⑫
この旅を始めてからもう四日目となった。遂にドコドコ砂漠を乗り越えた僕達は今、イーグルランド最大の都市"フォーサイド"へと繋がる大橋を歩いていた。
時折風が橋の上を撫でるように吹いてきて、砂漠の熱で焼かれていた僕達に細やかながらも涼をもたらしてくれる。隣を歩くナナシは思い切り背伸びをすると心地良さそうに目を細めていた。
「うーん、風が気持ちいいなあ」
「ずっと砂漠のど真ん中にいたからね。あの暑さから解放されただけでも身体が軽くなった気分だよ」
ナナシは"そうだね"と穏やかに微笑み、風に乗って靡く髪を指に絡ませた。ああ、本当に可愛いな――昨夜、遂に長年抱き続けていたナナシへの恋慕と向き合い受け入れた僕は、彼女に対して素直な想いを浮かべられるようになっていた。
今も好きな人の笑顔をすぐ側で見つめていられるこの一時が、この胸を暖かく満たしてくれる。ナナシ、君のことが愛おしくて堪らない。大好きだ――もう一々照れくさくなっては逃げ出していた頃の僕は、もういない。
甘やかな思考に耽っていると、突然ナナシが声をあげる。それは聞く者の心を弾ませるような色をしていた。
「ねえネス、バス停が見えてきたよ。ってことは……!」
「うん、やっと着いたんだ。フォーサイドに――」
昨日まで遥か遠くに見えていたビル群は、今では僕達の視界を覆いつくすように立ち並んでいる。まるで口を揃えて"自分の方が立派だ"と謂わんばかりに、真っ直ぐ天を目掛けて。この大都市フォーサイドこそが、僕とナナシの旅の終着点となる――。
橋を渡り終える頃には、時計は既に九時を回っていた。真夏の街道はオネットのそれとは比にならない程の人ごみでひしめき合っていて、どこかじっとりとした熱気に満ちている。
そしてどの道を歩こうとも車のクラクションや人々の喧噪があちらこちらで響き渡り、飲食物や排気ガスなど様々な匂いが混ざった独特の空気が鼻に纏わりつく。この街はあの頃から殆ど変わりないな。
この街に着いたらまずしておくべきこと、それはホテルを回り今夜泊まれる場所を探しておくことだ。こういった都会では毎日と言っていい程、仕事で来た人や観光客といった人流が大渦のように入り交じっている為、安いビジネスホテルなどは夜を待たずしてどこも満室になってしまう。
「ナナシ、早いところ部屋を取りに行こう。平日とはいえ昼にはどこも埋まっちゃうからさ」
「あっ、そうだね。前ここに遊びに来た時もホテル確保するの苦労した覚えがあるなあ……」
僕としては旅をすると決めた当初、予めスマホでホテルの予約をするのも考えていた。しかしほぼ行程通りにはいかないであろうこの旅で予約を取るなんて、ホテル側に迷惑をかけることになりかねないと思い断念していたんだ。
それを裏付けるように昨日砂漠で起こったバッファローの一件などを含め、結果論ではあるけどこの判断が正しかったことに少しだけ安堵している自分がいた。
さて、時間は待ってくれないしそろそろ動き出そう。まだ疲れが残る足に鞭打って、僕とナナシは手頃な価格で泊まれるビジネスホテルを求めて通りを歩き始めた――。
***
「はあー……ようやく部屋、取れたね」
「うん。一部屋だけだけど……もう泊まれるだけありがたいよ」
時刻にして午前十一時近く。手当たり次第にホテルを巡り、なんとか今晩泊まる部屋を確保出来た。一部屋のみだけど、ツインルームでロフト式のベッドがあるタイプなので寝る分には問題ない――という訳でもなく、僕としては昨夜のようにナナシを意識してしまいそうで今から気が気でないところだ。
とにかく、一番の難題を解決できたところで改めて今日の行動についてナナシと話し合うことにした。適当に入った公園のベンチに腰掛け、先程ホテル探しのついでに立ち寄ったベーカリーで買ったパンを齧りつつマップを広げる。
「それで、食べ終えたらまずは花屋に行きたいんだよね」
「花屋って、誰かに贈るの?」
「ああ……それについては花を買ってからもいいかな」
僕にとって、この街に着いたらどうしてもしておきたかったことのひとつ。ナナシは僕の表情から何か察してくれたのか、これ以上の追及をすることもなく静かに頷いた。
その後、昼食を終えた僕達は最寄りの花屋に入ると小ぶりの花束を買い、ある場所に向かう。そこは人通りの少ない裏通りの一角。
ここは六年前のある日、僕とジェフが"恩人"を見送った最後の場所。一日中光が差さない、寂れた吹き溜まり。灰色を帯びた景色はあの頃と殆ど変わりなかった。僕は花束を壁に寄せて供えると帽子を脱ぎ、祈るように目を閉じる。
「お久しぶりです、トンチキさん」
トンチキさん――彼は六年前、二度に渡って僕達を手助けしてくれた人だった。元々はツーソンでヌスット広場を束ねていた中年の男性で、裏では金目の物を狙ったりと様々な悪事にも手を染めていた。
初めて彼と出会った時も決して穏やかなものではなく、突然屋根の上から奇襲をかけられたものの何とか返り討ちにした所でようやく話を付けることができたぐらいだ。
しかしトンチキさんと出会わなければ、行方不明のポーラが誘拐された場所を突き止められなかったし、借金地獄に落ちて劇場に縛られていたトンズラブラザーズ達を解放することも、彼らの力を借りてスリークの町へ進むこともできなかった。
そしてツーソンで僕と別れた後、トンチキさんはとんでもない物に狙いを定めていた。これが彼の運命を大きく変えてしまうことになるなんて、当時の僕は知る由もなかったんだ――。
"おれはオネットでライヤー・ホーランドとかって小悪党が掘り出したマニマニの悪魔とやらを頂きに出かけるつもりだ"
こうして次に再会したのは此処、フォーサイド。僕とジェフがギーグの手下によって誘拐されたポーラの行方を追うため、彼女を捕えているという街の権力者"モノトリーさん"の手掛かりを求めて奔走していた、その最中だった。
ビル群の片隅にある裏道。そこには不釣り合いなほどの人だかり。幾つもの視線が集まる先に、彼はいた。衣服はボロボロに破れ、全身痣や傷だらけで苦しそうに横たわるという変わり果てた姿で――。
頭の芯から冷えていくのを感じながらも人ごみをかき分けて彼の元に走り寄った僕に、トンチキさんはこれまでの経緯を語り、さらに次へ進むための"道標"をもたらした。
彼曰くマニマニのあくまを手に入れた後、像に恐ろしい力が秘められていることを知った。その後像を求めていたモノトリーさんによって像を奪われた挙句口封じに抹殺されそうになり、何とか逃げ延びたのだという。
そして彼は最後に"ボルヘスの酒場を調べろ"と告げて、なんとか起き上がると野次馬の人達を威嚇しながら覚束ない足取りで街の中へと消えてしまった。あの背中こそが僕達にとって最後の姿。
それから酒場に隠されていたマニマニのあくまを破壊し、モノトリーさんの所から無事にポーラを救出した後、僕達はホテルの新聞にてトンチキさんの最期を知ることとなったんだ――。
「そっか、この場所が……確かトンチキさんって、何度もネス達を助けてくれた人だったんだよね」
「うん。彼と出会えなかったら、きっと僕達は世界を救えなかったはずだ」
以前僕が語ったトンチキさんの話を思い出したのか、ナナシも僕の隣に並ぶと静かに目を伏せた。結局僕は彼に何一つ恩返しができないまま、孤独な旅立ちを見送ることしかできなかった。
だからこそ、今回の旅ではフォーサイドに着いたら必ずこの場所に来ようと決めていたんだ。せめて伝えきれなかった感謝の気持ちと共に、花を手向けることが出来ればと。それが今の僕に出来る精一杯のことだと思ったから。
"本当に、ありがとうございました――"
太陽が真上に差し掛かる頃、路地裏を抜けた僕達はもうひとつの目的地へと足を向けた。目指すのはこの街に眠る僕だけのパワースポット"マグネットヒル"。
六年前に初めて訪れた時は自然博物館から下水道に入ることで侵入することができたけど、あのルートは二度と使えないだろうな。そもそも当時、博物館から下水道に入った方法自体が限りなく黒に近いものだった訳で。
それというのも"勤務中のスタッフが求めていた嗜好品を譲ること"で、特別に関係者以外立入禁止の部屋に入れてもらったからだ。今思えばあれは、他にも様々な要因が上手く連鎖したからこそ成せた奇跡のような展開だったな。
流石に二度目は通用しないし、下手をしたら僕だけでなくナナシまで不審者扱いされて博物館を出禁にされるかもしれない。でも既に僕の中では策を練ってある――と、ちょっと格好つけてみたけれど至って単純な方法だ。
「マグネットヒル、どんな所なんだろう……!」
「もうすぐ見せてあげるから楽しみにしてて」
期待に瞳を輝かせて頷くナナシを見ていると、今朝に感じていたあの熱が再び身体中に広がっていく。こうしていると自分が如何にナナシを好きなのかを改めて自覚させられる。
きゅう、と締め付けられた心は胸にじんわりと暖かな痛みを与え、目の前の大切な存在に想い焦がれることへの尊さを教えていた――。
原作でもマグネットヒルへの到達は幾つもの偶然が重ならないと無理だったなという思い出。次でフォーサイド編後半となります。
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