リュカ短編8

Morning glow

One summer day

 例えばどうだろう。ここからさらに素敵な状況を作り出せるかもしれないとしたら、"らしくない"ことをしてみるの良いんじゃないかと思うんだ。


 真夏の午後三時。開かれた窓から舞い込む風がカーテンを踊らせ、蝉の羽音は鼓膜に浸透するかのように鳴り響く。
 今、僕はナナシの部屋にいる。理由は単純で、ただナナシに会いたくなったから。正直に言ってみると彼女は苦笑しながらも部屋に招き入れてくれた。
 その後は特に何もすることはなかったし、取り敢えずといった流れでテレビゲームをしている。画面にはエンジンを唸らせて走るカートの群れ。それぞれ砂埃を巻き上げながら荒野を走り抜け、順位を競い合っていた。

「よしっ、一位! このまま勝っちゃうからね!」

 ライバルから首位を奪い取ったナナシはガッツポーズを取り、強気な笑みを浮かべた。悪いけどそのまま勝たせる訳にはいかないな。今まで堅実な走り方をしてきた僕だけど、ここら辺で逆転を狙うことにする。
 コース上には触れるとお助けアイテムを出してくれる結晶が一定間隔で配置されている。それを上手く使えれば不利な状況から脱したり、ライバル達をごぼう抜きできるチャンスを生み出せるというわけだ。

「よし、出た。これを使って……」

 早速結晶から得たアイテムを使うと、自機がミサイルのような形に変形し、爆発的な勢いで飛び出していく。爆走している内に前方を走るカートを尽く蹴散らし、変形が解除された頃にはナナシの背後まで詰めることができた。

「えーっ!? そんなのアリ!?」
「最終ラップ、勝負はここからだよ」

 驚愕を顕にするナナシに自然と口角が釣り上がる。僕だってこのゲームをそこそこやり込んでいる身だし、簡単に勝ちを譲るわけにはいかない。
 しかしナナシも気を取り直し、負けじと僕の進路をブロックするように立ち回ってくる。攻撃アイテムを投げては躱され、コーナリングの隙を突こうとすればしっかりイン側を抑えられる。
 互いに一歩も譲らない接戦。それは他のカートが割り込む余地がないほどに白熱していた。
 そしてほぼ同時にゴールし、レースは終わりを迎える。結果、一位は僕。僅差で二位にナナシの名前が連なる形で決着となった。そこでようやく肩の力が抜けた僕達は、カーペットの上に寝転んで大きく息をつく。
 集中力による熱は身体を火照らし、外気の暑さも相まって顔中汗まみれになっていた。

「あぁー……悔しい! でもすっごく楽しかった」
「うん、僕も。またやろうか?」
「もちろん、次は絶対に勝つんだから! でも一旦休憩してからね」

 そう言うなり起き上がったナナシは備え付けの小型冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに入れてこちらに差し出してくる。ありがたく頂戴すると、冷たい液体が喉を通っていく感覚が何とも心地いい。

「これでエアコンがあったら天国だったのになあ」
「早く修理が終わるといいね」

 今、この部屋のエアコンは修理業者の工場にある。修理が終わるまでの間、こうして窓を開け扇風機で暑さを凌いでいるというわけだ。
 それでも辛いからか、ナナシはうちわを取り出してパタパタと扇ぎだした。風に乗って彼女の香りが漂ってくる。石鹸や洗剤の香りと入り混じったなんとも甘い匂い。
 それが鼻腔を刺激して、何だか落ち着かない気分になってしまう。意識を逸らすために残りの麦茶を飲み干すけど、依然として心臓の鼓動は速くなるばかりだ。
 ふと顔を上げればナナシと目が合う。その瞬間、僕は弾かれるように目を逸らしてしまった。何をやってるんだ、これじゃ余計に不自然じゃないか。

「リュカ、どうしたの?」
「あ、いや、その……」

 案の定、ナナシは首をかしげていた。何とか取り繕おうと言い訳を考えるものの、こんな時に限って頭が回らない。何か言わなきゃと焦れば焦るほど頭の中が真っ白になっていく。
 部屋で二人きりという素敵なシチュエーションなのに、情けないにも程がある。さっきまでの余裕はどこに行ったんだよ。こんな状況、滅多に訪れないんだぞ。

「ねえ、もしかしてさ……緊張してる?」

 唐突に投げかけられた質問に俯いていた顔を上げる。そこには悪戯っぽい笑みを浮かべるナナシの姿。図星を突かれて動揺していると、彼女は更に続ける。

「だってさっきから様子が変だもん。目も泳いでるし、そわそわしてるし。それに顔が赤い」
「そ、そんなことないって……!」
「じゃあ何でこっち見なくなったの?」

 そう指摘されると返す言葉がなかった。確かに僕は緊張している。それもこれも、目の前にいる君のせいだ。
 ここまで追い詰められてはもう取り繕うとか、誤魔化すとか、そんなこと考えていられない。気付けば身体が勝手に動いていた。
 勢いよく立ち上がった僕が取った行動。それは自分でも信じられないものだった。ナナシの肩を掴むと、そのまま仰向けに押し倒していたから。

「え、ちょっ……リュカ?」

 突然の事態に混乱しているのか、ナナシは目を白黒させている。無理もない、僕自身だって驚いているんだから。でももう時間は巻き戻せないし、勢いづいた衝動を止めることもできない。これは一種の賭けといってもいい。
 さらに顔を近付けていけば、互いの吐息を感じる程に距離は縮まっていく。このまま、本当にキスをしてしまおうか。簡単なことじゃないか。後もう少し顔を近付けるだけ。

「ナナシ、僕は――

 そこに続く言葉はなかった。ふと脳裏を過るものがあり、次の瞬間にはナナシから飛び退くようにして離れていた。心臓が早鐘を打ち、身体中から汗が噴き出す。
 今、僕は何をしようとしていた。どうしてあんな真似をしてしまったのか。自問するが答えは見つからない。ただひとつ言えることは、残されていた僅かな理性が欲望に打ち克ったということだけ。
 とにかく謝らなければいけないと顔を上げると、起き上がったナナシが呆然とした表情を浮かべていた。

「えっと……今の、」
「い、いや……よろめいちゃって、その、ごめん」

 我ながら恐ろしく苦しい言い訳だ。しかし咄嗟に出た言葉を訂正することもできず、気まずい空気が流れるだけ。
どうしよう、どうやってこの空気を払拭すればいいんだろう。必死に考えを巡らせていると、突然ナナシは声を上げて笑いだしたではないか。

「……ふっ、あはははっ! もう何それ、おっかしい!」

 お腹を抱え、目に涙を浮かべながら笑う彼女を見て、思わず呆気に取られてしまう。何がそんなにおかしいのだろうか。疑問を口にする前に、ナナシは口を開いた。

「笑ってごめん、あまりにもらしくないことするから驚いちゃって」

 "らしくない"って、なんだよ。ナナシは何も分かっていない。僕の本当の気持ちも、抑えきれない衝動も。きっと想像すらしていないだろう。だからそんな風に笑えるんだ。そもそもナナシは、僕のことを男としては――

「だって、もしリュカが本気で迫ってきたら……私、心臓持たないよ」

 恥じらうように俯く姿は、思い浮かばせていた言葉を真っ向から叩き割るような衝撃をもたらした。全身の血液が沸騰するような感覚に目眩を覚える。
 ナナシは、しっかり僕のことを"男"として意識してくれていた。それならもう何も遠慮することはない。

「……もしさっきのが本気だって言ったら、どうしてた?」

 試すように問いかければナナシは僅かに頬を赤らめて顔を逸らす。沈黙が続き、蝉の鳴き声だけが辺りに響く。やがて意を決したように彼女が放った言葉は、僕の胸を揺さぶるに十分な破壊力を持っていた。

「凄く恥ずかしいけど……そのまま、受け入れてたかも」

 小さく紡ぎ出された言葉の一つ一つが脳髄まで響き渡る感覚。それほどまでに強烈な一撃。
 僕は堪らずナナシを抱き締めていた。汗で肌同士がひっつく感覚すらも気にならない。抵抗することなく腕の中に収まった彼女を感じつつ、耳元で囁く。

「それじゃ、さっきのやり直してもいい?」

 返事の代わりに聞こえてきたのは息を呑む音。やがて背中に腕が回される感触が伝わってくる。それは肯定の意を示していた。遂に柔らかなものが触れ合えば、こめかみから汗が伝っていく。
 時折吹き込んでくる温い風。ヒグラシの羽音。眩く差し込む西日。この夏が、僕達による新たな始まりを鮮やかに彩っていく――

当初悲恋にするか迷ったけど、やはりハッピーエンドで。




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