ただひとつの拠り所
正午、早番の仕事を終えた私は自室に帰ってくるとカーテンを開き、柔らかな日光を部屋に中に招き入れた。次にお気に入りのアロマを焚き、読みかけの本を棚から取り出しソファに座り込めば、いよいよ至福の時間が訪れる。
うきうきと栞の挟まれたページに指を添えて捲ろうとした時、廊下の方から誰かが歩いてくる足音が聞こえてきた。大股で踏み鳴らすような、どこか苛立ちを表す音に思わずため息をつく。
はあ、またなのね。この足音の主が何者なのか、私にとっては嫌になるほど分かりきっていた。音はこの部屋のドアの前で止まると、次の瞬間に勢いよく開け放たれ――黒衣を纏った天使の少年が現れた。
彼の名はブラックピット。純白の羽を持つ天使ピットと瓜二つの容姿を持つものの、中身に至っては何もかも対照的な少年。私や一部のファイターからは呼びやすく"ブラピ"というあだ名を付けられているけど、本人はすこぶる気に入らない様子だ。
「ちょっと、いい加減ノックぐらいしたらどうなの?」
「……相変わらず妙な匂い漂わせやがって」
「妙って失礼ね。お気に入りの香りなんだけど。というか、何か言うことあるでしょ」
私の咎めなど気にも留めていない様子で、ブラピは室内にずかずかと入り込んできた。このように彼は時折、私の部屋に突然やってくる。
こういう時は決まって不機嫌な面持ちで不貞腐れていて、また嫌なことがあったのだと察する。
私とブラピの関係は奇妙なもので、友達かといえばそこまでではなく、恋人かと聞かれようものなら彼によって即座に否定されるだろう。
だけどもふと気付けば私達は何かと近くにいることが多く、彼も特にそれを気にする様子はない。この距離感に関して、私も不思議と不快感というものを感じることはなかった。
「で、今日も何かあったの」
返答はなく、代わりに小さく鼻を鳴らすだけ。これもいつものことだ。私は戸棚から昨日買っておいたクッキーの箱を取り出し、皿に開けるとテーブルに置いておく。
「これぐらいしか無いけど」
ブラピは盛られたクッキーを一瞥すると、私の隣にどかりと座り込む。変わらず仏頂面のまま足を組み、窓の外を眺めている彼。さて、私がしてあげられるのはここまでだ。あとは彼が落ち着きを取り戻せば勝手に部屋を出ていく。いつだってそうだった。
しかし今日は中々帰る気配を見せないでいる。気付けば彼がやってきてから一時間が経とうとしていた。私の方はちょうど本を読み終えたものの、この微妙な空気のせいで読後感に浸ることもできない。
「……君がこんなに入り浸ってるのって初めてじゃない?」
やはり返事はない。元々コミュニケーション能力に難のある男だし想定内のことではあるけど、このまま居座られ続けていては堪ったものではない。そろそろ文句の一つでもぶつけてやろうかとブラピに向き直った時だった。
ぐらり――と彼の頭が揺らいだかと思うと、突如こちらに傾いてきた。支えようとするも失敗し、ブラピの頭は私の太腿の上へと着陸。うんともすんとも言わないまま動かなくなる。
「ブラピ……? やだ、どうしたの?」
肩を掴んで揺すっても返答はない。代わりに聞こえてきたのは荒い息遣い。背中を嫌なものが走り急いで顔を仰向けにすると、ブラピの顔は紅潮していた。目をきつく閉じ、口を薄く開き苦しそうに呼吸を繰り返している。
前髪をそっと避けて額に手をあててみる。そこから伝わってきた熱に驚いた私は彼をソファに寝かせると、内線電話で医務室へ連絡したのだった――。
***
診察したDr.マリオさん曰く、彼は今まで風邪気味だったことを周りに隠していたらしい。そして今日の試合で無理をしたのがトドメとなり限界を迎えたのだろうということだった。
それを聞いた私は盛大な溜息をつくと、ベッドに横たわるブラピの元へ歩み寄る。彼の寝顔はまだ赤いものの、呼吸は落ち着いてきたのでひとまずは安心というところか。
「……バカブラピ。素直に休んでれば良かったのに」
悪態を吐きつつ置かれた椅子に腰をかける。思えば私の部屋にいた間も気丈に振る舞っていただけで、相当辛かったのではないか。そうしてまで私の所にやってきたのは何故なのか、理由なんて皆目見当がつかない。
「本来生物というのは、弱っている姿を自ら周りにさらけ出すことはしない。特にブラックピットのようにプライドが高いとなると尚更隠そうとするだろう。恐らくだが……彼は君の前でなら、と本能から気を許しているのではないかな」
穏やかな面持ちでそう言い残し、ドクターは一旦医務室から出て行ってしまった。静寂の中に残された私は、今の言葉を頭の中で反芻していた。
「本能、ねえ」
つまりはブラピにとって私という存在は拠り所となっていたと解釈していいものか。改めて考えてみると何だか胸のあたりがむず痒くなる話だ。これは喜ぶべきなのかどうか、今の自分では答えが出せない。
ただひとつ言えるとすれば、先程から頬の辺りがじんわりと熱を持っていることだ。もしかしたら感染ってしまったかも。なんてことを頭の隅で考えつつ、彼が目覚めるまで穏やかな寝顔を眺めていた――。
一周年記念SSのブラピの話とは逆のシチュに。