その言葉は誰のため
「オレ、ナナシが好きだよ」
そういって私の手を包むように握り込んでくるリンクの瞳は、どこまでも真っ直ぐにこちらを捉えていた。私達の他には誰もいない、西日が差し込む中庭。
どうしよう。"私も同じ気持ちだ"と、ただ返せば良いだけなのに。嬉しくて堪らないのに言葉を紡ぐはずの唇は微かに震えるだけ。
今までずっと、リンクは大切な友人だった。よく試合を抜け出してサボったり、とにかく気まぐれで掴みどころのない青年。けれど大抵のことは卒なくこなせる器用な人でもあり。
そして私が悩みを抱えていたり苦しい局面に立たされている時は誰よりも早く一番に駆けつけて、さらりと手を差し出してくれる。
そんな素敵なリンクの隣に私のような何の取り柄もない女が並んでしまって、本当に良いのだろうか。いや、もしかしたらいつもの冗談ではないか。そうだ、そうに決まっている。
「ま、まーたいつもの冗談でしょ? そういうのはもう、」
続けようとした私の言葉は、リンクの唇に飲み込まれてしまった。驚いて離れようとすると、彼の手が後頭部に回され押さえつけられる。
彼の胸板を押し返そうとした腕も簡単に捕らえられて、リンクの唇が何度も角度を変えて私のそれに触れてきた。
どうしよう。どうしよう。私はどうしたらいい。 こんな経験は今までに一度だってない。ようやく互いの唇が離れ、身体を解放された私はよろめくように後退していく。
「はぁっ、はあ……何で、」
「悪い。どれだけ本気か分かってもらおうと思って」
息一つ乱していないリンクと、呼吸を整えようと必死の私。こんな所までも対照的で、ますます惨めな気持ちになる。
これがもし他の女性達だったら、もっと素直に喜んで彼の告白を受けるだろうな。"私はあなたの隣に立つ自信がない。他に相応しい人達がいるはず"――そう告げて断れば良いのに、彼の顔が寂しげに歪む所なんて見たくない。
「わ、私も……でも、」
「ナナシ、」
再び伸びてきたリンクの腕が私の肩に触れる直前、この足は弾かれるように駆け出していた。ほぼ無意識にだ。私の名前を呼ぶ声が耳に届く。それすらも振り切って、ただ走った。
どこへ行けばいいのかなんて分からない。けれどこの身体は自然と彼の側から、あの眩しい光の当たる場所から離れることを選んでいた。
全く、"彼の悲しむ姿を見たくない"だなんてどの口が言うのか。結局は応えることから逃げて彼を傷つけていることに変わりはなく、それでいて相手を気遣った気になっている己の狡さに反吐が出る。
自室に駆け込み乱れた呼吸を整えていく内に、少しずつ冷静になってきた私はベッドに倒れ込んだ。
「こんな私の、何処が良いんだろう……」
ぼんやりと天井を見つめながら、まだ彼の感触が残る唇をそっと指でなぞった。こうしている間も頭の中は掻き乱されていて、いい加減おかしくなりそう。
もう、これ以上リンクの側にいるのは止めよう。胸が張り裂けそうなほど苦しい決断だけど、時が経てばきっと彼の目も覚めるはず――。
***
オレの初めての告白は、ものの見事に玉砕した。逃げていくナナシの背に声をかけることが精一杯で、追いかけもせずに呆然と立ち尽くしていたあの日。
やはり、強引にキスをしたのが不味かったんだろう。オレの告白を冗談と受け取り流そうとした彼女のあの笑顔を見た途端、もう我慢が効かなかったんだ。
もう一度腕を伸ばすもそれは届かなくて、以降ナナシは今日までオレを徹底的に避けているという状況だ。
最初は流石に落ち込んだものだが、日が経つにつれ別の感情が顔を見せ始めていた。よく考えてみれば、ナナシは何も返さずに去っていったじゃないか。
"わ、私も……でも、"
あの時ナナシは言いかけた言葉を飲み込み、押し黙っていた。そう、オレはまだ彼女の真意を何一つ知らないままだ。あの一言だけでオレが振られたとは限らない。単純に嫌なら断るという選択肢だってある。
優しいナナシのことだからオレを傷つけまいと気を遣った可能性も捨てきれないけど。しかし今度こそ彼女の気持ちを確かめなければ、この関係は悪化の一途を辿るだけだ。
「次は逃がさないからな、ナナシ」
***
それから数日後、ナナシを追い詰めるのに然程時間は掛からなかった。夕方、仕事を終えて気が抜けていたらしい彼女はオレの登場に肩が跳ね上がるほど驚いていた。
そして再び逃げるように後退る身体を捕まえ人気のない廊下の突き当たりに連れ込み、今に至る。ひたすらにナナシはオレから視線を逸らし、紅色に染まった頬を晒していた。
「こうして顔を合わせるの、久しぶりだな」
「そう、だね」
「……オレが君に会いに来た理由、とっくに分かってるだろ?」
「わ、分かんないっ」
間違いない。ナナシは既に分かっているはずだ。より赤みを増した横顔がそう教えている。それでもしらばっくれようとするのか。
君がその気ならこれ以上の遠慮はしない。オレはナナシの腰に手を回し、その身体をぐっと抱き寄せる。
「やだっ、離してっ」
「離したらまた逃げてくだろ?」
敢えて耳元で低く囁くと、ナナシの身体がびくりと震えたのが伝わってきた。それと同時にオレの胸板を押し返そうとしていた腕の力も緩んでいく。
「……だって、」
「"だって"? 何だ?」
「……私なんかが、リンクの隣にいていいのかって」
"私なんかが"――その一言にオレは思わず眉を顰めた。前から薄々感じてはいたが、ナナシは自己肯定感が低いらしい。いつも大人しく控えめで、謙虚な彼女。
それでいて一度決めたことはやり遂げようとする芯の強さ、常に誰を気遣える優しさも持ち合わせている。そんな君にオレがどれだけ癒されて、救われてきたことか。
「オレはナナシがいい。他の誰かじゃ駄目なんだ」
「でも……私、何の取り柄もないんだよ? 特別な力を持ってる訳じゃない何処にでもいる普通の女で、それに私はただの使用人だし、」
「はあ……取り柄とか身分って、人を本気で好きになるのにそこまで大事なことなのか?」
オレの問いかけに、ナナシはただ戸惑うばかりといった様子で口を噤んだ。確かに人によっては身分や取り柄の有無も大切な判断材料の一つになり得るだろう。
だけど少なくともオレはそんな物差しで好きになる人を選んだりしない。いつでも穏やかな心地よさを与えてくれたナナシだから側にいて欲しい、ただそれだけだ。
「ナナシ、今度こそ君の気持ちを聞きたい」
もう答えもなく避けられるのは辛いんだ。半ば懇願するようにナナシの両肩を緩く掴むと、やっと観念したらしい彼女が顔を上げお互いの視線が絡まった。
「私……本当はずっとリンクのこと憧れてて、いつの間にか好きになってた。だから告白された時も嬉しかった。でも、こんな私で本当に良いのかって思ったら、」
その続きはもういらない。ナナシの気持ちが聞けただけで充分だ。君がオレを好きだという事実さえあればいい。
もう彼女は"でも、"なんて言葉で逃げ続ける必要もないんだ。口ごと塞ぐように思い切り抱き締めると、ナナシは大人しく腕の中に収まってくれた。
「両想いって分かったんなら、もうオレから離れる理由はないよな?」
「こんな、私で良ければ……」
「はいはい、そうやって自分を卑下するの禁止。次やったら今度はもっと凄いことするからな」
「す、凄いことって……!?」
何を想像したのか上擦った声を漏らすナナシ。こういうウブな所も可愛くて、いじらしくて、何より愛おしい。
ナナシからの問いには敢えて答えず、彼女の温もりと慌てふためく様を楽しみながら再び包むように抱き締めた。
実は廊下での一件を誰かに見られていたらしく、次の日からすぐにオレとナナシの関係は屋敷中に広まってしまったのであった――。
卑屈になりかけてる相手は一筋縄ではいかないので、ここはやや強引に…。この後ナナシさんはリンクと過ごす内に無事矯正されていきます。