信ずる心
午後八時を過ぎた頃。風呂から出たオレは自室に戻ると、静かにベッドに腰掛けた。壁掛時計の秒針の音が、いやに聴覚を震わしてくる。
今夜はこの屋敷の使用人であり、オレの恋人であるナナシが遊びに来る予定となっている。
本来なら、愛しい女性と二人きりで過ごす時を今か今かと待ちわびることだろう。
しかし今のオレには、彼女に聞かないといけないことがあった。心の中にあるのは甘美な期待ではなく――炎のように揺らめく怒りだけだ。
ひとつ大きなため息をつくと、廊下からぱたぱたと軽快な足音が聞こえてきた。誰のものかは、考えるまでもない。
音はオレの部屋の前で止まると、ドアから控えめなノックが響いてくる。
「リンク、お待たせ! リーフ達と話し込んでたら時間過ぎちゃってて……」
「いいよ、入って」
素っ気なく返事をすると、開いたドアからはにかむような笑顔を湛えたナナシが現れた。
その途端、昼間に偶然目撃してしまった"ある光景"が脳裏に浮かび上がってくる。普段は愛らしいと思える表情も、今の心には響かない。
沈黙で返すオレに違和感を覚えたのか、彼女は歩み寄ると眉を下げてそっと顔を覗き込んできた。
「リンク……怒ってる? 遅れたのは本当に悪いと思って――」
「言わないと……分からないか?」
この問いかけに心当たりがあるのか、ナナシの肩が小さく跳ねた。その瞬間、オレは彼女の腕を掴んで引き寄せ、そのままベッドに押し倒す。
突然の出来事に目を丸くし、硬直する彼女。普段ならこんな強引なことはしないけど、今のオレは自分でも驚くぐらいに心が乱れていた。
「昼間、街を一緒に歩いてた男……誰なんだよ」
「え……っ、見てたの? あの人は使用人の先輩だよ!」
「……本当か?」
「本当だって! 信じてよ、リンク!」
オレの目を見ながら必死に訴えてくるナナシの姿。大切な彼女の言葉。オレだって、嘘をついているとは思いたくない。
でも、それならどうして二人きりで出歩いていたんだ。それも――あんなに楽しそうな笑みを浮かべて。
ふつふつと沸き上がる熱は"嫉妬"によるものだと、嫌でも分かっていた。怒りを通り越して自己嫌悪すら覚えてしまうほどに、胸の内がかき乱されていく。
それだけオレはナナシに心を奪われているんだと、改めて自覚する。今にも声に出したい想いを抑えながら、もう一度彼女に問いただした。
「そもそも何で二人だけで街を歩いてたんだ? 一体あの男と何してたんだよ」
「それは……」
途端に言葉を詰まらせるナナシ。そうか、やっぱり答えたくないってことだよな。オレはそっと目を閉じて深呼吸をする。
荒れ狂う波を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐く。こうなっては怒鳴っても、責め立ててもどうにもならないことだ。
「やっぱり、言えないような相手なんだな」
「待って、違うんだってば!」
慌てふためくナナシを見ていることさえ辛くなり、オレは立ち上がると部屋を出ようとした。
後ろから追いかけてきた声を無視して廊下へ出る直前、背後から彼女の両腕が伸びてきて抱きつかれる。
思わず振り向くと、目尻に雫を溜めているナナシがいた。なんだよ、泣きたいのはオレの方だっていうのに――。
「……離せよ」
「やだ……っ!」
首を横に振り、決して離れようとしないナナシ。腰に巻き付いている腕の力が更に強くなる。
本当は可愛くて愛しくて仕方ない。だけど今は――同じぐらい憎らしく感じてしまう。
あんな光景を見て簡単に受け入れられるほど、オレは大人じゃない。そのままナナシの腕を掴むと引き剥がした。
「オレは、君が思うほど器の大きい男じゃない」
「お願いリンク……聞いて、」
「ナナシ」
限界が近付いてきたオレは、続きを遮るようにして声を上げる。これ以上続けると本当に爆発させてしまいそうだ。
ナナシの言葉を信じるなら、あの男とは仕事上だけの関係のはず。しかし屋敷の外で二人きり、それも楽しそうに笑顔を交わす姿を見たら――恋人として疑うのは当然のことじゃないか。
「とにかく、もういい」
それだけ言い残すと今度こそオレは部屋を、屋敷を、飛び出した。
***
行く宛のなかったオレはとりあえず屋敷の付近にある湖へ行くと、馴染みの岩場に座ってその景色を眺めていた。
雲一つない夜空を見上げると星々の輝きが視界に広がる。あまりの美しさに見惚れるも、ふと訪れた切なさが微かな痛みをもたらした。
俯くように視線を下げれば、凪いだ水面に浮かぶ月が揺らぐことなく優しい光を放っている。穏やかで、それでいて芯の強さを秘めていて、時には心を癒してくれて。
まるでこの月のような女性。それがオレにとってのナナシの姿だった。彼女は本当に、他の男に心を寄せるほど揺らいでいたんだろうか。
もう少し部屋に留まって、彼女の話を聞くべきだったのか。今更になって考えた所で、もう手遅れか。オレが強引に断ち切った結果だ。
今思えば、オレはただ逃げ出したかっただけなんだろうな。ナナシが続けようとしていた言葉から。
さて、この後はどうしようか。森を抜けて、夜の街に飛び出してもいいかもしれない。そう思ったけれど、財布を置いてきたことに気がついた。
自分の迂闊さに深い溜息を零すと、背後から草を掻き分けるような音が近付いてきた。殺気は感じられない。多分狸や野兎といった小さな獣だろう。
視線を変えず、そのまま湖面に意識を向けようとした時だった。
「リンク……」
聴き馴染んだ声で名前を呼ばれて振り返ると、そこには遠慮がちにこちらを伺うナナシの姿があった。
よく見ると肩で息をしている。まさか屋敷を飛び出したオレを探して走り回っていたというのか。
オレが立ち上がって向き直ると、ナナシは再び悲痛な面持ちを見せる。彼女の頬は濡れていて、目の周りは赤く腫れていた。
「お願い。私の話、聞いて……」
ナナシは掠れた声で呟くとオレの手を握り、真っ直ぐな瞳で見つめてきた。暗闇の中でも関わらず追ってきた彼女の言葉と思いを、今度こそ聞き入れるべきなんだろう。
オレは沈黙を以て見つめ返すと、続きを促した。すると彼女は肩に掛けていたバッグの口を開き、中から片手ほどの大きさの箱を取り出す。
それは紺色の包装紙に包まれていて、光沢の入った黄色いリボンが月の光を受けて鈍く輝いていた。
「これは……?」
「リンクへのプレゼント。リンクの誕生日は来週だから、本当はその時に渡そうと思ってたんだけど……」
そう言いながら照れ笑いをするナナシ。ほんのりと赤い頬を掻く姿からは愛らしさが溢れていて、自然と肩の力が抜けていく気がした。
でもまだ肝心の話が見えてこない。戸惑うオレに、ナナシは持っていた箱を差し出してくる。大きさ的にアクセサリーといった小物だろうか。
とりあえず開けてみようと思い、ナナシの了承を得てから包みを開いた。中からは予想通りの物が姿を現す。
黒いケースの中には銀色に輝くネックレス。ワンポイントに小さな青い石がはめられていて、飾り気の無いシンプルなデザイン。
しかしこのネックレスと、先輩である"あの男"と一緒に歩いていた事実がどう繋がるというんだろうか。
「それね、先輩からのアドバイスを参考に選んだものなんだ。私だけじゃ同年代の男性が喜びそうなものを選べなかったから……リンクってば普段から欲しいものとか言ってくれないし」
「じゃあ、今日ナナシ達を街で見かけたのって……」
「だから、あれは誤解! 今日はプレゼントを選ぶ為に先輩に付き添ってもらったの。それに先輩も自分の彼女さんに贈るプレゼントを迷ってたところでね、私も一緒に良さげな物を探してたんだ」
ナナシ曰く――オレへのプレゼントについて先輩に相談したところ、ナナシはうっかりしている所があるから変なものを薦められないように付き添ってもらったとのこと。
その代わり、先輩の恋人に贈るプレゼント選びに協力していたと。笑顔を交わしてたのも、お互いの惚気話に熱が入っていたからだという。
そこまで聞いて、オレはようやく胸を撫で下ろした。改めてナナシから受け取った箱を見てみる。彼女が、オレのことを思って真剣に選んでくれたプレゼント。
それ以上に嬉しかったのはナナシがオレの誕生日を覚えてくれていたことと――サプライズとして当日まで隠し通そうとしていた彼女らしい心遣い。
箱に付いていたメッセージカードには、オレに向けた誕生日の祝福と彼女の手書きで記された愛の言葉。
感激するのと同時に、強烈な罪悪感に押し潰されそうになる。何も知らなかったとはいえ、あの時のオレはナナシを信じきることができずに散々酷い言葉を浴びせてしまったんだ。
「……本当に悪かった、ナナシ」
「えっ? なんでリンクが謝るの」
「だって、オレは……ナナシの話を聞こうともしないで、あんな――」
「それは私がちゃんと説明しなかったからだよ。謝るのは私の方……!」
ナナシは慌ててオレに近付くと、再び手を握ってくる。彼女の瞳は一寸も逸れることなく、オレの顔を見つめていた。
そこには決意にも似たものが秘められていて、喉まで出かけた言葉ごと息を飲んでしまう。
「私、リンク以外の男の人となんて考えられないよ。だから、これからも私のことを信じて。お願い……」
こうして声を発する内にもナナシの瞳は潤んでいく。こんなにも想われてオレは幸せ者だと思うと同時に、彼女への愛しさが溢れていった。
オレは堪らずナナシを引き寄せ、肩に顔を埋める勢いで抱き締める。やがて彼女もオレの背中へと腕を回し、優しく抱き返してくれた。
そっと腕の中のナナシを覗き込もうとすると、表情を隠すように胸板へ顔を押し付けてくる。その仕草も本当に可愛らしくて、オレは彼女の頬に手を添えると視線を合わせた。
「ナナシのこと、心から信じていくから……このネックレスも君だと思って、大事にする」
「ありがとう、リンク……私こそ、離れないからね」
駄目だ、もう抑えられそうにない。熱に浮かされるまま顔を近付けていくと、彼女は目を閉じてオレを受け入れようとしていた。
互いの唇が触れ合うと、啄むように何度も求め合う。今までも味わってきた甘く温かな感触。いくら重ねたって飽きることは無い。ああ、オレは本当に彼女が好きなんだ。
ひたすらに溢れる想いを噛み締めると、ナナシを包み込むように抱き締めた。そうすれば彼女もより深く身を寄せてくれる。
こうして人知れず愛を交わし合うオレ達を、月から注ぐ淡い光が照らしていた。
前半の怒る!怖い!っていう感じのリンクを書きたかった、ということで…。
それでも最後はいちゃつかせたかった(迫真)