Please tell me!
「駄目だ、やっぱりここで行き詰まっちゃう……」
放課後、家に帰ってきた私は自室で数学の宿題という強敵を倒そうと奮闘していた。しかしいくら教科書と睨み合っても、自分の解釈で攻略しようとしても奴はビクともしないのである。
「先生の話、ちゃんと聞いてるはずだけどなあ」
真面目に日々の授業を受けているつもりなのだが、どうしても途中からついていけなくなってしまうのである。単純に私の理解力が無いだけなんだろうと思うと、なんだか情けなくなってくる。
――本当は数学だけじゃなく、運動も得意だと思える部分はない。一言で言えば、殆ど取り柄がないのである。
「本当に何もないな、私」
そんなことを呟きながらも、とにかく目の前の宿題を片付けなくてはとひたすらノートにペンを走らせた――。
翌日。なんとか宿題を終わらせた私だったが、いざ学校で答え合わせとなると見事にノートは赤ペンの×だらけになっていた。どうしてこの答えになるのかという説明を聞いてもいまいち飲み込めず、先生には苦笑されてしまう有様だった。本当に自分は要領が悪くて泣けてくる。
――それから一日中気分が上がることはなく、鬱屈としたまま放課後を迎えた。昇降口を出て校庭を歩いていると、後ろから声がかかる。それは幼い頃からの友人、ネスのものだった。
「ナナシ、今日はずっと元気無いね?」
「……私、本当に勉強ができないんだなって痛感しちゃってさ」
「僕も勉強は得意じゃないから気持ちはわかるよ。野球のことならいくらでも教えてあげられるのになあ」
そう返しながらネスは眉を下げて頭を掻いている。本当は誰かに落ち込む姿を見せたくはないのに、彼の前だと自然に曝け出せてしまう。それは彼が気の置けない友人だからというのが大きいけれど。
思わず溜息をつくと、私の様子を見ていたネスは何か思いついたのかその困り顔を一瞬にして明るいものへと変えた。
「僕の友達にとても頭の良い子がいるんだけど、勉強が出来るだけじゃなく教えるのも得意なんだよ。彼ならきっと君の力になってくれると思うんだ」
「そのネスの友達って、もしかして他の町の子?」
私が首を傾げると、ネスは力強く笑ってみせる。彼ってオネット以外の町にも友人がいるから、本当に顔が広いんだなと思わされる。
「上の学年の勉強もこなせるし、おまけに発明とかも得意なんだ。ナナシが良ければ、勉強を教えてくれるように僕が頼んでみようか?」
「うん! もし良ければ……お願いしてもいいかな?」
私はネスの提案に一も二もなく飛びついた。今のまま一人で我武者羅に勉強をしても良い結果は残せそうもない。それに彼の友人なら、きっとすぐに馴染めそうだと思ったから。するとネスは笑顔で大きく頷いてくれた。
「決まりだね。後は彼が忙しくなければいいんだけど」
ネスの話ではその友達は隣国フォギーランドに住む男の子で、あのアンドーナッツ博士の息子さんなんだそうだ。アンドーナッツ博士といえば世界的にも有名な科学の権威で、そういった話に疎い私でも名前ぐらいは知っている。
しかし彼の話を聞いた私は少し緊張してしまう。それほど凄い子に教えてもらえるのは光栄だけど――要領の悪い私が上手く馴染めるんだろうか、と。
一抹の不安を抱えつつもその日はやってきた。ネスが例の友人に連絡をして約束を取り付けてくれたのである。彼は丁度研究も落ち着いてきたということで快く引き受けてくれたという。
自室をいつも以上に掃除して、最後に机と筆記用具を置いて準備は万全。もうひとつ、用意してある物があるんだけどこれは後のお楽しみ。友人はネスがテレポートで連れてきてくれるという話になっているから、後は彼らが来るのを待つだけだ。折角ここまでしてもらえたんだから、後は私が頑張らないと。
やがて約束の時間になると家のチャイムが鳴り響き、私は急いでドアを開けて出迎える。そこには穏やかに微笑むネスと――金髪の男の子が立っていた。
切り揃えられた前髪に分厚い眼鏡。緑色のブレザーを身に纏っていて、知的な印象を受ける。つい見とれていると、眼鏡の男の子は口元を緩めて片手を差し出し握手を求めてきた。
「初めまして、僕はジェフ。君がナナシだね。ネスから話は聞いているよ」
「は、初めまして。えと、今日は、よろしくお願いしますっ」
緊張してしまい勢いよく頭を下げるとネスは小さく吹き出し、ジェフからは同い年なんだし敬語じゃなくていいよと笑いながら返される。親しげに話しかけてもらえたことで少し肩の力が抜けた私は、二人を家の中に招き入れた。
自室に入ってもらい、机の前に腰を下ろすと早速勉強に取り掛かることになった。今回は特に苦手な数学の勉強を見てもらうということで、用意してあった教科書とノートを開く。ジェフには今学校でやっている授業内容を説明して、おおまかな範囲を把握してもらった。
「なるほど、ナナシは今何処で躓いているのか教えてくれるかい?」
「うん。えっと、ここと――」
私が教科書のページを捲りながら分からない部分を伝えると、ジェフは時折ペンを走らせてメモを取っていく。その様子を横目に眺めていたネスも自分の宿題と睨み合いを始めた。
「そういえばネスも数学苦手だったよな」
「……いくら先生の話聞いても途中で眠くなっちゃってさ」
「君は相変わらずみたいだな。さて、ナナシの苦手とする部分は分かってきたから、まずはもう一度基礎を覚え直していこうか」
ジェフはネスに呆れたように苦笑すると私の方に向き直る。いきなり解き方だけを教えて応用問題をこなすよりも、まずは基礎を理解してからの方が確実に身につくだろうとのこと。
私は授業に追いつこうという焦りから少しでも早く先に進めようと考えていたけれど、彼の言うことも尤もなので素直に従うことにした。
「応用というのは基礎を発展させたものだから、それを忘れたまま応用問題の解き方だけを教わったところですぐに混乱してしまうんだ。まずはこのページの問題をやっていこうか」
理解力に自信のない私でも、ジェフの教え方は分かりやすく感じられた。彼は私の反応を見ながら的確に説明してくれて、それは脳内に引っ掛かりを与えることなくするりと入っていく。
「――だとすると、次のこの問題はこうすればいいの?」
「うーん、惜しい。この問題は俗に言う引っ掛け問題だな。まずは四則計算の基本を思い出してみて」
きっと普段の私は授業というものに対し、勉強ではなく作業の一種のように感じているからかもしれない。授業の時はひたすら板書をノートに書き写しながら先生の解説を聞くことに必死で、内容の全てを吸収しきれていなかった。
それが今こうして彼に教えてもらっていることで、明確な疑問点やそれに対する的確な解法を見つけ出すことが出来た。――今までずっと解らずじまいで放置していたものが次々と解消されていく度に快感のようなものを覚え、もっと知りたい、勉強したいと意欲まで湧いてくる。こうしてノートにペンを走らせていると、今まで静かに見守ってくれていたジェフの口が開く。
「今の君、とても楽しそうな顔してる」
「えっ、そう……?」
「うん。目が活き活きとしてるっていうか」
そう言ってジェフはレンズの奥で目を細めて笑う。彼の表情はどこか嬉しそうで、私もつられるように頬を緩めていた。彼は別問題で止まっているネスの方に向くとこれまた丁寧に解説していく。――こうして暫く三人で机を囲んでいたけど、ふと時計を見ると短針は3時を示そうとしていた。
そろそろ良い頃合だし、用意しておいたアレを持ってこようかな。私は立ち上がると二人には少し待っていてほしいと頼み、一階のキッチンへと向かう。
そして今朝の内に作っておいたケーキを冷蔵庫から取り出すと、切り分けてトレーに乗せる。お茶も用意してから自室に戻ると、ケーキを見た二人は同時に目を丸くさせて顔を綻ばせる。
「そろそろ休憩にしよう? ケーキ作ってみたんだけど、良ければどうかなって……」
「わあ、美味しそう! ありがとうナナシ!」
「僕もいいのかい?」
「もちろん。その為に作ったから、遠慮なく食べてほしいな」
お言葉に甘えて、とジェフが手を合わせるとネスもそれに続く。二人がフォークを手に取るのを見て、私は切り分けたケーキを皿に乗せて差し出した。
紅茶を注ぎ入れ、三人揃っていただきますと声を上げる。最初に口に運んだのはジェフだった。彼はゆっくりと味わうように咀しゃくして飲み込むと、ほっと息を吐く。
「僕、こういった甘い物は好きなんだ。普段研究とかで糖分を補給するから」
「研究すると甘いものが欲しくなるの?」
「うん。脳を働かせるエネルギーとして糖分は一番大事な栄養素なんだ」
ジェフと会話をしていると今まで気付かなかった道が次々に開けていく感覚がして――まるで魔法のようだと思った。
その横ではネスがケーキを夢中になって食べていて、気に入ってくれたようで良かったと胸を撫で下ろす。ジェフも私も二切れ目を口に運んでいて、ネスはもう既に三切れ目に手を伸ばそうとしたところだった。
「ネス、少しは遠慮したらどうなんだ」
「だってこんなに美味しいんだもん。それに糖分は脳だけに必要なものじゃないし」
「君はまたそういう屁理屈を……」
「何言ってるのさ。ジェフが前に言ってたことじゃないか」
二人のやり取りに思わず笑みを零す。仲が良いなぁと眺めていると、ふと心の奥にじんわりとした痛みが滲んできた。ネスは勉強は苦手だけど運動はできるし、その上超能力者。ジェフも勉強が出来るだけじゃなく研究や発明が得意な天才肌だ。
対する私は勉強も運動も苦手で――得意なものなんて何もない。何か一つくらい特技があれば、もう少し自分に自信を持てるんだろうか。
そんな自分の姿が想像できなくて、いつの間にか俯いてしまう。そんな私の様子に逸早く気付いたのはジェフで、そっとこちらの顔を覗き込んでくる。
「ナナシ、大丈夫?」
「え、いや……改めてジェフもネスも凄いなあって思って。私は勉強も運動も出来ないから……全然ダメで――」
「僕は違うと思うな」
私の消え入るような声はジェフの一言によって遮られた。彼は眼鏡越しに真っ直ぐ私を見つめると口を開く。
「知ってるかい。人間は自分の短所を見つけるのは得意だけど、長所を見つけることは難しいと思いがちなんだって」
「そうなんだ……でも私の場合はひっくり返したって出てこないよ。何をやっても上手くいかないんだもん」
そう言いながら私は肩を落とす。自分なりに頑張ってはいるつもりだけれど、結局のところ努力は実を結ばず、いつも空回りばかりしている気がする。しばらく黙って項垂れていると、ジェフは目を細めて優しく微笑む。こういう表情もするのかと、場違いにも見とれてしまった。
「誰にだって自信を持てるものがあるはずなんだよ。それに気がつかないだけで。君だってこうして僕達の為に美味しいケーキを焼いてくれたじゃないか」
そう言うとジェフは再びケーキを一口頬張った。すると、今まで静かに話を聞いていたネスが身を乗り出してきた。
「ジェフの言う通りだよ。それにナナシはいつでも誰かを気遣える優しさを持ち合わせてる。僕はそれを知ってるから、君と友達でいたいと思えるんだよ」
「ジェフ、ネス……ありがとう。二人とも優しすぎるよ」
「それ程でも、ない」
「あ、ジェフが照れてる」
ネスが悪戯っぽい表情を浮かべてジェフを茶化し始めると、彼は止せよと小さく俯いた。私も何故だか途端に恥ずかしさが込み上げてきて頬が熱くなる。ジェフはひとつ咳払いをすると今度は眉を下げて小さく口元を緩めた。
「ナナシはこうして褒めてくれるけど、僕だって短所も結構抱えてるんだよ。見ての通り極度の近視だし、実は割と怖がりで。そのくせ友人からは無鉄砲だって言われたこともあったな」
ジェフの口から語られる意外な一面を聞いて驚いてしまう。彼の瞳は眼鏡の奥で楽しげに揺れていて、自分の短所すらも個性と割り切って受け入れる強さを秘めていた。
私もいつかはこんな風に自分のことを誇れる日が来るといいと願う。その為にはまず、苦手な数学を克服しなければ。いつの間にか私はもっと彼のことを知りたいと思うようになっていた。
これは知識欲のひとつなのか、それとも別の感情から生まれるものなのかは分からない。ただ、ジェフと過ごす時間はとても心地良く、昨日までの不安は嘘のように消え失せていた。ケーキを食べ終えた私達は勉強を再開し、数字の海に意識を沈めていった――。
ふと窓の外を見ると西日が眩しく輝いていて、ようやく夕方になっていたことに気付く。ジェフとネスは夕飯までに帰らなければいけないらしく、名残惜しさを感じながらも玄関先へと見送る。
靴を履いて扉に手をかけたところでジェフが振り返った。私がどうしたのかと声をかける前に彼の口が開かれる。
「ナナシ。僕は、その――今日君と会えて良かったと思う。だから、もし機会があったらまた会ってくれるかい?」
ジェフは少しだけ躊躇いがちに言葉を紡ぐと私の返事を待った。彼も同じ気持ちでいてくれたことが嬉しくて堪らなくて、私は大きく首を縦に振る。
「私こそ、また会いたいな」
ジェフは安心したように息をつくとブレザーのポケットからメモ用紙を取り出し、電話番号を書いて渡してくれた。
「良かった。また勉強で躓いた時はいつでも聞いて。これは僕の連絡先で、スノーウッド寄宿舎という場所の番号。まずガウス先輩が電話に出ると思うけど、僕の名前を言ってくれればすぐに出るから」
「ありがとう。大事に取っておくね」
「ジェフが女子に連絡先を教えたと知ったらトニーは何て言うのかな」
ネスが小声で何かを呟いていたようだったけど、ジェフに軽く睨まれると苦笑していた。トニーっていう名前が聞こえたけどジェフの友人とかなのかな。
そして最後に手を振って別れを告げると、二人は笑顔を残しつつ手を振り返してくれる。私は彼らが見えなくなるまで庭先に立ち尽くしていた――。
一人になった部屋で渡されたメモ用紙を眺めていると、自然と顔が綻んでいくのを感じた。
ジェフの優しげな眼差しや暖かな言葉を思い出す度に胸の中が満たされていく。こんな感覚は初めてで、私は未知の感情に揺さぶられるままに瞳を閉じて回想に浸っていた。
ジェフは自分の中に芽生えた恋心に気付くのに時間がかかりそう。