逆転
ある休日の昼下がり。私は草原に横たわり、虚ろな瞳で青空を見上げていた。ひとたび強い風が吹けば、雲が空を駆けていく――。
こうして時間が経つのも忘れて綿雲の行方を眺めていた時、突然私の顔に影がかかった。
「……こんなところで何してる」
声を投げかけてきたのは黒い天使、ブラックピット。私が住み込みで働いている屋敷の住人で、数少ない話し相手の一人。
他者と関わることを好まない性格だというのに、不思議と通じるところがある奇妙な間柄。私は上半身を起こして大きく背伸びをする。
「んー、ちょっと散歩にね」
「暇人かよ」
「そういうブラピは何してんの」
途端にブラピの眉間に皺が寄っていくのが分かる。彼はこの呼び方を気に入ってないみたいで、すぐに訂正させようとしてくる。
短縮した方が呼びやすいというのもあるけど、反応が面白いからついつい使ってしまう。そして何も答えないところを見るに、彼も私と変わらない暇人ということか。
「どうせブラピも暇でこんな所まで来たんでしょ。お互い様だね」
そう笑ってやると、ブラピは舌打ちをしてそっぽを向いてしまった。図星だったらしい。こういったかわいい一面もあるからか、実は彼には隠れファンが多い。
当の本人はそんなこと、露程も知らないんだけど。ブラピは黙ったまま私の隣へ腰を下ろす。これは珍しい。
普段なら素っ気ない返事をして離れていくのに。敢えて何も言わずにいると、長い沈黙が訪れる。
「……二人になっても暇なままかあ」
「なら暇つぶしに何かしてみせろ」
「そういうの無茶ぶりって言うんだけど。ブラピこそ何か面白いことしてよ」
どうせ何も思いつかず無口を貫くだけなんだろうけど。ここはもうひとつ、からかってみようか。そう思いつつ何となく彼に顔を向けると、鋭い視線に貫かれた。
翼と全く同じ色をした黒い瞳は、寸分も逸れることなく私を捉えている。何か怒らせるようなことを言ったか。
もしかしたら今のことではなく、過去についてだろうか。彼から借りた本をまだ返していないこととか振り返れば思い当たる節はいくらでもある。
こうしている間も彼は無言のまま。どう反応していいのか分からず、金縛りに遭ったように見つめ返す。すると、その唇が小さく開かれる。
「……気に食わんな。自分の方が優位に立ってる――そんな目だ」
いつもよりも低い声色で呟かれた言葉に、心臓が一瞬大きく脈を打つ。そんなこと、一度も思ったことはないと言えば嘘になる。
私は今まで心のどこかで、彼のことをかわいい弟分のように見ていた。それをこの日、悟られてしまったんだろう。
言い返せずそっと俯くと、逸らすなと言わんばかりに顎を持ち上げられる。そのまま見下ろされ、私の鼓動はさらに加速する。
それにしてもどうしてこうなった。これではまるで――でもあのブラピに限ってそんなことはしないはず。思考が螺旋を描いている内に、彼の顔が近付いて来る。
思わずぎゅっと目を瞑ると、額に小さな衝撃と共にぱちんと痛みが走る。驚いて瞼を開けると、目の前には得意げに口角を上げているブラピがいた。
「ちょ、急に何すんの……っ?」
「ナメるなよ。お前が思っているほどオレは単純な男じゃない」
それはどういう意味なのか。尋ねる前にブラピは立ち上がり、踵を返した。呆然とその後姿を見送っていると、ふいに彼が立ち止まる。
何か言い忘れたことでもあるのか。自然と肩が上がるのを感じながら待っていると、彼は私に視線だけを向けた。
「時期にそんな態度はとれないようにしてやる。覚悟しておくんだな」
それはまるで宣戦布告のようだった。一体何の覚悟をしておけと言うのか。ブラピは私の返答を待たずに歩き出し、やがて草むらの向こうへと消えていった。
再び一人になった私を強風が襲う。髪が乱れても、舞い上がる砂埃に巻かれても、去り際に向けられた声と瞳が頭から離れずにいた――。
この日を境に、ブラピは私の心に揺さぶりをかけてくるようになった。素っ気ない態度を見せたり、ムキになって反発してくるのは普段と変わらない。
しかしその一方で、私にかけてくる言葉の端々には柔らかなものを含めるようになっていた。べったりと寄り添うわけでもなく、突き放すのでもない絶妙なバランス。
こうして翻弄される日々の中で、ブラピの声や姿が私の思考に侵食していく。次第に彼の挙動を意識するようになっていった。
姿を見かけるたびに目で追う自分を止めることすらできない程に――。
「どっちが優位に立っているのか、もう分かってるだろ」
ある日突然投げかけられた言葉。それは私にとっては止めでしかなく、彼にとっては勝利宣言でしかない。
私の心はとうの昔に陥落していたというのに、今になって瓦礫に埋もれていることに気付く。――そんな私に彼は勝ち誇った笑みを浮かべて、そっと手を差し伸べてくるのであった。
翻弄されるブラピばかりだったので、ここらで攻守逆転。