リュカ短編15

Morning glow

在るべき姿へ

「あ、ナナシ。いつもお疲れ様」
「リュカさん、お疲れ様です」
「敬語じゃなくていいって、前にも言ったでしょ。君の方が年上なんだし」
「いえ、使用人という立場がありますので」

 今僕が通りかかった渡り廊下を掃除しているのは、この屋敷で働く使用人のナナシ。彼女は僕より少しお姉さんで、何でも卒なくこなせる器用な人。
 それは仕事であっても例外でなく、掃除洗濯買い出しといった作業を手際よく片付けていくので、他の使用人達からも頼りにされている。
 しかしそんな彼女を見ていて、僕は以前から気に掛かることがあった。ナナシはこの通り淡々としていて、普段から表情を殆ど変えることがなく、話す声にも抑揚というものが無い。要は生物であれば本来抱えているはずである感情の起伏を感じられない。
 そのせいなのか、使用人の間では時々彼女のことを"ロボットみたい"と揶揄する声もある。でもその度に僕は心の中でひっそりと否定してきた。何故なら、過去にナナシが笑顔を浮かべた瞬間を目にしたことがあるからだ。
 そうは言ってもたった一度だけ、それも遠くから見かけただけに過ぎないけれど――確かあの時のナナシは花壇の手入れをしていて、水滴で輝く花達を眺めながら微笑んでいたんだ。

"今年も綺麗に咲いてくれて良かった……"

 何故だかあの横顔は今でも鮮明に思い出せるし、その度に胸の奥がざわざわと騒ぎ出して落ち着かなくなる。でもこれは決して嫌なものではなく、むしろ暖かく感じられて。
 きっと、本来のナナシはとても優しい人なんだと思う。これはただの勘でしかないし、僕のささやかな期待も混じっているけれど。とにかく、僕はもう一度あの笑顔を今度は近くで見たいと願うようになっていた。

***

 そういうことで今、僕は屋敷の前庭にある花壇の近くで待ち伏せ――という訳ではないけど、ナナシがやって来るのを待っていた。
 彼女は毎週火曜日の午前中に花壇のお世話をする当番になっている。それは以前から知っていたんだけど、僕の試合のスケジュールと中々噛み合わないでいた為、偶然午前の部の試合を組まれていないこの日は絶好の機会だった。

「ナナシ、まだかな……」

 花の香りを乗せた風を肌で感じつつ近くの木陰で待っていると、程なくして裏庭の方向からガタゴトと何かを転がす音が近付いてくる。そして曲がり角から現れたのは肥料の袋を積んだ台車を牽いたナナシだった。彼女は僕の姿を認めると、一瞬目を丸くして立ち止まり深く頭を下げて会釈する。

「……リュカさん。おはようございます」
「やあナナシ、お疲れ様。これから花壇のお世話?」
「はい。本日は私が当番ですので」

 その声はやっぱり抑揚に乏しくて、僕に向けられている目元も形を作ることは無い。でも今になって怯んでいる場合じゃないんだ。今日を逃せば今度はいつ二人きりになれるか分からないんだから。

「僕も手伝いたいんだけど、良いかな? 今日は試合があまり組まれてないから時間を持て余しててさ」

 そういって台車に近付くとナナシは目にも止まらぬ速さで僕の前に回り込んできて、無言で台車を背に庇い両手を拡げる。その顔には僅かだけど焦りの色が浮かんで見えた。
 やはりこの人は元から感情が無いんじゃない。きっと何か原因があって、自ら心の奥に隠しているんだ、

「あの……お気持ちだけ受け取らせていただきます。これは私の仕事ですから」
「遠慮しないでよ。僕もナナシの手伝いがしたいんだ」
「どうして、そこまで……?」

 明らかに困惑した様子で首を傾げるナナシに、僕は思わず言葉が詰まった。事の発端は"もう一度ナナシの笑顔を見てみたい"ということ。でもそんなことを直接言おうものなら余計彼女を戸惑わせてしまうだけ。
 僕は一体何をやってるんだ。勢いだけで行動に移したって、こんなんじゃちっとも格好がつかないじゃないか。これが大人だったら、もっと上手く立ち回って自然にアプローチできるんだろうな。そう思うと何だか無力感が押し寄せてきた。
 いくら過去に大冒険を成し遂げ色々な経験を積んだからといっても、他人との向き合い方に関して僕はまだまだ子供なのだと痛感する。そんな時だった。

――では、肥料の袋を下ろすのを手伝っていただけますでしょうか」

 いつの間にか俯いていた僕の頭は反射的に上を向く。こちらを見つめるナナシの表情は変わらず感情が見えないけど、発した声には普段とは違って少しだけ柔らかなものを感じられたのはきっと気のせいじゃない。

「え、良いの……?」
「……先程からリュカさんの拳が微かに震えていましたので。余程の理由がおありなのかと」

 本当に自分はどこまで情け無いんだろう。ナナシの負担を少しでも軽くしようというつもりが、逆に気を遣われるなんて。でも彼女が僕の感情の表れに一早く気付いてくれたことが嬉しくて、やはり自分の勘は間違っていなかったんじゃないだろうかと思い上がりそうになる。

「うん、任せて。これぐらいの量なら一度に運んであげるよ」

 今、僕の胸の辺りから込み上げているのは弾むような心の高ぶりと確かな熱。それが湧き上がるままにPSIの輝きを宿した右手を振り上げれば、台車に積まれていた袋が全て浮き上がり宙を舞う。そしてナナシの周囲をぐるりと一周させた後、花壇の側に積み重ねて見せた。
 この光景には流石のナナシも口をあんぐりと開けたまま呆然とするしかないようだった。しかしそれも束の間――彼女の頬から力が抜けたようで、いつもは固く引き結ばれている口元には淡い笑みが浮かんでいた。

「は、はは……あ、こほん。ありがとうございます、リュカさん。これで円滑に作業を進められます」
「ナナシ、やっと笑ったね。いつもそんな感じで良いのに」

 今のは少しやり過ぎたかと後悔しそうになったけど、思わぬ形でナナシの笑顔を拝むことが出来たのだから結果オーライだ。彼女はというと居た堪れないといった様子で僕から視線をそらしてしまう。次に漏れたのは、それはそれは大きな溜息だった。

「はあ……折角慣れてきたと思ってたのになあ」
「それって、どういうこと?」
「……感情を出さず淡々と与えられた仕事を完璧にこなしていく生活。私にとって"この世界"ではそうやって生きていくのが賢明だと思ってきたから。でも、こうもあっさりと仮面を剥がされるようじゃまだまだかな」
「ごめん……僕には君の考えがよく分からないよ。感情を隠すことに何の意味があるのさ」

 しっかり仕事をこなすことは確かに大事なことだと思う。だけど感情を抑えてしまうのは別の話じゃないか。もっと喜んだり、怒ったり、悲しんだり、笑ったり。どれも生物としてこそ与えられた大切なものであり、生きていく上で決して切り離すことはできない。
 なのにナナシはそれを内に封じて、本来の自分らしさを押し殺しながら毎日を過ごしていたというのか。そんなの勿体なさ過ぎるし、寂しいに決まってる。何よりナナシは他者の感情の動きに聡く、それを気遣える優しさも持ち合わせているというのに。

「私、ただの使用人だし。此処で暮らす人達はみんな凄い方ばかりだから……私みたいなのが皆さんの前で調子に乗る訳にはいかないって思ってて……ずっと大人しくしてた」

 ああもう、そんな理由だったのか。君が陰で仕事を覚えようとどれだけ努力をしてきたか、どれだけ周りに気を遣ってきたのか。それを知る人はまだ少ないかもしれないけど、君の側にいる僕もその一人になれたってことを伝えたい。
 だからもっと自信を持って素を出して良いんだって知って欲しい。そう思ったらいてもたってもいられなくて、気が付いた時には既に身体が動いていた。僕はナナシの両手をとると自分の手で包み込む。

「え……リュカ、さん?」
「呼び捨てでいいってば。それよりこれからは少しずつ変えていこうよ。"この世界"で君が君らしく生きていけるように。皆も本当のナナシを受け入れてくれるはずだから」

 にっこり笑いかけるとナナシの表情は強張り、瞳の奥が揺らめいて動揺が見えた気がした。今まで彼女はこんな風に誰かに受け入れてもらおうとか、そういうことから避けてきた故に当然の反応かもしれない。やがて彼女は肩を落とすと俯いてしまう。

「今更、私にできるかな……」
「今更なんかじゃない。もっと君のこと知りたいっていう人達だっているはずだよ。僕だって……そうだから」

 そう言うと、僕の手に包まれたままだったナナシの手に僅かに力が籠ったのが分かった。それまで逸らされていた視線が再び交わる。ナナシの瞳に映った自分の顔は穏やかなもので、その瞼が緩く弧を描く瞬間はスローモーションのようにゆっくりと流れていく。

「……ありがとう、リュカ。少しずつ進んでみるね」

 ずっと求めていたナナシの笑顔が僕の視界を埋め尽くしている。多分今の僕は凄く間の抜けた顔をしているだろうけど、そんなことなどどうでも良くなるくらいに見惚れてしまっていた――

***

 あれから一ヶ月が経ち、ナナシの努力の甲斐もあり彼女の交友関係は広まりつつあった。すると当然男子との関わりも増えてきて、僕としては正直気が気でない部分があったりする。さて、僕ももうそろそろ本格的に攻めていかないといけないな。

この後人が変わったように攻めてくるリュカくん。ナナシさんは頑張って受け止めてください。




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