そもそもの話
消灯時間も近付いて来た頃、大浴場から戻った俺は気怠くなった身体をベットに委ねる。確か明日の試合は午後に組まれているから、多少寝坊をしたとしても差し支えないだろう。勿論油断は禁物なので明日の試合も全勝を狙って挑むつもりだ。
すぐにでも寝ようと掛け布団を捲った時だった。突然ドアをノックされたことで俺の意識は完全に冴えてしまった。こんな遅くに一体誰が何の用で来たんだか。
重い身体を起こしてドアを開くと、そこにはTシャツ姿の少女が立っていた。彼女はナナシといって、この屋敷に使用人として住み込みで働いている。
俺を見上げる顔はくたびれていて、ほのかに漂ってくる石鹸の香りは彼女も風呂上がりだということを教えていた。ナナシはふらふらとした足取りで部屋に押し掛けてきたと思うと、ベッドに倒れ込み動かなくなる。
「うーん……クラウドぉ、疲れた……」
「お、おい。急に来て一体どういうつもりだ」
「だって大浴場からだと私の部屋より、クラウドの部屋の方が近いんだもん……」
こいつは俺の友人という立場である女だが、どうにも異性との距離感を測る部分が欠けているとしか思えない所も有り、不安な部分もある。
「はあ、ナナシ……大丈夫かよ」
「大丈夫じゃないでーす……ちょっと休ませて」
布団に顔を埋めたままくぐもった声で返答をするナナシ。どうやらその疲労は本物らしい。最近は仕事の量を増やされたと愚痴を溢していたし、新人の教育にも駆り出されて忙しない日々を送っているのだから無理もないかと、ナナシを見下ろしながら思い返す。
しかしこの女、よくも堂々と自分と歳の近い男の部屋に転がり込めるものだな。いや、それだけ信頼されている証なのだろうけども。
しかしそれは少なくとも異性として見られていないということを意味している。それもまた切ない気がするな。そんな自問自答をしながら、俺はどうしたものかと考える。
生憎ベッドは一つしかないし、無理に起こしてソファーで寝かせるのも何だか気が引ける。だからといってこのまま一緒にベッドに潜り込むのは、いくら友人とはいえ不味いだろう――なんて紳士ぶった思考は隅に追いやった。
そもそも突然押し掛けてきたコイツがいけない。俺だって自分のベッドで寝たい訳だし、遠慮する必要が何処にあるというのか。
「おい、ナナシ。寝るならちゃんと布団被れ」
「……うん」
もぞりと身体を動かして、ナナシが顔だけこちらに向けた。その目はとろんとしていてどこか艶かしい。コイツ、こんな顔もできるのか。そんな無防備な姿を晒されては、俺の理性がぐらつき始めるのも無理はなかった。
「クラウドも一緒にベッドで寝る……?」
「当然、俺のベッドだからな」
「それも、そうだねえ……」
小さく欠伸を漏らしながらナナシが身体を起こすと、その拍子にTシャツの隙間からちらりと下着が覗く。おいおい、勘弁してくれよ。俺は思わず視線を逸らして、彼女に背を向ける形で布団に潜り込んだ。
ナナシはといえばそんな俺の動揺など知る由もなく、もぞもぞと動くと背中にぴったりとくっついてきたではないか。
「おい……ナナシ、ちょっと離れろって」
「んう……あったか……」
返事の代わりに聞こえてきたのは規則正しい呼吸音だけ。どうやら完全に寝入ってしまったようだ。俺はというと、背中に感じる柔らかい感触に悶々とするばかりで眠れる気がしなかった。
ここはやっぱりナナシにベッドを明け渡して、俺はソファーで寝るべきだったかもしれない。しかし今更そんなことを考えても後の祭りというもので、俺は暫くの間煩悩と葛藤し続けたのだった。
「元はといえば、いい加減コイツが俺のことを男として意識しないのがいけないんだ……」
俺はとうの昔にナナシを女として意識しているというのに。コイツは俺のことなど友人としか見ていない。その事実をまざまざと実感させられて、怒りにも似たざわつきが胸の内を覆い尽くしていく。
「今に見てろよ」
俺はナナシの体温を背に感じながら目を閉じた。眠れないと思っていたが案外あっさりと睡魔がやってきてくれたのは不幸中の幸いというべきか。しかしついに恐れていたことが起きてしまう。
ナナシは小さく身じろぎをすると自分の足を俺の足に絡めてきた上に、腕まで身体に巻き付けてきたのだ。きっと彼女の意識は夢の中であり、俺の背中が温かく心地良い何かだと思って抱き付いているのだろう。
そう言い聞かせても密着したことで伝わる熱だとか柔らかさとか、そういった諸々のせいで心臓の音がやけにうるさく感じられた。いっそのこと起きている時に抱きついてくれればいいものを――思わず溢れる本音に頭を抱えてしまう始末だ。
ここまで来れば分かると思うが、俺はナナシに対して少なからず劣情を抱いている。いつからだったろうか、気付けば目で追うようになっていた。それが恋慕だと自覚するまでそう時間は掛からなかったと思う。
「俺はいつまで耐えればいいんだ……」
苦々しい呟きは誰に聞かれることもなく消えていく。いっそ寝相のせいにしてナナシを抱き抱えたまま眠ってみようか。翌朝になれば彼女は自身のしでかした行いについて考えを改めてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて、彼女を起こさないように慎重に寝返りをうつとその身体をそっと抱き寄せた。ここまでさせたのはお前のせいだからな。
目を覚ました時、ナナシの慌てふためく様子が思い浮かぶようだ。こうして自身の理性の脆さを棚に上げつつ目を閉じている内に、俺も夢の世界へと旅立っていく――。
迫りたい想いに理由付けをしようと奮闘するクラウド。