アイク短編3

Morning glow

瀬戸際limit

 夜も更けてきた頃。風呂から戻った俺は自室に戻ると、火照った身体を冷まそうと窓を開けて風を浴びていた。しかし参ったことにそろそろ寝ようにも眠気が来ない。仕方なくそのまま柔らかに光る月を眺めていると、突然扉を叩く音が部屋に響いた。

「アイク、私だよ。ナナシ」

 ドアの向こうから聞こえてきた控えめな声に思わず頬が緩む。普通はこんな遅くに誰かが来たら困るものだが、恋人となれば話は別だ。
 ドアを開けて出迎えると、そこには寝間着姿のナナシが立っていた。彼女も風呂上がりらしく頬は上気していて、ほのかに石鹸の香りが漂っている。

「どうしたんだ、こんな夜更けに」
「あの、中々寝付けなくて……少しだけ話し相手になってほしいなって」

 そういうことならお安いご用だ。俺も時間をもて余していたところだし、何よりナナシが自分を頼って会いに来てくれるなんて思わぬサプライズだった。
 すぐに彼女を中へ引き込むと二人でベッドに腰かける。何の話から切り出そうか考えていると、突然ナナシは力が抜けたように俺の身体に寄りかかってきたではないか。

「実はさっき仕事終わったばかりなの。疲れたよー……」

 そういって今度は腕を巻き付けてくる。確か今日、ナナシは遅番だったな。それどころか最近は新人の教育など色々と仕事が増えて大変だと、よく愚痴をこぼしていたぐらいだし相当疲れが溜まっているんだろう。

「お前はよくやっている。好きなだけ吐き出してくれ」
「アイク……ありがとう。そう言ってくれるだけで嬉しいよ」

 俺の胸板に顔を押し付け、頬擦りするように甘えてくるナナシ。そっと頭を撫でてやると、今度は俺の腰に手を回して身体を密着させてくる。風呂上がりでしっとりとした肌が触れ合って、心なしか少し熱い気がする。

「ねえ、アイク……キスしよ?」
「……唐突だな」
「何か、身体くっつけるだけじゃ足りなくなってきて……お願い」

 ぼんやりと虚ろな眼差しで見上げてくるナナシから急いで顔を逸らす。今のは本当に危なかった。実は俺にはナナシと付き合い始めた頃から胸に秘めている決め事がある。それは、自分がどれだけ欲情していたとしても彼女が疲れている時には手を出さないということ。
 だというのに、俺の気持ちも知らずにナナシは首に両腕を回して迫ってくる勢いだ。仕方ない、キスまでなら――そこから先は俺の理性と欲望との勝負になるだろうが。

「ねえ、アイクってば……」
「……目を閉じてろ」

 ナナシの肩に手を添えると彼女は素直に目を閉じてくれた。そのままゆっくりと、艶やかな唇に引き寄せられるまま顔を近付けていく。
 そして後数センチという所に差し掛かった時――突如彼女の首がかくりと横に傾き、力が抜けたように俺の膝の上に倒れ込んでしまったではないか。

「おい、どうしたナナシ……って、こいつまさか……」

 俺の予想通り呼びかけるも返事はなく、代わりに聞こえてきたのは安らかに繰り返される呼吸音。そう、ナナシはこのタイミングで睡魔に引き込まれてしまったのだ。

「全く、人の気も知らずに……」

 思わず溜息が溢れるが仕方ないだろう。普通この状況で寝てしまうなんて考えもしないのだから。一応前触れのような仕草は見えてはいたが――

「ここまで疲れが溜まってたのか」

 俺はそっとナナシの身体を仰向けにしてベッドに寝かせ、しばらく寝顔を眺めていた。ナナシは日頃から掃除や洗濯、炊事といった仕事で屋敷中を駆け回り、時には街の方まで買い出しをしたりと使用人としての務めをしっかり果たすべく働いている。
 普段人前では弱音を吐かないので一見強がりな奴だと思っていたが、付き合い始めてからというもの俺にだけは心の内を曝け出し甘えてくれるようになった。コイツにとって俺が支えとなれているなら嬉しいことだ。
 回想に浸りつつしばらく見つめていると、突然彼女は俺の名前を呟きながら口元を緩めたではないか。俺を一人置いて一体どんな夢を見ているのやら。

「ふ、アイク……あれも、おいしそ……」

 無垢な寝顔を前に俺の膨れ上がった欲望が拭われていく気がする――訳はなく。むしろ逆に、この理性の糸は今にも切れそうなぐらい張り詰めていた。そんな自分を必死に律する俺の顔はきっと、普段負荷の高いトレーニングをしている時のそれと同じ表情をしているに違いない。
 仕方ない、こうなればいつも試合前にしている精神統一を試してみるか――俺は一度目を閉じて視界を遮断し、雑念ごと吐き出すように深呼吸を繰り返して昂っていた心身を少しずつ落ち着かせていく。

「……ナナシ、お前の恋人が俺で良かったな」

 大事な女が安心して俺の側に身を寄せて寝てくれること。これは恋人としてこの上ない幸せだと感じられる瞬間のひとつだ。自分の欲を発散させる為だけに彼女を求めた所で、互いの想いを重ね合わせることはできない。
 ただしナナシ自ら強請っておきながらお預けをされた分は次の機会にたっぷりと与えてやるとしよう。"覚悟しておけよ"という宣戦布告と共に柔らかな頬に口付けると、俺もナナシの横に潜り込んで瞼を閉じたのだった――

持ち前の精神力で振り切ったアイク。しかしこの反動が後にナナシさんに……? はてさて、この先どうなりますことやら。




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