某日、路地裏にて
世間の裏で広がり続けていた悪夢、"黄金像事件"が収束してから二ヶ月が経つ。猛暑を乗り越えた身体を優しく癒してくれた秋の風は、次第に顔色を変えていく。そんな十一月のある夜。ビジネスホテルの一室で、スマホから聞こえてくる愛しい声に僕の頬は緩みきっていた。
『いいね。来月のデート、そこも行こうか……ってやだ、もう十一時過ぎてる。明日も早いし、そろそろ寝ないとなあ』
「もうこんな時間か……結構話し込んじゃったな」
『ネスも早朝から依頼の仕事入ってるって言ってたでしょ。寝不足は身体に毒なんだから……しっかり休みなよ』
「分かってるよ。僕ももう寝るから。近い内にまた電話するよ。おやすみ、ナナシ」
名残惜しくも就寝の挨拶を交わすと通話を切り、画面に映し出された時刻に思わず苦笑した。寝る前の僅かな間でもと、恋人に電話をかけてから既に二時間が経っていた。
ナナシとの電話はいつも時間を忘れてしまいそうになる。そんな彼女は久方ぶりに恋をする楽しさを思い出させてくれた女性でもあった。
風呂は済ませてあるのであとは横になるだけだが、今夜はすぐに寝付けそうにない。窓際に歩み寄ると、眼下には都会ならではの輝きが散りばめられていた。
深夜帯にも関わらず四方へ動き回る光達は、いまだ車や人々の流れが活発である証。流石イーグルランドが誇る大都市"フォーサイド"。眠らない街とはよく言ったものだ。
窓枠に寄りかかり無数の煌きを眺めている内にふと、ひと昔前のことを思い出していた。初めてナナシに自分が超能力者であることを明かした日。指先を纏う色とりどりの光。それに劣らない輝きを瞳に宿らせていた彼女。
今思えばナナシに心奪われ始めたのは、あの頃からだったんだ――。
時は今から一年と半年前の、春の入り口まで遡る。当時の僕は二十四歳。丁度ナナシと出会い、友人として交際を始めてから五ヶ月ぐらいの頃の話だ。
この日はフォーサイドで立ち寄った喫茶店で偶然買い物帰りのナナシと会い、コーヒー片手に他愛もない話に花を咲かせていた。
この頃には僕達もすっかり打ち解けていて、出会った当初のぎこちなさは微塵も感じられない。話の種も世間話や互いの趣味といったものだけど、ただ純粋に笑いあえるこの一時が心地良い。
多様な依頼を受け、時には人々の抱える闇に触れる日々。その中でナナシと過ごす時間は僕に平穏と癒しをもたらしてくれていた。
「そういえば先月貸した小説読み終わった?」
「まだ。今三分のニぐらいまで読んで、行方不明だった仲間と再会した辺りのところかな」
「そこから面白い展開になるけど、ネタバレになっちゃうしー……言えないなあー」
「あからさまに言いたげな顔して。今夜帰ったら最後まで読むさ。本は次会った時に返すからね」
互いにコーヒーを飲み終え、腕時計を見れば丁度十七時。そろそろ事務所に戻って今回引き受けた依頼についての報告書をまとめないと。それを伝えると、ナナシも立ち上がり背凭れにかけていた薄手のコートを羽織りだした。
僕としては大分リフレッシュすることが出来たし、心身ともに軽くなった気がする。さて、もうひと頑張りかな。二人分の伝票を持ってレジへ向かうとナナシは慌てた様子で追いかけてきた。
「ちょっとネス。私、自分の分は払うからね?」
「いいじゃないか、たまには奢らせてよ。僕の愚痴にも付き合ってくれたし」
「そんな、いいっての。大したことしてないから」
財布を出そうとするナナシを制するも、彼女は素直に頷いてはくれない。全く、この人は変なところで頑固なんだよな。しばらく"奢る"と"自分で払う"の応酬が続く中、彼女の強情さに呆れつつ窓の方に視線を向けた時だった。
"これは、確か――"
夕暮れに照らされた人の波。そこに混ざり流れゆくひとつの気配を、僕は逃さなかった。
普段"奴等"だけが纏わせている仄暗く不気味な気配。意識を集中させて軌跡を可視化すると、それは一本の筋となって一人の男へと繋がっていく。
その男は大柄な体格に紺色のトレンチコートを纏い、黒のハンチング帽子を深く被り目元を隠していた。奴は間違いなく、僕の所属する探偵事務所が長年追ってきた"組織"の構成員の一人。
以前から奴等の僅かな痕跡を掴んでは寸での所で振り切られたものだけど――まさかあちらから姿を現してくれる日が来るとはね。
「どうしたの、急に黙り込んで……何か顔恐いし」
「ちょっと別件を思い出したから僕はここで。悪いけど一緒に払っておいて」
「えっ、ちょっと、ネス!?」
戸惑うナナシに二人分の料金となるドル札を押し付け、僕は店の外に飛び出した。背後から響く彼女の声には応えられない。折角訪れたチャンスを逃すわけにはいかないんだ。
人ごみを掻い潜りつつ、ただひとりの男の背を睨みながら走る。すると奴は突然脇道へと逸れ、そのまま路地裏へと入っていった。
もしや尾行に気付かれたか。しかし奴は一度も振り返ることはなかったし、こちらの姿を視認していたとは思えない。ならば別の理由で此処へ――。
僕は路地裏に差し掛かると、今度は足音を消して気配を殺しつつ進む。男と一定の距離を保ちつつ進んでいくと、やがて錆び付いた金網のフェンスが見えてくる。
その向こうにはやや広めの空間が広がっており、奥には錆び付いたバスケットゴールの台が見えた。
左右の壁にはスプレーの落書きが連なっていて、地面には何本ものペンキの剥がれかけた白線。玩具やボールが転がっているのを見るに、この付近に住む子供達の遊び場といったところか。
男がフェンスの前で立ち止まり、僕は近くの曲がり角に身を隠そうとした時だった。
「ノコノコとついて来てくれて……ありがたいぜ、全く」
男はいきなり振り向くと同時に懐から何か取り出した。そして手にしていた物体を見た瞬間――僕は反射的に身を翻す。
即座に角に身を隠すと、先程まで立っていた場所の壁には一発の銃声と共に焦げ臭い穴が開いていた。短く抑えられた音からして恐らくサイレンサーを装着している。
壁を背にして覗き見た先には、帽子のつばを引き上げ下卑た笑みを浮かべる男の姿。
「何で尾行がバレたんだ、とか思ってんだろ? 俺等にはわかるんだよ。お前らが発してる異質な気配ってやつを」
男の地を這うような野太い声が近付いてくる。察するに僕と男の距離は三、四メートルといった所か。
しかしこの男、敢えて尾行させた上でこの路地裏の奥地まで誘い込むとは。勘付いた途端に姿をくらましていた他の連中と比べ、随分余裕げなものだ。
「上の奴らも言ってたぜ。お前ら探偵共のことを"いい加減目障りだ"、ってな」
「へえ……やっと振り向いてくれる気になったのかな」
やはり組織の関係者で間違いはない。僕としてはいち早くこの男を拘束したいところだ。事務所に連れ帰ることさえできれば色々と引き出すことが出来るだろう。
それに先程の発言には引っかかるものがある。あれではまるで僕達みたいに――いや、考えるのは無事捕らえた後だ。
思い切って壁の影から飛び出すと即座にシールドαを展開させ、銃弾を防ぎつつ隙を伺う。
「その化け物じみた力でさぞかし美味い汁を吸ってきたんだろうな!」
吠えるように吐きつけてくるのは軽蔑の意。畏怖、侮辱――そういったものはこの職に就いてからというもの、ターゲットを捕らえる度に散々向けられてきた。今更言われたところで、さして心に響くものはない。
次に撃ってきたタイミングに合わせてシールドβに切り替えることで銃弾を反射し、男の持つ拳銃を弾き飛ばすと一気に距離を詰める。
そして人差し指にPSIを纏わせ、奴めがけて放とうとするも――突如僕の手から輝きが消え失せた。戸惑う間もなく今度は胸めがけてナイフが突き出され、咄嗟に横に転がることで回避する。
「ご自慢の力を失った気分はどうだ? 俺が何の対策もせずにお前らみたいな化け物を誘い込むかよ」
にやりと醜悪な笑みを深め、男は手に持っていた装置を握り締めていた。遠い昔。かつて子供の頃にした"冒険"の中で、僕は確かにあれを目にしていたはずだ。
記憶と憶測が正しければ、あれは"アンチPSIマシン"。起動中は周囲のサイコパワーを封じるという厄介な代物だけど、今の僕にとっては障害ですらない。
「それじゃあここいらで消えてもらうぜ」
勝利を確信するかのように、瞳を狂気の色に染めながらナイフを振り下ろしてくる男。対する僕は構えを取ると、迫ってくる腕を片手で弾いて流すことで相手の重心を崩す。
よろめいた隙に腕を掴んで捻りあげ、その勢いで鳩尾へ一撃を与える。奴は短く苦しげな声を漏らすと、力が抜けたように倒れこんだ。
このように、戦う手段は幾つも持っていて損はない。以前ランマで親友から教わった体術、そしてジムで鍛えてきたことがしっかりと活きている証。
他に武器を持っていない所を見るに、恐らくこの男は僕のPSIを封じるだけで勝てる気になっていたんだろう。
僕が能力に溺れているように見えたのならそれはとんだ思い違いだ。とはいえ、相手が油断してくれていたからこそ無傷で済んだというのも事実で。
それにしてもこの男、行動や思考が単純すぎて本当に組織の一員なのかと疑ってしまうほどだ。これでも僕らにとって貴重な手がかりとなる存在ではあるけど。
「こんなものを用意した所までは良かったけど」
落ちているアンチPSIマシンを拾い上げると電源を落とし、上着のポケットにしまい込む。そしてスマホを取り出すと事務所に連絡を入れ、男を回収するように伝えた。話していた先輩の声が僅かに震えていたのは、きっと気のせいではないだろう。
とにかく、これでようやく例の組織の懐へ近付けそうだ。こいつが素直に情報を出してくれるかは別として。
静寂の中フェンスに背を預け、大きく息を吐いた時だった。奥の道から何者かが駆けてくる気配がする。まさか仲間が潜んでいたというのか。すぐさま身構えるとそこに現れたのは――。
「ネス! やっぱり、ここにいたんだ……!」
薄暗い通路の奥から姿を現す一人の女性。膝に両手をついて、乱れた呼吸を整えようとしているのはナナシだった。額に浮かぶ汗を拭い去りつつ顔を上げた彼女は、安堵の表情を浮かべている。
「お金押し付けたと思ったら急にこんな路地裏に入っていくし、嫌な予感して後を追ったら銃声みたいな音が聞こえてくるしで……心配してたんだよ!?」
僕の肩に掴みかかってきたナナシの声は上擦っていて、瞳は小刻みに揺らめいている。まさか心配してこんな所まで来るとは思わなかった。夕暮れの路地裏を一人、しかも銃声が聞こえても足を止めずに僕を探してくれていたなんて。
取り敢えず落ち着かせるため彼女の肩に手を掛けようとした時だった。今まで倒れていた男が上体を起こし、地を這いつくばりながらも落ちていた拳銃を拾い上げたのである。
「は、はは……油断しやがって!」
「全く、往生際が悪いな」
「顔を見られた以上そこの女にも死んでもらう」
銃口がナナシに向けられたと同時に、僕は右手を振るっていた。
指先から放たれた光は男の全身を包むように浸透していき、奴は膝から崩れ落ちてその場に倒れる。咄嗟の催眠術が効いてくれて安堵するも、僕は取り返しのつかない局面に踏み込んでいたことに気付く。
とうとう、ナナシの目の前でPSIを使ってしまった。彼女は僕の横で身を強ばらせたまま、地面に倒れ伏す男を凝視している。その後ゆっくりと、恐る恐るといった様子で僕に目を向けてきた。
「あのさ、ネス……って、」
小刻みに震えるナナシの肩。大きく見開かれた瞳。今にその腕で僕を突き放すんだろうか。もう、今までのようには接してくれないんだろうか。
「そうだよ、君が今考えてる通り。僕は――」
「本物の"超能力者"……って、ことだよね? 本当にいたんだ、凄い!」
「え……?」
思わず間抜けな声を出してしまった僕を誰が責められよう。あまりにも予想外の反応が来たら、誰だって思考が止まってしまうだろう。
そんな僕の様子に気が付かないナナシは興奮気味に目を輝かせていて、頬まで紅潮させていた。完全に怖がられるかと思ったのに、まさかここまで喜ばれるなんて。
「てことは "サイコキネシス"とかさ、念力で物を動かせたり出来るんだよね! テレポート的なこととかも、」
「待ってナナシ。一応聞くけど……僕のこと、怖いとか思わないの?」
「全然。今だって私のこと守ってくれたし。むしろ黙ってたとかないわー」
「ないわー、って。普通こういうのって隠しておくものだろ……周りに知られても良いことじゃないしさ」
"言われてみればそうだけど"と呟くナナシの表情は期待の色を宿していて、場違いにも惹き込まれそうになる。
「そもそも……超能力者であろうがなかろうが、私にとってネスはネスだよ。だから、今更私に気を遣って態度変えたりなんてナシだからね」
真剣な声色で放たれた言葉は、僕の埃まみれの憂いを跡形もなく吹き飛ばしていった。そして今まで燻っていた熱が勢いを取り戻していく。これは他でもなく、誰かを愛おしいと感じる温もりに似ていた。
彼女は未知の力を目にしても恐れることなく、ありのままの本当の僕を受け入れてくれたんだ。突如湧き上がってきた想いに浮かされ、僕はそっとナナシの背中に腕を伸ばしそうになるも――それは叶わなかった。
「そうだ! そもそもネスはこんな所で何してたの? この人ピストル持ってるし、まさか危ない依頼を引き受けたんじゃ――」
「えっ、だからそれは……」
ほんのり甘やかなムードを突き崩していく激しい質問攻め。今のナナシを宥めるのは並みの依頼をこなすより難しいだろう。
これは参ったな、と頭を掻きつつも僕の口許は勝手に緩んでしまうのだった――。
***
大通りに戻る形で路地裏を進む中、ナナシに嘘を織り混ぜた事実を説明することでどうにか誤魔化すことができた。
ついでに僕が超能力者だということについても口止めしておく。とは言っても漏れたところで誰も信じたりはしないだろう。だけども僕にとってはもうひとつ重要な意図があるとだけ言っておく。
「ネスはまた仕事入っちゃったんだね……絶対無茶はしないでよ?」
「大丈夫、分かってるよ。もう暗いし、スリークに戻ってからも気をつけて」
彼女を大通りまで送ると、路地裏に引き返して先輩と落ち合う。眠ったままの男を車の後部座席に運び、僕達も乗り込むと事務所へ。道中、僕の報告を聞いた先輩は呆れた様子で溜息を漏らしていた。
「ったく、無事だったからいいものの……せめて俺達が行くまで待ってろよ」
「すみません。滅多に訪れない機会だったもので、先走ってしまいました」
「まあ……気持ちは分からないでもないがな」
先輩はそれ以上何も言うことなく、黙々と車を走らせる。そんな彼の横顔には期待に満ちた明るい色が滲んでいるのだった。
――数時間後、男が意識を取り戻したことで本格的な尋問が始まった。結果からいえば有益な情報は得たものの、真に求めるものはまだ霧の中にある。
まず、僕が捕らえたあの男は最近入ったばかりの下っ端に過ぎないということ。奴曰く、簡単な命令をこなせる駒として雇われただけであり、組織の目的すら聞かされていないという。
僕を路地裏に誘い込んだのも、組織のためではなく単に能力者狩りをしてみたかったからということ。警戒心のない行動の数々もこれなら頷ける。
所長の”サイコメトリー"によって記憶を読み取るも、やはり組織の根幹とまでは至らず。判明したことといえば、連中は長年手掛けていた"何か"を遂に完成させ、それを今年の夏頃に大量製造するということ。
肝心の名称は複数の隠語で呼ばれており、所長の推測では『その"何か"こそが組織の最終目的に直結するもの』とのこと。この情報をどう活かすかが今後の課題となりそうだ。
それと、男はアンチPSIマシンとは別に小型の装置を隠し持っていた。それはピアスのような外見をしており、なんと超能力者が持つ特定の波長を感知できる仕組みになっていた。
やはり予想していた通り、組織の人間は僕達による追跡を事前に察知できるような方法を編み出していたんだ。
対超能力者用のアイテムを作り出せる技術を保有しているとは、僕らが追っているのは想像以上に厄介な存在かもしれない。そんな懸念事項を抱えながらも、この日は解散となった。
帰宅して早々、夕食を済ませた後はゆっくりと風呂に浸かる。最近は仕事漬けでシャワーを浴びるに留めていたのもあり、久々の湯船はやはり格別だ。
疲れきった心身ともに癒される感覚は筆舌に尽くしがたいものがある。湯気に包まれる中。浴槽の縁で腕を組み目を閉じると、瞼の裏に浮かんできたのはナナシの笑顔。
この日、僕は意図せずして自身の最大の秘密を明かしてしまった。それでも彼女は僕を恐れることなく、息をするように受け入れてくれて。
それどころか向けられたのは、子供がヒーローに抱くような憧れを宿した輝き。そんなナナシの度胸に触れることで、僕の心の中では彼女への恋慕が芽を出し始めていた。
「まさか、こんな形で"落ちる"なんてな」
恋の始まりはいつ、何処にあるのかなんて誰にも予測できない。気付いた時には既に落ちているものなんだ。それこそまるで、重力のように抗いようのない力強さをもって。
次に彼女と会う時はどんな駆け引きをしてみようか。なんてことまで想像しながら、湯けむり漂う浴室でひとりほくそ笑むのだった――。
ナナシさん出番控えめ。組織についての補足的な意味も含めてたら案の定長くなりました…。
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