新たな一歩

Morning glow

某日、僕の事務所にて

「冷蔵庫の配置終わりました。これで家具は全て運び終えましたが、玄関に積んである分も奥の部屋に移動させましょうか?」
「いえ、残りは自分で入れていくので大丈夫です。ここまでお手伝い頂きありがとうございました」

 引越し業者を見送った後、僕は玄関に溜まっていたダンボールをリビングに運んでいく。四月も半ばの午前十時。開け放たれた窓の外では時々桜の花びらが舞っていて、柔らかな日差しが艶々のフローリングを照らしている。
 新居特有の匂いに包まれて心が浮き立つのを感じながら次々とダンボールを運んでいき、最後に調理器具や食器の入ったダンボールをキッチンに置くとようやく荷物を片付けることが出来た。
 しかし休憩する前にもう一度見ておきたい所がある。一旦玄関を出て外階段を降り下の階にある扉のノブに手を掛けると、ゆっくりと回していった。僕がこの雑居ビルに移住することを決めた一番の目的。

「今日からこの部屋が僕の探偵事務所になる……」

 昔から使い込んできた仕事用のデスクとノートパソコン。今まで受けた依頼や事件のデータ、培ってきたノウハウが詰め込まれた棚。ゆとりのある応接間。以前から目指していた景色が目の前に広がっている。
 あの"黄金像事件"を切っ掛けに自分を試すため、長年勤めていた事務所から独立した僕。一人の探偵として活動すると決めたあの頃から、ここに至るまで本当に色々と準備を重ねてきた。
 埃ひとつない部屋の中心に立てば、自然と背筋が伸びるというもので。この春、此処から僕の探偵として第二の人生が始まる――

***

 その翌日、恋人のナナシが早速土産を片手に新居へ遊びに来てくれた。更にまだダンボールに残っていた日用品や小物などを各部屋に配置するのも手伝ってくれて、あっという間に作業は完了した。
 お陰で夕方には生活環境が整えられ、お礼の意味を込めて夕飯を振る舞うことにしたんだけど、ここでナナシの頑固な一面が顔を出し始める。

「いいよネス、私も手伝うって。昨日から大変だったでしょ?」
「いや、遊びに来てくれた君にそこまでさせられないよ」
「いいから気にしないの。二人で作った方が早いし」

 と言いながら汚れの無い綺麗なキッチンを前にやたらウキウキとして見えるのは気のせいだろうか。新品のシンクやコンロを眺めるナナシは何処か楽しげで、ここは素直に手伝ってもらうことにした――

「お、肉汁凄い……やっぱり君の作るハンバーグは最高だな」
「ありがと、これだけは自信あるからね。ネスの作ったスープも優しい味してて美味しいよ」

 出来上がった料理を囲んで食事を進めながらナナシと会話を楽しむこのひと時に、新生活への緊張で凝り固まっていた僕の心は自然と解されていく。やはり彼女は僕になくてはならない大切なものをもたらしてくれる特別な力があるんだ。

「遂にネスが探偵事務所の所長かあ……でも驚いたよ。まさかこのスリークに事務所を構えるなんて思いもしなかったもん」
「まあ言ってなかったしね。この町はオネットからフォーサイドの中間にあるし、アクセスも良さげかと思って。それに、」
「それに?」
「ナナシに何かあればすぐに駆け付けられるから」

 このスリークを選んだ理由として、一二を争う程に強い理由。それも去年の黄金像事件の際、ナナシが強盗に殺されかけた光景が脳に焼き付いていたから。あの時、もし僕が数分でも遅れていたら――今でもそれを思い出す度に背筋が凍りつく思いだ。だからせめて少しでも彼女を守れる距離に居たかった。

「そ、そっか……ありがと」

  照れくさそうに頬を赤らめて俯くナナシ。そんな彼女を見つめながら、僕もまた気恥ずかしさを感じていた。実際に言葉にして伝えるとくるものがあるな――そして食事を終えて時計を見れば午後八時。そろそろ彼女をアパートまで送っていこう。
 車でたった十数分の距離だし、これからは会おうと思えばいつだって顔を見せに行ける。そう思うと胸の奥が再びむず痒くなっていく気がした。
 改めて実感が込み上げてくるのを感じながら腰を浮かせるも、一方の彼女は中々立ち上がろうとせずに膝の上で何度も手を組みなおしていた。

「どうしたのナナシ、もしかして具合悪い?」
「違うよ。あの……実はネスに協力してほしいことがあって。勿論、正式に"依頼"として」

 思わず固まってしまった。まさか自分の恋人が依頼人第一号になるだなんて夢にも思っていなかったからだ。でも彼女が本当に困っているならすぐにでも助けてあげたい。

「分かった。それなら下の階の事務所に行こう。そこで話を聞かせてくれないかな」
「うん……ありがとう」

***

 早速応接間のソファに座った僕とナナシ。曇りのないガラスのテーブルを挟んで向かい合う中、彼女は事務所の内装などを眺めた後おずおずと口を開く。一体どんな依頼なんだろう。やはり人探しか、それとも何らかの調査か――

「おぉ……探偵事務所ってこういう感じなんだ。なんか緊張するね……ってそれは置いといて、実は猫探しを手伝ってほしくて」
「えっ、猫……?」

 重々しい空気だっただけに内心拍子抜けしてしまったけれど、ナナシの目は真剣そのもの。彼女曰くオネットの実家で飼っている猫が一週間ほど前から行方不明だということを、母親からの電話で知らされて以降心配で堪らないというものだった。元々気難しい性格の猫で何社かの専門家に頼んでも全滅だったらしい。

「その子、昔お婆ちゃんが亡くなった年にふらりと私達の所に現れた猫で……両親は"お婆ちゃんの生まれ変わりだ"って喜んで家族に迎えたんだよね」

 特徴は家族以外には一切懐かない雌猫とのことで、年齢からしても老猫の域に入っている。僕の見方ではそれほど遠くまで移動できるとは思えないけど、万が一怪我をしていたらという可能性もあるか。

「お願い! あの子、もう歳だし……私もずっと心配で。お金なら言い値で出すから……!」

 言い終えると同時に思い切り頭を下げてきたナナシ。ここまで懇願されて断るわけにはいかない。それだけ大切に飼われている猫なんだ、必死になるのも当然だ。

「ナナシ、顔を上げて。君の実家の猫は僕が見つけ出して見せるよ。だから安心して」

 ナナシの手を包み込み、渦巻いているであろう不安を追い払うように微笑んでみせる。すると彼女は今にも泣きだしそうな顔で頷いてくれた。さて、僕の探偵事務所初の依頼だ。なんとしても成功してナナシの笑顔を取り戻してみせるさ――

***

 その翌日の午前九時、僕はナナシと共に車でオネットへと向かっていた。僕の故郷でもあるあの町に行くのは、例の"黄金像事件"の調査をしていた頃に像を探した時以来だ。その際に少しだけ実家に顔を出してみたものの、母さん達は相変わらず底抜けに明るく呑気にしていたものだからある意味安心した。
 ナナシの実家へは既に彼女から連絡を入れてあり、ご両親とも家で出迎えてくれるそうだ。ただし今回は仕事上での話という訳で、僕達が恋仲だということは一旦隠しておいてもらっている。
 これは話を円滑に進めたいというだけでなく、依頼人との関係を抜きに一人の探偵として、仕事に対する信頼や評価を得たいと思っているからだ。
 しかしまさかこのような形で恋人の家族と対面するとは思っていなかったけれど。まずはしっかり依頼を遂行してナナシ達を安心させてあげるのが最も優先すべき事だろう。

「ネス……本当にありがとう。突然の依頼受けてくれて」
「いいんだよ。君が僕を信じて頼ってくれたのが嬉しかったから」

 やがてツーソンを抜けると徐々に緑が多くなってきた。この辺りも"あの頃"から変わらないな。そのまま森を抜けてオネットの市街地に入ると、今度は北東へ向かうように走らせる。そこには図書館があるんだけど、その近辺にナナシの実家があるという。
 僕は彼女の実家の住所を知って内心驚いていた。実はここからもう少し進めば僕の実家に続く道があるんだけど、互いの実家がこんなに近くにあったなんて思いもしなかったから。
 しばらく走り続けた後、ある一軒の家の前で車を止めた。緑色の屋根をした家は僕の実家とほぼ変わらない大きさで、庭先には二人の人物が立っていた。
 彼らがナナシのご両親で間違いないだろう。その証拠にナナシは顔を綻ばせるとすぐさまシートベルトを外して車から降りていったのだから。

「お父さんお母さん、久しぶり」
「あんたも元気そうで安心したよ。それで……隣の方が今回"ミドリ"を一緒に探してくれるっていう探偵さん?」

 ナナシの母親は何ともいえない表情で僕をしげしげと見つめてくる。信じていいものかどうか、困惑しているような目つき。確かナナシからはこれまで何社にも依頼をしてきたというのに、痕跡すら見つけられてないと聞いている。
 その上今回やってきたのは無名の探偵。僕としても簡単に信用を得られるとは思っていないし、このような視線を向けられるのも仕方ないと思う。そんな僕達の間に割って入ってきたのはナナシだった。

「そうだよ。電話でも話したけど、ネスは今までも様々な依頼をこなしたり私のことも何度も助けてくれた人なの。実績だってしっかりあるんだから」
「初めまして、ネスと申します。本日は宜しくお願いいたします」

 どこか自慢げに話すナナシにこそばゆくなりながらも、僕が名刺を渡すと共に会釈をすると彼らも同じように返してくれた。良かった、この様子ならスムーズに依頼の話を進めていけそうだ――

***

 挨拶の後家の中に通され、リビングでナナシとご両親から改めてこれから捜索する猫の特徴について説明を受けた。

"名前はミドリ、雌の三毛猫、年齢は十四才。緑色の首輪を着けている。家族以外の人間が寄ると威嚇して逃げる……か"

 猫の情報をメモに書き入れると、先程聞いたミドリの散歩コースと照らし合わせながら地図に印を付け、捜索範囲を絞るといよいよ行動を開始する。まずは僕とナナシ、彼女のご両親の二手に別れてそれぞれ決めたルートを辿ることにした。

「うーん、お母さん達は"普段から遠出はせず半日中近所で昼寝をして夕方に帰ってきてた"って言うんだけど……」

 ナナシと地図を見つつ住宅街を歩きながら、家と家の間を覗いてみるもミドリらしき猫の姿はない。やはりそう簡単には見つからないか。
 突然帰ってこなくなった原因についても心当たりが無いというし、考えられるのは散歩中に怪我をして動けなくなっているか、或いは他所の車に乗り込んでしまった等で迷子になったか――
 いや、こうして仮説を並べ立てるだけでは捜索は進まない。こういう時こそとっておきの方法がある。それを試すためにもナナシと行動を共にしているのだから。
 僕は丁度ブロック塀の上で寛いでいた茶トラの野良猫に近寄ると、驚かさないようにそっと声をかけた。

「やあ、ゆっくりしてる所ごめん。聞きたいことがあるんだけどいいかな?」

 猫はむくりと顔を上げ、僕をしばらく見つめると欠伸がてら短く鳴いて返答した。どうやら話を聞いてくれるみたいで一安心。"君達"なら有益な情報を持っているかもしれないからね。さあ、ここからが僕の力の見せ処だ。

「ありがとう。そんなに時間は取らせないからさ」
「ネスどうしたの? 急に猫に話しかけたりして……」
「嫌だなナナシ、僕が超能力者だってこと忘れた訳じゃないだろ。動物との会話なら子供の頃からよくしてきたからね」

 はっと目を見開き納得したように何度も頷くナナシを尻目に、猫は伸びをしながら起き上がり塀から降りると僕の足元に着地した。こちらを見上げる金色の瞳は興味津々といわんばかりに真ん丸く見開かれている。

『こりゃ驚いた。おれ達の言ってること分かる人間がいるとはなあ』
「まあ、滅多にいないと思うし驚くのも無理はないね」
『で、おれに聞きたいことって何だ?』

 ナナシが静かに見守る中、僕は彼にミドリの特徴について教えると何か知っていることはないかと尋ねた。野良猫というのは一度己のテリトリーを定めると、その地域で一生を送ることが多い。
 そして同じ地域で暮らす動物達は共に過ごす内に特有のネットワークを形成し、地域一帯の情報を共有していることが多い。この情報というのが人からの聞き込みだけでは得ることのできない貴重なものばかりで、以前の事務所で働いていた頃もこのように動物達の協力を得ることで仕事をこなしてきた実績がある。

「一週間ぐらい前から散歩に出たっきり家に帰ってこないって話で、この人が探しているんだ。小さなことでもいいから教えて欲しい」
『ああ、そこの姉さんがミドリ婆さんを探してるのか。あの婆さんなら足を怪我したってもんで先週から北の森のボロ小屋に籠ってるぜ』
「北の森、ボロ小屋……もしかして、あそこか……?」

 たったこれだけの情報からあの風景がはっきりと頭に浮かび上がる。僕にとってあの森には個人的に深い繋がりがある。十年以上も昔、子供の頃にスクールの友達らと秘密基地を作ったりして遊んでいた思い出の地。そして突如始まったあの"旅"に纏わる、僕の人生の中で指折りの大切な場所。

『場所を知ってるなら話は早いな。おれ達も飯を届けたりはしてるがいつまで持つか分からねえ。早いとこ連れ戻してやんな』
「ありがとう。お礼は後日させてもらうよ」
「あの、ミドリの居場所分かった……?」
「この猫のお陰で大体の場所が絞れたよ。すぐに行こう」

 不安げに揺れていた瞳に輝きを宿したナナシを連れて住宅街を抜けると、二人で焦る気持ちを抑えながらオネットの北部に広がる森へと向かった――

***

 森について間もなく、探していた小屋は見つかった。とはいっても辛うじて建物の形を残しているのみ。腐りかけた木製の柱は今にも倒れそうで、屋根となっている板も穴だらけという有様だ。
 確か元は旅芸人の為に作られた宿泊用の小屋だったはず。昔に閉鎖されてからというもの解体されることなく、放置されたまま雨風に曝されていく内に朽ちていったということか。
 そしてあの茶トラの野良猫の情報によれば、ここにミドリが隠れているはず。僕とナナシはなるべく大きな音をたてないように、そっと小屋の中に入った。

「ナナシ、まずは呼びかけてみてくれないかな。君の声なら聞き入れてくれると思うんだ」
「うん。ミドリ、出てきて……お願い」

 ミドリは家族の人間以外には靡かず近寄らないということで、ナナシに呼びかけをしてもらいながら捜索を進める。床板を踏みしめる度に軋むような音が鳴り、滞留していた埃が渦を巻くように揺らぎだす。

「静かすぎる……まさか、もうこの小屋から出てったんじゃ……」
「いや、警戒してるのかもしれない。ちょっと僕に任せてくれないかな」

 僕は狼狽えるナナシを宥めると床に向けて意識を集中させた。しばらくするといくつもの足跡がぼんやりと浮かび上がってくる。人のものや様々な動物のものが入り混じり、どれも古い痕跡ばかりで掠れていたものの、その中に幾つかくっきりとした足跡を見つけ出した。
 これは最近付いたもので、おそらくここに足を運んでいる猫達の痕跡。辿っていくとそれは小屋の隅、壁に何枚かの板が立てかけられている隙間に向かって伸びていた。その周辺には干からびた魚の骨や小さな鳥の羽が散らばっている。

「ナナシ、そこの板が重なってる辺りの隙間を覗いてみて」
「分かった……ミドリ、そこにいるの?」

 隙間に近寄りしゃがみ込むと囁くように声をかけるナナシ。すると奥からカサカサと何かが擦れるような音が聞こえてきて、僕と彼女は咄嗟に顔を見合わせる。ややあって暗がりの中から小さく弱々しい鳴き声が聞こえてきた。

「この声、ミドリのかも……!」
「よし、一緒にこの板をどかしてみよう。ささくれに気を付けて」

 それから僕とナナシは細心の注意を払いながら、壁を支えにして重なっている板を押し退けていく。埃が舞い上がる中ようやく最後の板を取り除くと、そこには一匹の三毛猫が力なく横たわりながらこちらを見上げていた。
 その姿を見るやナナシは震えた声で名前を呼びながら猫の側に近寄っていく。彼女の反応からしてこの猫がミドリで間違いないだろう。

「あ、ああ……ミドリ、いた……母さんも父さんも心配してたんだよ……?」
「その子で間違いないね。見つかって良かったよ」
「うぅ……ネス、本当にありがとっ……!」

 今にも泣き出しそうなナナシの肩を軽く叩きつつ猫の容態を見てみると、左後ろ脚の白い毛が赤黒く染まっていて、出血していることが分かる。あの茶トラ猫の言っていた通り、ミドリは人気のないこの場所で動けないまま耐えていたんだ。
 なんとか間に合って良かった――今度こそ安心するとミドリに向けて"ライフアップβ"を使い足の傷を塞ぐ。後は念のため"さいみんじゅつ"で眠らせることにした。病院に行くまでの間、見知らぬ人間が近寄れば無理やり暴れる可能性もあるからだ。

「あれ……ミドリ寝ちゃった?」
「大丈夫、催眠術で少しの間眠らせたんだ。病院に連れていくまではその方が良いかなって」
「あ、そっか。そうだよね……」

 ナナシにミドリを抱きかかえるように頼み、僕達はようやく小屋を出ると彼女のご両親に連絡を入れた。この時、スマホから聞こえてきた声に喜びと安堵が滲んでいたのは言うまでもなく。
 程なくして駆けつけたご夫妻と合流すると早速ミドリを病院へと連れていき、治療を施してもらうことになった――

***

 あれから一週間後。ミドリは無事に回復に向かっており、家に帰ってきた後はリハビリなどをしつつ過ごしているとのこと。そして僕は今、もう一度ナナシの実家を訪れていた。
 それというのもナナシの父親が今回の件で僕のことを気に入ってくれたらしく、改めてお礼も兼ねて食事に招待されたからである。最初は流石に申し訳ないので断ろうと思っていたけれど、ナナシからもお願いされたことでお言葉に甘えることにした。
 ちなみにあの日、ミドリを見つけた経緯についてはナナシと協力して上手く誤魔化すことが出来た。流石に"超能力を使いました"と言う訳にはいかないし、逆に伝えた所で信じ込まれてもややこしい話になりかねないからだ。

「ネスさん。この度はミドリを見つけてくださり、本当にありがとうございました」
「いえいえ、無事に見つけられて何よりです」
「ナナシも凄腕の探偵さんを連れてきてくれたなあ」

 テーブルを挟んで向かい合う形で会話を交わす僕と自分の父親へ交互に視線を送るナナシの表情からは、嬉しさと照れが入り混じっているようだった。そんな彼女を見ているとこちらも頬が緩んでしまう。

「ネスさんてば仕事も出来るしイケメンだし! はあ、私がもう少し若かったらねえ」
「ちょっとお母さん、それはないでしょ。お父さんの前で変なこと言わないでよね」
「気にするなってナナシ。なんだかんだ言っても母さんにとっての一番は父さんだからな」
「そういうこと。本当この娘は昔っからこういうの真に受けちゃうんだから~」

 微笑ましい夫婦のやりとりを眺めている内に、自然と目の前の二人に僕とナナシを重ねていた。冗談を交えつつも互いの想いは確実に心の底に根付いている。いずれ僕とナナシも、こんな風になれたら――
 美味しい料理を囲みながらの談笑は弾み、楽しいひと時はあっという間に過ぎ去っていった。やがて時計が夜八時を示す頃、帰り支度を済ませた僕はご両親の許可を得てミドリが療養している部屋へと入ってみた。
 電気が付いていない暗がりの中、緑色の瞳が窓から差し込む月光を受けて煌めいている。その眼差しからは敵意を感じることは無く、ただ静かにこちらを見据えていた。

「やあ、あれから身体の具合はどうだい? 話したくなければそれでも、」
『……もう殆ど治ったようなものさ。しかし"あの力"を見たのは久しぶりだ。あんた、タダ者じゃないね』

 ゆったりと尻尾を揺らしながら返事をする姿からは警戒心というものはなく、心を許してもらえた気がして自然と笑みが浮かぶ。
 しかしこの猫、超能力を見たことがあるとは正直とても興味深い。もしかしてこの町にも超能力者がいるんだろうか。相手が人間でなければこういった話も気軽に続けやすくて助かるな。

「……もしかして、"PSI"のことを知ってる?」
『呼び方なぞは知らんが……昔スリークにいた頃、同じような力を見たことがあってね。あれは確か十四年前、町外れにあるサーカステントでのことさ。子供の手から大きな光が出たと思ったら……次の瞬間巨大なテントが吹っ飛んだもんでアタシゃ目を疑ったよ!』

 興奮したように語るミドリを前に僕はただ固まるしかなかった。これは彼女の勢いに圧されたとかではなく、テントの件に思い切り心当たりがあるからだ。
 十四年前といったら丁度僕が十二歳の時、仲間達と共に世界を救う旅に出ていた頃じゃないか。そして旅の途中、スリークでサーカステントの化け物と戦ったこともはっきりと覚えている。
 ミドリの言う"テントを吹き飛ばした子供"というのは――間違いなく当時の僕だ。まさか偶然あの場面に出くわした猫とこのような形で会うことになるとは。巡り合わせとは不思議なものだと改めて思い知らされる。

『おや、何固まってんだい』
「あ……いや、凄い話だなって」
『そうだろう、凄いだろう。なのに誰もこの話を信じちゃくれない。まともに聞いてくれたのはあんたが初めてだよ』

 確かにこんな奇天烈な話、普通であれば冗談と流されて終わりだろう。しかし僕にとっては実際の出来事であり、否定のしようがないのだ。
 気を良くしたのかミドリは身体を起こして大きく背伸びをすると、僕に向けている瞳を糸のように細めていく。
 それはまるで何かを企むような、探るような形を作っていて何だか居心地が悪い。もしかして勘付かれたのだろうか。
 だとすれば下手に言い繕うより正直に話した方が良いのか。しかし彼女の問いかけはそんな僕の懸念を吹き飛ばすもので――

『……ところであんた、ナナシの恋人なんだろ?』
「えっ、あー……分かる?」
『はん、アタシの目を甘く見るんじゃないよ。あんたとあの子の様子を見てりゃ察しぐらい付くわ』

 なんてことだ。ナナシのご両親にはまだ悟られる訳にはいかないと隠し通してきたのに。飼い猫にはこうもあっさりと看破されていたとは僕もまだまだだな。

『ナナシは昔から生真面目な上に頑固な子でねえ……』
「あはは……あの人は時々そういう所あるかも」
『そんな性格だからよく親子喧嘩をおっぱじめるんでうるさくて仕方なかったもんさ。その上意地っ張りなもんだから、あの頃はどんなに断っても私のこと最期までお世話してくれてねえ……ほんと不器用な子だよ』

 しみじみと思い出を辿る姿はペットというよりは孫を見守る祖母のようであり、それを語る口調にも愛情が溢れているようだった。しかし"最期までお世話"の部分に話の繋がりを感じられず引っかかる。
 これではまるで――ふと浮かんだ可能性。決してあり得なくはない事象。僕の憶測が合っているのか問いかけようとした時。当然背後の扉が開かれ、そこからナナシが顔を覗かせた。

「ネス、入るよ……ってミドリ、他所の人から逃げないなんて珍しいじゃん。ネスが恩人ってことは理解してるのかな」

 愛猫の様子に首をかしげていたナナシは、ミドリの横に座るとふかふかの頭を優しく撫でる。猫特有のごろごろと喉を鳴らす音が響く中、僕は立ち上がると上着を手に取った。これ以上長居すると悪いし、そろそろ事務所に戻らないと。
 その時ふと視線を感じて振り返ると、ベッドからこちらを見つめたまま動かないミドリの姿が目に入った。

"……孫をよろしく頼んだよ、色男"

 やっぱり、そういうことか。穏やかに投げかけられた声に僕は黙って頷くと、彼女に背中を押されているような心地を覚えつつ部屋を後にしたのだった――

***

 これはちょっとした後日談。ナナシ曰く、猫探しの依頼を完遂させたことを切っ掛けに、ナナシの父親が僕の探偵事務所の話を身内に広めたらしい。そのお陰なのか、事務所開設からひと月が経った今では少しずつ仕事が入って来るようになった。
 内容は変わらずペット探しといったもので、以前のような本格的な捜索や調査依頼が来る気配はない。まだ軌道に乗れたというには程遠いけど、焦らず実績を積み重ねながらこの探偵事務所の名を少しずつ広めていこうと思う。

「見てネス、昨日母さんがミドリの動画送ってきてね。もう元気に動けるようになったのって驚いてた!」
「本当だ、走り回ってるや。凄まじい回復力だなあ」
「ネスが"ライフアップ"だっけ、てのを使ってくれたお陰でしょ。今回はミドリを助けてくれて、本当にありがとう」
「僕こそ今回の件で少し自信がついたよ。初の依頼だった訳だし実はかなり緊張してたんだ。無事に解決できて良かった」

 ソファーに腰かけスマホに映るミドリの姿を眺めて微笑むナナシと肩を寄せ合いながら、僕は自身に宿る力の奥深さを改めて理解する。"PSI"とは心の力。つまりその源は使用者の想いそのものであり、誰かを助けたいと願うこともまた超能力の発現に繫がるということ。
 それがどれだけ尊いものか、昔はただぼんやりと感じていただけだったけど――今の僕にははっきりと分かる。

「あっ、そろそろ夕飯の買い物行かなきゃ。今なら特売やってるでしょ」
「もうこんな時間か、車出すから早いとこ買ってこようよ。そうだ、夕飯のついでに今日は泊まっていかない?」
「いいの? じゃあ……お言葉に甘えちゃおうかな」

 照れくさそうに微笑むナナシの横顔は嬉しそうで、僕もつられて頬が緩んでしまう。このひと時だけでも幸せなのに、もしも同棲となったら一体どうなってしまうだろうか。
 しかし浮かれてばかりはいられない。いずれ彼女と共に歩む未来を創るためにも、今は礎をしっかりと築いていかなくては。決意を新たにしながら僕は机の引き出しから車の鍵を取り出すと、ナナシの温かく柔らかな愛しい手を引いて事務所を後にした――

この通り、過去最長の短編となりました。事務所開設、初仕事、後日談と詰め込んでたらこんなことに。猫の名前はランダムメーカーで出てきたものから。ミドリの中身については0話「邂逅」の方にちらっと出てます。

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