第二の始まり

Morning glow

某日、彼の家にて(前)

※この話は前半部分のみです。後半は"裏庭"の方に上げています。


 時は三月。厳しい冬を耐え忍んだ生命が一斉に目覚め、蕾がほころび始める季節となった。あとひと月も経てば開花の時が訪れるだろう。このスリークの町も春の陽気にあてられたか、人々は皆どこか浮かれ気味にも感じられる。
 かくいう私も例に漏れず、身も心も軽く仕事に精を出す日々を送っていた。そんなある日のこと、私の携帯に一件のメールが舞い込んできた。差出人は恋人のネスからもので、"久々に会いたい。今週末、予定は空いているか"といった内容。
 今までは携帯で声だけは交わしていたものの、顔を合わせるとなると中々厳しいものだったから嬉しくてたまらない。緩む頬を抑えられないまま、私は了承の意を伝える返信を送った――

***

 日曜日の昼下がり。約束通り、私はネスと共に馴染みの喫茶店に来ていた。テーブルを挟んで向かい合う中、彼は目の前のコーヒーと私を交互に見ては苦笑を浮かべている。

「あの……さっきからどうしたのネス。言いたいことがあるなら、いつもみたいに言ってみてよ」
「ああ、その」

 先程からなんとも歯切れの悪い言葉が続くと、段々と不安になってくる。最悪の事態を想定するあまり、膝の上に乗せた拳に力が入ってしまう。もし突然別れ話を切り出されるものなら、私はその衝撃に耐えられるだろうか。しばしの沈黙の後、ネスは顔を上げるとようやく口を開く。

「まずは近況から聞いてほしいんだ。いいかな」
「う、うん。大丈夫だけど……」
「ありがとう、少し長くなるんだけどさ――

 彼曰く、四月の頭には事務所も完成するとのことで、彼による独立への準備は着々と進められていた。開業する際に必須である"探偵業届出証明書"も無事に交付され、いよいよ来月から彼による探偵事務所が動き出すというわけだ。
 新たな事務所には居住スペースも完備されていて、完成後はその新居に引っ越すことになる。今まで彼はフォーサイドにあるマンションの一室を借りていて、今月末には明け渡す予定になっているとのこと。

「もうそこまで話が進んでるんだ。目標実現まであと少しじゃん!」
「ああ、やっとここまで来たって感じだよ」

 そう話すネスの表情からは、達成感に満ちた力強い笑顔が溢れていた。私も嬉しくなって自然と心が軽くなる。
 しかし明るい話題なら、先程のように言い淀む素振りを見せることはないはずだ。私の中に疑問が芽生えると同時に、彼は再び口を開く。

「あまり使ってない部屋だけど、それなりに思い入れはあるんだ。だから、最後の週末はあの部屋で過ごそうと思っててさ。そこでなんだけど……ナナシが良ければ、その日僕の家に来ない?」

 突然の提案に私は急いでスマホを取り出すと、スケジュールアプリで予定を確認する。確かその日、仕事は休みのはず。先約もない。となれば断る理由は何処にもなかった。
 
「うん、予定空いてるし大丈夫だよ。ネスの家初めてだから、楽しみかも」
「良かった、決まりだね。当日は車で君の家まで迎えに行くよ」
「ありがとう。ところでこれってさ……所謂"お家デート"ってやつ?」

 少し控えめに訊ねてみれば、ネスの頬はほんのりと赤らんでいた。そして照れ臭さを誤魔化すように頭を掻きながら微笑む。
 そんな仕草からは微かな色気が滲んでいて、次第に直視出来なくなってきた。

「……まぁ、そう言っていいかもしれないな」
「そんな顔しないでよ……こっちもかなり照れるんだけど。とにかく当日、楽しみにしてるから」

 互いに目を合わせられないまま、静かに頷くだけ。恋人の家に赴くというのは、つまりそういうことで。ネスもそれを意識しているからこその態度なんだろうか。別に彼とはこれが初めてではないのに今更緊張するなんて、なんとも奇妙な感覚だけども。それはともかく――こうして来週の土曜、ネスの家に初訪問する運びとなったのである。

***

――そして迎えた当日。私が準備を済ませるとほぼ同時刻、ネスは愛車に乗って迎えに来てくれた。
 この日の私は服装には普段以上に気を配り、メイクだってより念入りにしたつもり。今回は通常のデートみたいに外を出歩くわけではないというのに、どうしてこんなにも気合いを入れてしまったのか。
 ネスはというと普段通りに落ち着いた様相でまとまっていた。彼は私の姿を視界に入れた途端目を丸くする。やはり張り切りすぎたんだろうか。

「やあナナシ、なんだか気合入ってるね。とても……綺麗だ」
「そ、そう? ありがと……」

 赤みがかった頬を掻いてハンドルへと視線を逸らすネスの姿は、私の心に種火を宿らせた。顔に嬉しさが滲むままに礼を告げると、彼は優しげに微笑む。助手席に乗り込むと、車はゆっくりと発進した――

 砂漠を横断し大都会フォーサイドに着くと、一先ずデパートで買い物をしていくことになった。夕飯の食材を買い込み、最後はドラッグストアに向かう。そこで今の私達が買うものといえば、石鹸といった日用品と――今夜には欠かせない例のもの。
 買い物を済ませるとネスの住むマンションの前に車を停め、エレベーターに乗ると最上階を目指す。目的の階に着き廊下に出ると角部屋の前で立ち止まり、彼はポケットから鍵を取り出すと解錠する。こうして私は、初めてネスの家に足を踏み入れることとなるのだ。
 通されたリビングにはソファーにテーブル、テレビといった必要最低限の家具しか置かれていない。棚にはファイルが隙間なく詰められていて、背表紙にはそれぞれ日付が記されている。

「それ、今まで受けてきた依頼や事件に関する情報をまとめてファイリングしてあるんだ」
「へぇー……ちゃんと整理されてるんだ」
「まあね。ほら、適当に座って待ってて」

 ネスは買ったものを提げてキッチンの方へ向かうと、飲み物を用意しはじめた。ソファーに腰掛けた私はその間に室内を見渡してみる。
 滅多に家に帰らないというのは本当らしく、お世辞にも生活感のある空間とはいえない。それでも確かに、彼は数年間この部屋で自分だけの時間を重ねてきたのである。

「お待たせ、紅茶で良かったかな」
「うん、ありがと」

 カップを受け取ると、私は中身を一口飲む。程よい甘さが口に広がり、ハーブの香ばしさが鼻腔を抜けていく。隣に座ったネスも同じように紅茶を飲むと、小さく息をつく。
 お互い無言のまま、静かな時間が流れていく。やがて空になったカップをテーブルに置く頃には、暖かな充足感に満たされていた。

「美味しかったあ……これ、さっきネスが買ってたやつ?」
「ああ、ナナシが好きそうな味を選んでみたんだ」
「正解。よく分かったね、流石探偵さん」
「それ程でもないよ。今までの付き合いもあるし、味の好みくらい分かってくるさ」

 そう言ってネスは得意気に笑うと、私の肩に腕を回してくる。引き寄せられるがままに身を預けると、彼は優しく抱き締めてくれた。
 心地好い温もりに包まれる中、私もネスの背中に手を回す。ふわりと漂う彼の香りが胸を満たす。この包み込まれる瞬間が堪らなく好きで、つい胸元に顔を埋めてしまう。
 するとネスは私の頭を撫でてくれて、それがまた嬉しくて。もっと触れてほしいという欲が膨らんでいった。そうしているうちに彼の手が髪に触れ、耳に触れ、首筋まで下りてくる。その手つきはとても繊細で、壊れ物を扱うかのようだった。
 思わず声が漏れてしまい、誤魔化すように口を閉じる。しかしその反応を楽しむかのように、ネスは何度も同じ動作を繰り返す。

「ちょっ、ネス……くすぐった……」
「声、我慢しなくていいんだよ」
「あっ、だ、だめだってば……ひゃあっ!」

 制止の声も虚しく、遂には背中に這わせていた手を服の中まで侵入させてきた。直接肌に触れられたことで、思わず身体が強張ってしまう。

「……と、今はここまでにしておこうか」
「えっ」
「今から夕飯作らないと遅くなっちゃうよ。今晩は二人でカレー作るって決めたでしょ」
 
 ネスは事も無げに立ち上がると、再び台所へと向かう。慌てて時計を見れば、確かに夕飯には良い時間帯だ。
 名残惜しさを覚えつつ私も立ち上がり後を追うと、二人で並んで調理に取り掛かる。まるで焦らすかのような素振りに、疼く体は熱の行き場を見失っていた――

***

 食卓には二人で作ったカレーライスが並ぶ。スパイスの効いた匂いに誘われるようにスプーンを手に取ると、早速一口。甘すぎず辛すぎない程よい味付けで、食も進んでいく。向かいではネスも顔を綻ばせながら味わっていた。こうして一緒に作ったものを食べているという状況が何より嬉しい。

「ん、美味しい! あのスパイス入れて正解だね」
「君が急いであれをカゴに入れてきた時は驚いたけど、大当たりだったな」

 お互いに微笑みを交わすと、再び食事に集中する。しかし彼は私から目を逸らさずに見つめたまま。この状況に私はデジャブのようなものを感じていた。食事の最中。熱い視線。この状況――以前にも。

「どうしたの? さっきから手が止まってるじゃん」

 私の記憶が確かなら、彼が次に言う台詞はきっと。

「ああ……何かこうしてるとさ、新婚さんみたいだなって思って」

 やっぱり、そう。忘れるわけがない。デジャブとは都合のいい言葉だと自覚しつつ、私自身も心のどこかでその台詞を望んでいた。
 そして同じ言葉を受けた当時の私は、彼の前で盛大に吹き出してしまったんだ。今思えばとんでもない醜態を晒してしまった。でも今の私は違う。彼が想いを向けてくれるなら、真っ直ぐに受け止めるだけ。

「ほお、私の方はいつでもOKだけど?」

 食べる手を止めて微笑んで見せれば、ネスはその頬を赤く染めていく。そして意を決したように席を立つと、こちらに歩み寄ってくる。
 そのまま顔を寄せられると、頬を両手で包まれた。その瞳には真剣みを帯びたものが見え隠れしていて、私はこれから起こるであろうことを想像して思わず目を瞑る。
 真っ暗な視界の中、額に柔らかな感触が訪れた。それも一瞬のことで、すぐに離れていってしまう。ゆっくり目を開くと、切なそうに眉を下げるネスの顔があった。

「ナナシ……後、もう少し待ってて。時が来たら、必ず伝えるから」
「うん、いつまでも待ってる……と言いたいところだけど、あまり待たせ過ぎないでよね」

 そう言って悪戯っぽく笑ってみせる。待つことには慣れているけど、少しだけ意地悪をしてみたくなった。
 ネスも散々心当たりがあるからか、戸惑いを見せると共に苦笑いを浮かべて頭を掻きだす。そんな姿が堪らなく愛おしくて、今度は私から紅に染まる頬に口付けた――

長い間一話丸々裏庭に置いていたものの、前半部分だけこちらに移動。

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