某日、住宅街にて
――あの不気味な"黄金像事件"の幕引きから三ヶ月。光陰矢の如しとはよく言ったもので、紅葉映える季節はあっという間に過ぎ去り、この国はもうすぐクリスマスを迎えようとしていた。
この時期になると様々なビルのオーナー達から清掃依頼が舞い込んでくる。その一件一件が年末の大掃除ともいえる規模のもので、何処の清掃業者も稼ぎ時だと言わんばかりに張り切っていた。
私の勤めている会社も例に漏れず、片っ端から依頼を引き受けてしまうのでここ最近は忙殺される日々を送っている。
その一方でネスの方はようやく"あの話"がまとまってきたらしく、来年の春頃には私立探偵として自分の事務所を設立できそうだと嬉しそうに語っていた。
正直に言うと、今所属している事務所から独立して活動するという話を聞いたときは驚いた。けれど実現に向かって日々努力している姿に惚れ直している自分がいたのも事実。そんな私にとっても朗報であったことは言うまでもない。
そして今――私は晴れて恋人となったネスと共にフォーサイドを散策していた。所謂デートというものである。本当ならもう少し予定を伸ばしてクリスマス当日にでも、と考えはした。
しかしそうなれば何処も混み合うことは必至。ここ最近の激務でくたびれた身には堪えるものがある。普段から多忙なネスも当然クリスマスに休みを取れるはずもなく。
こうして二人で話し合った結果、なんとか重なった休日を利用して一足早いクリスマスデートをしようということになったのである。
午前は気になっていた人気アクション映画の鑑賞。昼は冬季限定メニューに惹かれた私の要望で、老舗の洋食レストランに立ち寄った。午後はネスの提案でバッティングセンターに向かったものの、私は自分の運動神経の衰えにショックを受けるばかり。
項垂れる私の横で連続ヒットをかましていくネスの姿には、野球少年と見まごうほどの快活さが溢れていた。
確か子供の頃はベースボールクラブに所属していたと聞いている。今年で二十六歳という事実を感じさせない振る舞い。元々童顔寄りの顔立ちというのもあるけど、それに見合うほどのコンディションを維持してきたんだろう。
そんな彼は一回も打ち返せずにいる私を見かねて、バッティングの手解きまでしてくれた。バットの持ち方や正しいフォームなどを私にも分かりやすく指導していく姿に、ますます心を惹かれていく。
互いに笑って笑われて、全力で体を動かす。それはまるで子供の頃に返ったかのような、鮮やかなひと時だった。
その後はショッピングモールで晩酌用のお酒とお高めのおつまみを買ったり。休憩がてら人気の少ない公園で身を寄せ合い、他愛のない会話を楽しむ。
このような流れで今日のデートは進行し、気付けば日没が迫る時間帯となっていた――。
「楽しかったあ。久々に思いっきり羽を伸ばせたって感じ」
「普段伸ばしてるのは掃除用具の柄だもんね」
「ちょっと、何上手いこと言ってやったみたいな顔してんの」
軽く小突くとネスは楽しげに声を上げる。こちらとしては一本取られたと思いつつ、苦笑するしかなかった訳だけど。
こうして見ると振る舞いや接し方は付き合う前とあまり変わらないのかもしれない。でもそれで良い。これこそ私とネスが心の底から望んでいた"平穏"の時だから。
幸せを噛み締めながら繋がれた手にそっと力を込めれば、優しく握り返された。私のより一回り大きく、骨ばった手に包み込まれると安らぎと愛しさが湧いてくる。
こうして指にからみつく熱に浸っていたものの、その内物足りなくなってきた。やがて深い温もりを求めて腕を組むと、ゆっくりと夕暮れの大通りを歩いていく。
道に並ぶ街路樹はどれも紅葉を綺麗さっぱりと散らしていた。枝には葉の代わりに電飾を纏わせていて、その姿は光り輝く時を待ちわびているかのよう。
「そろそろ五時だけど、まだライトアップされないのかな」
「さっき見つけたポスターによると来週からみたいだよ。電飾が取り付けられてない道もあったし、まだ準備の最中なんだろうね」
そういえば別の通りを歩いていた時に作業員らしき人達と何度かすれ違った気がする。ただでさえ広大な大都会。その街中の街路樹や低木に飾りつけをするというのだから、相当な労力がかかっていることは容易に想像できる。
"今年も本当にお疲れ様です"と、同じ肉体労働者の視点から労っている内に私達はネスの車を停めてある駐車場に到着した。
「さて……帰ろうか。スリークに」
「うん。お昼に結構食べたし、夕飯は軽めにするからね」
「僕、ハンバーグがいいな」
「……"軽め"の意味分かってる?」
ネスは今夜、私の家に泊まることになっている。明日はスリークで依頼人と対面する予定らしく、一旦自宅に帰るよりは私の家から現場に向かった方が早いからというもの。
恋人の立場としては些か複雑な理由だったけど、依頼人の為に奔走するネスの性分を理解しているから断る理由もない。私にできることならこれからも精一杯支えていくつもりだ。
***
大都会と森林地帯の間に広がる砂漠を横断した車は、やがて緩やかに速度を落とす。私の住むアパートに着いた頃には、時計は午後六時を回ろうとしていた。
「はい、到着だよ」
「運転、お疲れ様」
冷えた空気が頬を撫ぜていくのを感じながら、再び手を繋ぎ直してアパートへと歩を進めていく。私の部屋がある二階へ上がろうと、外階段へ差し掛かった時だった。
突然吹いてきた風に乗って、焦げ臭い匂いが鼻に纏わりついてきたのである。
「ねえ、何か変な匂いしない?」
「――あれだ、風上の方」
ネスが指をさす方角に慌てて顔を向けると、白く細い煙が立ち上っていく光景が飛び込んできた。場所から察するにここから然程遠くない。
住宅街から煙が上がる原因といえば火災しか思いつかない。焦りだす私とは反対に、ネスは落ち着き払った様子で口を開いた。
「ナナシは消防に通報して。僕は先に行く」
「えっ、ちょっと行くってまさか――」
私が止めるよりも早く、ネスは駆け出していった。彼の足は驚くほど速く、瞬く間に見えなくなってしまう。しかし呆然としている時間はない。私は携帯を取り出すと119番に電話をかけ、急いでネスの後を追った。
予想していた通り煙の元は一軒の住宅。私が着いた時には玄関まで火の手が上がっていた。家の前にはネスと、彼の肩にもたれ掛かるお婆さんの姿が見える。
「ここは危ないですよ。早く離れないと」
「ああ……ダメよ、まだ中に主人があ……!」
ネスの呼びかけに対して、お婆さんの口から漏れたのは嘆きの声。――彼女はお爺さんが寝ている間に近所のコンビニへ買い物に行っていたと語る。
そして帰る途中、自宅の方から煙が上がっていることに気付くも既に火の勢いは増していた。足を悪くしていたのもあり、パニックになり立ち往生していたらしい。
女性は携帯は持っておらず、その上この周辺は人通りもなく火災に気付いてもらえないという状況。手短に話を聞き終えると、ネスは彼女を落ち着かせるかのように穏やかな口調で話しかける。
「この家の勝手口は何処にあります? ご主人は何処の部屋に?」
「え、庭に入って、右手側……主人は、二階の突き当たりの寝室に……」
「分かりました。ナナシはこの人を安全な場所に連れて行って」
私には彼が何を考えているのかはっきり分かった。黒煙を見つめる瞳は決意の色に染まっていて、強い意志を感じさせるものだったから。
本当なら危険なことはしてほしくないに決まっている。でも今の彼に何を言っても引き止められないことは分かっていた。
言われた通りお婆さんの肩を支えながらすぐにこの場から離れる。庭に入ったネスは近くにあったホースを手に取り、蛇口を勢いよく捻ると頭から全身にかけて水を浴びた。
そしてすぐさま勝手口のドアノブに手をかけるも、鍵がかかっているようで開かないらしい。こうしている間にも炎は横這いに広がっていく。
消防車はまだ来ないのか。私は腕時計とネスの動向を交互に見る。その間もお婆さんは虚ろな瞳で火の粉が舞い散る家屋を見つめ、ひたすら"お爺さん……"と呼び続けていた。
「木製か、これならいける」
ネスは何やら呟くと一歩後ろに下がる。そして姿勢を低くして構えると、なんと勢いよく回し蹴りを放ちドアを蹴破ったのである。私とお婆さんが呆気に取られている間に、彼は燃え盛る家の中へ突入していった。
ネスとお爺さんの無事を必死に祈っていると、台所とは反対側の窓が耳障りな音を立てて割れ、そこから激しく炎が吹き出してくる。
「ネ、ネス……っ! ネス――!!」
無意識にネスの名前を繰り返し叫ぶも、その声は空しく響き渡るだけ。舞い上がる熱気は風に乗って私達の所まで届き、呼吸をするたびに肺まで焼け付くような痛みに襲われる。
熱気に煽られたか、或いは彼を強く想ってか。気付けば私の瞳からは雫が溢れていた。ここまで火の手が上がれば流石のネスでも、もしかしたら。そこに続く言葉がいやでも浮かび上がりそうになった所で慌てて頭を振った。
何が起きても彼を信じようと、あの時心に決めたじゃないか。最悪の展開を振り払うように、汗に濡れる拳を強く握り締めた。気付けば周囲には野次馬が集まり始めていて、それぞれ嘆息や驚愕の声を上げている。そんな時だった。
突然二階の窓が開いたと思うと、そこからネスが顔を出したのである。二階にも炎が回ってきていて、周囲の人々が一斉に声を張り上げた。
「おい、兄ちゃん! 早く降りて来い!」
「二階も燃え始めてるのよ、急いで!」
ネスは落ち着き払った様子で真下を確認すると身を乗り出し、庭に降り立った。その身にしっかりとお爺さんを背負いながら――。
歓声が湧き上がる中、彼は私達の所に走ってくるとお爺さんを地面に下ろす。彼は目を閉じたまま動かず、静かに横たわっていた。火傷といった外傷は見られないものの、服の所々が煤けている。お婆さんはその姿を見るや否やその場に泣き崩れた。
「ご主人は大丈夫、息はあります。ただ……煙を吸い込んでいる可能性が高いのですぐに病院で診てもらいましょう」
「うぅ……ありがと、ありがとう……っ」
お婆さんは声を詰まらせながら、何度も礼を口にする。その後程なくして到着した消火班によって家屋は完全に鎮火し、なんとか周辺の住宅へ燃え広がらずに済んだ。
再びお婆さんは私達に深々と頭を下げ、お爺さんと共に救急車に乗せられ搬送されていく。ネスにも手当を受けてほしいと言ったものの、自分で治療するから大丈夫だと言われ渋々頷くしかなかった。
一連の流れを見届けて安心したのも束の間、今度はパトカーが駆けつけてくる。第一発見者である私達に話を伺いたいということで、警察官に詳細を話すことになった――。
***
事情聴取を終えた頃にはとっぷり日が暮れていた。私達はくたびれた身体を引き摺りながら、今度こそ帰路につく。
「ネスがドアを蹴り破ったの見てびっくりしたよ……あんな力あるなんて思わなかったもん」
「一応ジムに通ってるんだ。探偵って体力仕事でもあるから。それにあの時は木製のドアだから良かったんだよ」
小さく頷いて相槌をうつと、改めてネスの姿を見てみる。やはり無傷というわけにはいかず、頬や手に火傷の跡ができてしまっていた。
痛々しい傷を見て胸が締め付けられたように苦しくなる。すると視線に気付いたのか、ネスはこちらを向くと目を優しく細めた。
その瞬間、ずっと我慢していたものが胸の奥底から込み上げてくる。私は溢れる感情に突き動かされるように、彼の胸に飛び込むとそのまま抱きついた。
「怖かった……もしあのままネスが、帰ってこなかったらって思ったら、」
「心配かけてごめん、ナナシ」
ネスの両腕が背中に回り、強く抱きしめられる。その温もりにまた涙が零れそうになったけれど、何とか堪えた。
ようやく自宅に帰り着くと、私は急いで救急箱を取りに居間へ向かう。自分でどうにかするとは言っていたけど、彼の傷を見ていると痛々しくて堪らない。
そんな私の腕をネスは掴んで引き止めてくる。そして空いている方の手で自分の頬の傷に触れた途端――白く柔らかな光が溢れ出した。
驚いて声を上げる間に光は溶けるように消えていき、頬から手を離すとそこは傷跡もなく綺麗な肌に戻っている。
「え……嘘、何したの!?」
「PKライフアップ。傷を癒す他に疲労回復の効果もあるんだよ。実は僕の一番得意とするPSIなんだ」
そう言ってネスは少し強気に口角を上げてみせた。よく見ると腕などにあった傷も綺麗さっぱり無くなっている。
やはり超能力というのは人智を超えた力なんだと思い知らさせる。ちなみに燃える家屋から脱出する時、こっそりあのお爺さんにも使用していたらしい。とにかく、彼の怪我が治ったのなら良かった。
ひとまず安堵の溜め息を吐くと、不意にネスが私の手を握ってきた。突然のことに肩が跳ね上がり反射的に引っ込めそうになるも、指を深く絡められてしまう。
「ちょ、ちょっと何、どうしたの?」
「実はね。お爺さんを見つけた時、炎に囲まれそうなところだったんだ。それでどうにか抜け道を探してたら、突然頭の中で声が響いたんだよ。僕を呼ぶナナシの声が」
「私の、声……?」
「その声を頼りに炎から逃げてたら脱出できそうな窓を見つけたんだ。だから、こうして戻ってこられたんだと思う」
ネスの言葉を聞いて思わず目を見開く。私が必死に叫び続けていた彼の名前。それは無意味なものではなく、しっかりと届いていたんだ。
本当に私の声で彼らを助けられたというなら、これほど嬉しいことはない。それと同時に途轍もなく照れくさくなり、一瞬にして顔が火照りだす。
そっと視線を上げればすぐ傍にネスの顔があった。互いの瞳が重なり合うこと数秒。心臓が早鐘のように鳴り響いて、思考が上手くまとまらない。
「……真っ赤になってる。可愛い」
「やだ、からかわないでよ! もう、早くお風呂入ってきてっ。タイマー予約してあるから!」
「はいはい。そうだ、一緒に……なんてどうかな?」
突如耳元で囁かれた言葉に身も心も硬直してしまった。意味は理解できていても、想像することを脳が拒否している。
その隙を突かれてしまい、気が付けば私はネスの腕の中に収まっていた。我に返り慌てて離れようとするものの、押さえつけられ身動きが取れない。
「ネ、ネスっ! 私、心その他諸々の準備が――」
「へえ、準備ができたら良いってこと?」
違う、そういう意味じゃない。抗議しようと口を開くも、唇を塞がれ言葉を発することができなかった。
何度も角度を変えつつ深いキスを繰り返している内に、脳内は霧がかかったようにぼんやりしてくる。やがて離れた時には完全に力が抜けていて、ネスに寄りかかるようになってしまった。
彼はそれを見計らい、私を抱き上げて脱衣所へと向かう。抵抗する気力は残っておらずされるがまま。
「……まだ夕飯の用意もしてないってのに」
「そんな顔しないで。風呂出たら一緒に作ろう?」
「本当に、いっつも強引なんだから」
「でもナナシは、こんな僕を受け入れてくれてる」
止めと言わんばかりの爽やかな微笑みを前に、私は今度こそ抗う術を封じられる。これから何年経とうとも、ネスの笑顔には敵わない気がする。
二年前の私なら意地でも負けを認めずに、彼の真っ直ぐな想いから目を背けようとしただろう。だけど今では、素直に受け入れることに幸せすら感じていた。
やはり私は自分で考えている以上に単純な女なのかもしれない。しかし、”それでもいいか"と思えるくらいに私はネスに惚れてしまっているんだ。
「はあ……変なことはしないでよ」
「変なことって、例えば?」
「恍けるなっ」
そう言ってネスの額を軽く叩けば、これまた朗らかな声が上がるのだった――。
気付いたら予定の倍ぐらいの長さに。少し際どい描写があるけど、まあいいか…。
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