雨のち晴れ
今、私と母は机を挟んで睨み合っていた。所謂親子喧嘩というもので、きっかけは些細なことだった。それなのに私も母も意地っ張りなところが出てしまい、軽い言い合いから大喧嘩に発展していたのである。
大量の雨粒が窓に叩きつけられる音、震えるような雷鳴すらも今の私達の声を遮れない程に――。
「いい加減にしてよ、お母さんの分からず屋! もういい!!」
「ナナシ、待ちなさい!」
背後から呼び止めようとする母の声を振り切り、傘も持たずに家を飛び出した私はひたすら近所の"タツマイリ村"を目指して走っていた。
私の家は村から北にある"テリの森"の入り口にあり、十分も歩けば村に入れる程の近さだ。馴染みある木の門を潜ると、近くの軒下で崩れ落ちるように腰を下ろす。勢いで家を出てしまった私には行く宛がない。
あの時は頭に血が上っていたせいで、まともな判断が出来ていなかった。今から帰ろうにも雨の勢いは増すばかり。ここまで来る間に服はたっぷりと水を含んでいて、身も心も次第に重く冷たくなっていく。
"私、何やってるんだろう……"
激しい後悔に襲われて、涙が溢れてきた。こんなことなら素直に謝れば良かった。そうすれば別の未来もあったかもしれないのに。
悔しくて情けなくて悲しくて、どうしようもない気持ちが押し寄せてくる。しばらく蹲っていると身体が震えるようになり、くしゃみまで出てきてしまった。
夏とはいえこのままだと風邪を引くのは確実。身動きができず途方に暮れていると、水の跳ねる音が近付いてくる。そっと顔を上げてみると誰かが中央の広間を歩いていて、私の姿を見るなり慌てた様子で駆け出してきた。
「ナナシ? どうしたのさ、こんな雨の日に……って、ずぶ濡れだよ!?」
「り、リュカぁ……っ、」
驚いた様子で目を見開いているのは私の幼馴染の少年リュカだった。傘を片手に袋を抱えているのを見るに買い物の帰りらしい。追い詰められた状況で、見知った人物が現れるとこんなにも安心するのか。
「とりあえず僕の家に行こう。ここからなら君の家より近いし」
なんとか立ち上がり、差し出された手を握るとリュカはびくりと肩を震わせた。それ程までに私の手は冷えきっているらしい。それから彼の家に着くまでの間、リュカはなにも聞いてくることはなく、黙々と私の歩調に合わせて歩いてくれていた。
その後家に着くとリュカはすぐにタンスからタオルを取り出し、玄関で立ち尽くす私に手渡してきた。お礼を言いつつ全身を拭いていくと、タオルはあっという間に水気を吸収して重たくなっていく。彼の愛犬であるボニーは、どこか悲しげな声で鳴きながら私を見上げていた。
「お風呂沸かしてあるから、まずは身体温めてきて。それとこれ、僕のお古だけど君なら合うと思うから」
そう言って手渡されたのはシャツと短パン。よく見ると今のリュカが着ているものよりも一回り小さいサイズだ。案内されたお風呂場に入ると、冷えきった身体を湯気が優しく癒してくれる。
そして改めて自身を見るとなんとも酷い有り様だった。足や腕には泥が跳ねているし、髪は首や額にべったりと張り付いている。
「私……本当にバカだ」
念入りに身体を洗っていると、再び自責の念がこぼれてしまった。お母さんの気持ちを無視して一人で暴走した挙げ句、幼馴染まで巻き込んで――本当にどうしようもない、私は。やがて視界がじわりと滲んでいき、しばらく湯船の中で静かに泣いていた。
***
風呂から出て着替えを済ませると、全身をリュカの匂いに包まれて妙に意識してしまう。髪を整えてリビングに戻ると彼が台所に立ち、何かを作り始めているところだった。
「あの、色々ありがとうね……」
「いいよ。それよりもうすぐ昼ご飯できるから椅子に座ってて」
「えっ、それは流石に悪いって……落ち着いたら帰るから、」
リュカは眉をひそめると私の腕を掴み、有無を言わさず椅子に座らさせてきた。彼の圧を感じて大人しくしていると、目の前に次々と料理の皿が並べられていく。
「今ナナシを帰らせるわけにはいかない。明日には確実に風邪引くよ」
「リュカ……」
私の目の前ではふわふわのオムレツが湯気を立てていた。リュカに促され、オムレツの端をフォークで切り取り口に入れる。その瞬間バターのまろやかな風味が口内に広がり、卵がとろける食感に頬が緩んでいった。
「美味しい……!」
「良かった。このオムレツ、結構練習したからね。それでもお母さんの味にはまだまだ遠いけど」
リュカは窓の景色に目を向けたけど、その横顔は寂しげに感じられた。リュカの母ヒナワさんは二年前に起こった"ある事件"の最中に亡くなっていて、それと同時期に兄のクラウスも行方不明となっている。
それ以来父のフリントさんはクラウスの捜索に全てを注ぐようになり、リュカと過ごす時間も滅多にないという状況だ。今もテーブルを囲んでいる四人分の椅子が、かつて平和だった頃を物語っているようだった。
「ナナシ、そろそろ聞いてもいいかな。この雨の中、一人であそこにいた理由を」
こちらに向き直った彼は穏やかに微笑み、優しげに問いかけてきた。ここまでしてもらっているし、正直に答えるべきだと頭では分かっているのに、唇は震えてしまう。
「お母さんと、喧嘩したの。それで頭に血が上って、勢いで村まで走って……」
改めてみると実にどうしようもなく情けない理由だ。全ては自分の感情を抑えられない未熟さが招いた結果。また目頭が熱くなっていくのを感じて俯く。
「お母さん、きっと呆れ果ててるよね。こんな娘で……もう家に帰らない方が、いいのかな」
「ナナシ」
声と共に肩に温かな感触が伝わる。驚いて顔をあげると、いつの間にか隣に立っていたリュカが私の肩に手を置いている。
「おばさん、とてつもなく心配してると思う。ナナシが泣きそうになって後悔してるのと同じくらいに」
まるで心を見透かされたような発言に、私は思わず目を見開いた。そしてリュカは更に続ける。
「心から反省できてるなら、おばさんもきっと分かってくれるはず。言いたいことは伝えられる内に言うべきだよ」
リュカの青い瞳は微かに細められていく。そうだ――彼にはどんなに心から願っても、二度と言葉を交わせない存在がいるじゃないか。
「僕と同じ思い、ナナシには絶対してほしくないんだ。これから先何かあってからじゃ、遅いんだから」
きっとリュカは今でも深く後悔しているのではないか。ヒナワさんに言いたいことも、してあげたいことも山のようにあったはずなのに、その未来は突然絶望に塗りつぶされて。
もし私が同じ立場だったら、心が壊れていたかもしれない。それ程の痛みを、リュカは背負いながら今を生きている。だからこそ彼は私に後悔しないよう、道を踏み外さないよう言葉をかけてくれているんだ。
リュカの優しさに触れられたおかげか、先程の強ばりが嘘のように解けていく。そして不思議と気持ちが前向きになり、少しずつだけど勇気も湧いてきた。
「ありがとう、リュカ。私、ちゃんとお母さんに謝りたい」
「気持ちは固まったね。雨が落ち着いたら君の家まで送っていくよ」
本当に、どこまでも優しいな。私も甘えてばかりじゃ駄目だよね。この二年でリュカの精神は大きく成長している。もう昔の泣き虫で弱気な彼はどこにもいない。
今の私のままじゃ、彼と同じ位置に立つなんて到底無理だ。もっと、強くなりたい。リュカが私にしてくれたように、今度は私が彼を支えるんだ。そしていずれ大きくなったら――遠い将来、自分達の姿を想像したところで慌てて頭を振る。
「どうしたの、ナナシ」
「な、何でもないっ」
「あれ、頬赤い。もしかして本当に風邪ひいたんじゃ……」
気遣わしげにそっと額に手を添えられ、私の心臓は大きく跳ね上がってしまう。ああ、何もこのタイミングで意識しなくて良いのに。間近にあるリュカの顔に視線を向けることもできず、再び俯く私であった――。
リュカって四章いく前には家事全般一通りこなせるようになってそう。