ネス短編13

Morning glow

落ちた先は

 今日は"キスの日"と言うらしく、スクール中の女子達はその話で持ち切りだ。私はというと、友人から詳しく教えてもらうまで詳細は知らなかった。
 キスといえば生物が愛情などを伝えるために唇を重ねる行為。ドラマや漫画でそういったシーンに差し掛かるとやけに盛り上がるのは、思春期ならではなんだと思う。
 しかし私にはそんな相手はいないし、いまひとつ実感が湧かないのである。つまり、今の私には縁のない話という訳だ。
 やがて授業が終わり、放課後になるとクラスメイト達はぞろぞろと教室を出て行く。
 友人は別のクラスの男子と下校するみたいで、顔を赤らめると会話を弾ませながら廊下へ出て行った。
 気のせいか、今日はやけに男女で並んで歩く姿が目立つ。こうしてみると案外身近でもカップルは成立しているんだと実感する。
 私は特に用事もないし、学校を出るのは人の波が落ち着いてからでもいいだろう。こうしてしばらくの間ぼんやりと窓の景色を眺めつつ、思考に耽っていた時だった。

「ナナシ、一緒に帰らない?」

 朗らかな声と共に突然視界に現れたのは、私の幼馴染であるネスの顔。驚きのあまり仰け反ったその瞬間。腰掛けていた椅子が傾き、ぐらりと景色が後転していく。
 それはやけに遅く感じられ、まるで全身が宙に浮いているかのようだ。ネスが目を見開いて机越しに手を伸ばしてきたけど、間に合わない。このままじゃ、私は――

「ナナシ……っ、」

 私と彼以外誰もいない教室に、椅子が倒れる音が響いた。直後に襲い来るのは後頭部への衝撃。そのはずだったのに、代わりに訪れたのは全身を包み込まれる感触。
 それと同時に、頬に柔らかく温かなものが押し付けられる。恐る恐る目を開けると、視界を埋め尽くす距離にネスの顔があった。
 ここでようやく、彼が私を庇って一緒に転んだのだと気付く。――そして私はもうひとつの事実に直面してしまう。
 今、彼の唇が私の左頬に当たっていること。分かっている、これは事故だ。頭では理解しているのに。
 左頬から伝わる熱に呼応するように、胸の奥底に眠っていた"何か"が溢れ出しそうになる。呆然としているとネスはゆっくりと体を起こし、どこか痛そうに眉を寄せていた。

「いったた……ナナシ、大丈夫?」
「う、うん」

 ネスは特に気にする素振りを見せず私を起こしてくれた。もしかすると彼は気付いていないんだろうか。
 それはそれで助かるけども。対する私は激しく脈打つ鼓動を押さえ込むのに必死だった。
 幼い頃から今まで、ネスと体が触れ合う機会はたくさんあったものの、ここまで強く意識することは無かった。
 単純に異性の友達という認識しかなかったから。なのに今は心臓が痛いくらいに脈動し、口から漏れる息も不規則だ。
 今の出来事を切っ掛けに、私の中にある未知の蓋が開かれようとしている。その中に有るものを自覚してしまえば――二度と閉じることはできない禁断の扉。
 そんな私の心情も知らずにネスはこちらの後頭部や腕をぺたぺたと触り、怪我が無いかを確認している。友情故の思いやり溢れる行為すら、今の私には刺激が強すぎる。

「うーん……たんこぶはできてないと思うけど、一応保健室に行く?」
「だ、大丈夫。本当に平気だから」

 絞り出した声は微かに震えていた。なんとか返事を済ませて立ち上がると倒れた椅子を戻す。こんな場面、誰かに見られでもしたら翌朝から噂のネタにされることは避けられない。
 もしそうなったら、私を助けようとしてくれただけのネスを巻き込んでしまう。改めてこの場に誰もいなくて良かったと、心から安堵した。

「ネスこそ大丈夫だった? 私を庇ったから……」
「僕は平気だよ。これくらい」

 そういってネスはお馴染みの黄色いリュックを背負いなおすと、再び笑顔を向けてきた。ああ駄目だ――またあの感覚がやってくる。先程の熱が再び体中を駆け巡って、胸の痛みを抑えられなくなってしまう。
 これはドラマなどの恋愛シーンを見ている時に感じるものと似ているけれど、それとも少しだけ違う気がする。一体私はどうしてしまったというんだ。

「さあ、帰ろう! 今日は珍しく宿題がないしさ、リュック置いたら僕の家で遊ぼうよ」

 まるで何事もなかったかのような振る舞い。私は小さく頷くことしかできず、そっとネスの横に並んだ。この左頬の熱は簡単には引かないだろう。
 この顔で家に帰ったら、きっと母に何かあったと勘付かれてしまう。昔から私とネスが遊んでいる姿を見るたびに意味深な笑顔を向けてくるし、からかわれるのは目に見えてる。
 彼と何気ない会話をしている間も母の笑顔が思い浮かんでしまい、心の中で軽く溜息をついた。そして、意気揚々と隣を歩くネスの横顔にほんのりと赤みが差していたことを、私は知らない――

このねつの しょうたいが つかめない!状態のナナシさん。
そしてネスサンはちゃっかり者。




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