目だ、彼の前で涙なんて見せたくないのに。せめて年上らしく堂々としたいという小さなプライドが、私の感情を塞き止めようとしている。
 やがて視界が滲み始めた後も、彼は黙って耳を傾けてくれた。

「ごめん。折角の休憩中にこんな愚痴聞かせて」
「ううん、少しでもガス抜きが出来たならそれで良い。それにさ、その失敗した経験だって無駄にはならないよ。今は辛くても、いずれ君の力になるから」
「……今後の考え方次第、だよね」

 静かに頷き、涙が溢れそうになる目尻をハンカチで拭う。まだ完全に立ち直れたわけじゃないけど、ひとまず気持ちを落ち着かせることはできた。
 後は時の流れに任せて自分の中で折り合いをつけるしかない。皆そうやって失敗を糧にしながら這い上がっているんだから――

「それにいつまでもそんなじゃ、僕も張り合いがないし」
「張り合いって、何それ」
「なんか今日のナナシ、ずっとしおらしいからさ。まあ、そういう部分も可愛いと思うけど」

 ちょっと隙を見せた途端にこれだ。こういった不意打ちはネスの十八番。ここで闇雲に言い返すと彼の思うツボなので、返答の代わりにじろりと睨んでやる。
 私の視線を受けたネスは眉を下げ苦笑していたけど、ふと腕時計に目を向けた途端に肩を竦めた。どうやら別れの時間が来たみたい。

「さて、そろそろ『仕事』に戻らないと」
「そっか……話、聞いてくれてありがと」
「大したことしてないよ。これ、僕の分。お釣りはいらないから。それじゃ、また今度」
「次に会う時は連絡ぐらい寄越してよね」

 ネスはやんわりと微笑むと自分のコーヒー代をテーブルに置く。そしてバッグを片手に颯爽と店から出て行った。
 残された私は彼が残していった硬貨を財布にしまおうとして、あることに気付く。コーヒー一杯分にしては明らかに額が多いのである。正確に数えると、ぴったり二人分となる。
 お釣りはいらないと言われても、流石にこれはどうなんだろうか。椅子に荷物を残して慌てて外に出てみるも、既に彼の姿は雑踏に溶け込んでしまっていた。
 普段は連絡すらまともに寄越さないのに、こうして私が苦しんでいる時には前触れもなくひょっこり現れる。
 捕まえてみようと思うと決して掴めず、それでいて時には私を癒すように包み込む。まるで風みたいな人。

「……全く、最後までカッコつけちゃうんだから」

 私の呟きもまた、夕暮れの喧騒に掻き消されていく。次に会う機会があったら、何か美味しいものでも奢ってみよう。
 こうして未来にささやかな楽しみを見出しつつ、店の中へ戻る私の口元は緩んでいた――

連載設定を元にした短編となります。これからも気が向いたらぼちぼち追加予定です。

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