焦げ付く程に
あいつの、ナナシの目には不思議と惹き付けられるものがある。あの曇りの無い瞳で見つめられると、視線を逸らせなくなる。しかしその眼差しが他の奴に向いた途端、あいつが憎らしくなってしまうのだ。
"オレに向けていたものをあっさり他の奴にも向けるなよ"
あいつの、ナナシの口元には何処か惹き付けられるものがある。あの小さくも艶やかな唇で名を呼ばれると、どうしようもなく立ち止まってしまう。
しかしその声がオレじゃない誰かを呼び寄せた途端、あいつが憎らしくなってしまうのだ。
"何故そいつを呼び止めた。頼み事ならオレに声をかければいいだろうが"
横に居たかと思えばすぐにオレから離れていくナナシと、彼女と楽しげに笑う奴らに怒りを覚えては自分を宥める日々が続いていた。ナナシが悪いのではないと、今まで何度も心に言い聞かせてきたが――本当にそうなんだろうか。
何時まで経ってもオレの思いに気付かないあいつにも、非があるんじゃないか。そんな考えが頭を過ぎる度に自己嫌悪に陥る。そうだ、あいつは何も知らないだけだ。
こうして今日も燻る火種を踏み消すように、無理矢理自分を納得させるのだった。しかしある日、この現状に終止符が打たれることとなる――。
「ナナシさん、実は前からあなたのことが好きだったんだ。俺と付き合ってください!」
「えっ、私を……?」
昼下がりの裏庭。使用人の一人である男に連れられていったナナシは、そいつから告白を受けていた。オレは以前からこの男が女好きだということを知っている。恋人がいるにも関わらず、他の女にも思わせ振りな態度で絡んでいるのを幾度か見かけたことがあるからだ。
ナナシは突然の告白に動揺しながらも満更ではなさそうで、照れながら俯く姿にオレは無意識に拳を握っていた。
本当にナナシは"何も知らない"んだな。よりにもよってあんな男に――気付けばオレは二人の間に割って入っていた。
「えぇ!? ぶ、ブラックピット!?」
「こいつには先約があるんだ。他をあたるんだな」
「ちょっとブラピ! いきなり何言って、」
オレはナナシの声を遮るように彼女の頬に手を添え、奴に見せつけるように抱き寄せると唇を重ね合わせた。腕の中で抵抗をみせる身体を逃さないよう強く抱き締めて、角度を変えながら口付けていく。
「んっ……む、んぅ……!」
長いキスを終えて唇を離すと、顔を真っ赤に染め上げたナナシが目に涙を浮かべていた。潤んだ瞳からは今にも涙が溢れ落ちそうで場違いにも見惚れてしまう。やはりお前の眼はオレを惹き付けてしまうんだ。
一方男は呆然としていたものの、次第に状況を理解し始めたのかよろよろと後退っていく。
「こういう訳だ。分かったらさっさと失せろ」
「よ、よく考えたら……気の迷いだったかなあ、なんて! ナナシさん、さっきのは忘れてくれていいから!」
奴は下らないセリフを吐くとその場から逃げるように立ち去っていった。これでもう二度とナナシに手を出そうとはしないだろう。ついでにこのことを周囲に広めてくれれば良い虫除けにもなる。
「なんで、こんなこと……」
腕の中の彼女が声を震わせながら呟く。涙声で訴える姿が愛らしくて思わず口元が緩んでしまった。無理もない、お前の声を聴くだけでオレの心は満たされるのだから。
「お前は男を見る目がない。あんな奴に浮かれやがって」
「い、いきなりキスするような人に言われたくない……!」
「はっ。少なくともさっきの野郎よりは遥かにマシなんだがな」
あんな軟派な奴と付き合ったところで、ナナシは絶対に幸せにはなれない。それに本気でこいつを求めてたなら、オレに対抗したり引き離そうとしてもおかしくはなかった。
だが奴はあっさりと手を引いて逃げていったんだ。あいつにとってはその程度だったということだろう。オレが奴と同じ立場なら、相手が誰であれ叩き潰すつもりで奪い取るがな。
「もう周りに目移りするな。これからはオレのことだけ見ていろ」
「今日のブラピ……本当にどうしちゃったの? 何かおかしいよ……!」
「オレは変わってない。今までお前が何も気付かなかっただけだ」
いい加減、この女に分からせてやる時が来たようだ。オレの隣にいるべきはお前であり、お前を守れるのはオレだけだということを。
「絶対に後悔はさせない。だから、もうオレの側を離れるな」
「え、本気で……そういう、こと?」
ようやくオレの発言の意図を汲み取ったのか、戸惑いながらも頬を赤らめるナナシ。しばしの沈黙の後、おずおずと頷く様子はまるで小動物のようで、自然と頬が緩んでしまいそうになる。
ああ、ようやく伝わったのか。それからというもの、オレはナナシへの愛情表現を惜しまなくなった。時には手指を絡ませて周囲に見せつけてみたりと牽制も怠らない。
その甲斐あってかナナシにちょっかいをかけてくる輩もいなくなり、心の底に焦げ付いていた不快感も拭い去ることができた。一度外堀を埋めてしまえばナナシも二度とオレから離れる気は起こさないだろう。
これこそ、オレが望み続けてきた理想の形。誰にも渡してたまるものか――。
嫉妬の炎で心が真っ黒く焦げ付いてしまったブラピ君。もっと重くしようかと思ったものの際限なくなりそうで止めた。