共に歩む
午後七時。仕事を終え帰宅した僕は愛車をガレージに止めた。庭に踏み込めば、ようやく帰ってきたという実感に満たされる。
今なら妻のナナシも仕事を終わらせて先に帰ってきている頃だ。チャイムを鳴らして合図を送れば、中から足音が近づいてくるのを感じて頬が緩む。
ドアを開けると同時に慌てた様子の妻が視界に飛び込んできて、思わず吹き出しそうになった。
「お、おかえり! まだ夕飯できてないから先にお風呂入ってて!」
「ただいま、ナナシ。そんなに急がなくていいのに……君も帰ってきたばかりで疲れてるだろ?」
「そうは言っても、二人で出来たてのご飯食べたいし……」
手を後ろに組みながら彼女は照れ臭そうに笑う。その姿だけで癒されている僕も割と単純な男だと思う。
ナナシとは幼少期から家族ぐるみで付き合いのある幼馴染という関係だった。普段は気配り上手で明るく振舞ってはいるけど、その内には繊細さを隠し持っている。
それでいて一度決めたことは無理をしててもやり通そうとする、頑固ともいえる一途な部分も持ち合わせていて。
そんな彼女だからこそ僕としては放っておけず、いつしかこの手で守りたいと思うようになっていた。
学生の頃、意外にもナナシの方から告白してくれたことは今でも鮮明に覚えている。
こうして共に年月を重ね、互いを想う心が"恋"から"愛"へと変わった頃――僕のプロポーズによって遂に結婚へ至った。
「君は張り切りすぎだよ。その気持ちは嬉しいけどね」
上着を一旦ソファーにかけながら、キッチンに立つ背中に声をかける。野菜を片手に振り返った彼女は眉を下げつつも、微笑んでいた。
「まあ……自分でも分かってる。無意識に気合入りすぎかもって」
「子供の頃から変わらないなあ。そうやって昔から誰かの為に無理したりしてさ。何度僕が止めに入ったか」
「ぐぬ、反論できな……てかっ、その話はいいからお風呂入ってきて!」
苦し紛れか、話を遮るようにナナシが声を張り上げる。僕は笑って流しながら脱衣所へ足を進めた。ああいう所も可愛いんだよなあと、緩む頬をそのままにシャワーを浴びる。
リビングに戻ると、ダイニングテーブルには夕食の準備が進められていた。湯気が立つ料理の皿を手に、ナナシが僕の方を振り返る。
「ちょうど良かった。もうすぐ出来るからね」
「ああ、これ先に運んでいくよ」
「うん、お願い。後は私が持っていくので全部だから」
僕らの夕飯は毎晩こういった感じだ。休日は僕が作ることもあって、その度に彼女は満面の笑みを浮かべて美味しそうに食べてくれる。
自分だけでなく大事な人の為に料理をするということがどれだけ尊いものか。ナナシと暮らすようになってから、ようやく分かり始めてきた。
母さんも昔から父さんの為に料理を作っている時、このような幸せを感じてきたんだろうな――。
***
二人で夕食の後片付けをするこの時間も、僕にとっては癒しのひと時だ。今日の出来事や仕事の軽い愚痴を交えつつ、拭きあげた食器類をラックに置いていく。
視界にナナシの左手が映り込むたびに、薬指にある誓いの証が輝いていた。僕の左手に付けているものと同じ、二人で選び抜いた最高のデザイン。
「そういえば、今日九時からネスが好きだって言ってた映画やるって。ネスが帰ってくる前にCMで流れてたんだ」
「良かった、見逃すところだったよ。そろそろスタンバイしとかないとな」
僕の言葉に頷いていたナナシはふと、何か含みのあるような笑顔を浮かべた。こういう時の彼女は決まって、あるモノを用意していたりする。
「そこで旦那様。冷蔵庫に"例のモノ"をご用意しておりますが……今宵いかがです?」
「……うむ、それではいただこうか」
最近の彼女はこうして畏まった言い回しをすることがある。それが毎度楽しげなものだからつい乗ってしまうんだよな。
近頃色々なドラマを見漁ってるみたいだから、そこに影響されたのかもしれない。ちなみに仰々しく"例のモノ"と呼んでいるけど、実際は少しお高めの缶ビールだったりする。
二人でソファーに腰掛け、プルタブを開けると心地良い音が響いた。ナナシは僕に寄り添いながら、自分の分を飲み始める。
「ん、やっぱり美味しいね。疲れきった体に染み渡るよ……」
「確かにこの一杯は格別だ。それに、今夜は奮発したみたいだしね」
「あ、おつまみも作ってあるんだった。ちょっと待ってて!」
ナナシは足取り軽くキッチンへ向かうと、冷蔵庫から皿を取り出してきた。棒状のチーズに生ハムを巻いたものや枝豆が盛られていて、その彩りに再び食欲がそそられる。
更にレンジには焼き鳥が乗せられた皿が入っていく。ここまでくると夜食に近い気がするけど、この際別腹ということで割り切ってもいいんじゃないか。
「はーい、お待たせ。そろそろ始まるよね」
皿を手に戻ってきたナナシは嬉々としてソファに座ると、隣にいる僕の肩に頭を預けてきた。彼女の髪からはほのかにシャンプーの香りが漂ってきて、鼻腔を心地良くくすぐる。
程なくして始まった映画を眺めながら、僕はナナシの肩に腕を回していた。彼女は動じることなく、その身をより深く寄せてくる。
その内酒が進んできたのもあって、ちょっとしたラブシーンに差し掛かった際はふざけて真似てみたりなんてことも――。
やがてエンドロールが流れる頃、穏やかなBGMに包まれていた僕達の元に睡魔が降りてきた。明日が休日だと分かってると、呆気なく身を委ねそうになる。
「今度映画観るなら劇場がいいよな」
「うん。やっぱアクション物とかはスクリーンで楽しみたいね」
「それじゃ次のデートは映画鑑賞ってことで。来月この続編が上映されるし丁度良いでしょ」
「ごく自然な流れで取り付ける辺り流石だね」
照れ隠しだと言わんばかりに視線を逸らすナナシの横顔は、ほんのりと赤らんでいた。触れ合う腕から伝わる体温も心なしか高い気がする。
きっと今の僕は彼女と全く同じ色を浮かばせているだろう。先程から胸の奥が熱くて仕方がない。
この熱の逃がし方を見つけられないまま、妻の両肩に手を添えた勢いで抱き寄せる。肩口に顔をうずめてみれば、彼女の腕が僕の背に回された。
「ちょっと、どうしたの……?」
「ん……何となくこうしたくなった」
「変なネス。でも……あったかくて、気持ちい――」
緩やかに言葉が途切れると、僕にもたれかかるようにして体重をかけてくるナナシ。どうやら彼女も相当酒が回っていたらしい。腕の中で寝息を立て始めた妻を見て思わず苦笑が漏れる。
「こら。風邪引くよ、ナナシ」
軽く揺り動かしても目覚める気配はない。これは朝まで起きないな。そっとナナシをソファーに寝かせると、机の上のものを片付けていく。
一通り済ませると彼女を抱えて寝室へ向かった。瞼も足取りも重くて仕方ない。僕の体に睡魔が取り付いて離れてくれないんだ。
朦朧とする中でベッドに転がると、無意識にナナシを引き寄せる。抱き枕みたいに抱え込んで、柔らかい感触に頬を擦り付けた。
ああ、こうして今日も満たされていく。夜、くたびれた身体を押して帰宅すれば君が出迎えてくれて。朝一番に笑顔を交わせば一日の始まりを感じられる。
そんな日常が愛おしくて。こんな幸せ、君とじゃなければ決して得られないんだよ。
半年前、僕達はお互いの人生を掛け合わせて共に歩む道を選んだ。僕が一生の愛を示したあの日。差し出した手を取ってくれた君は、溢れる涙をそのままに微笑んでいた。
ナナシ。僕と出会ってくれて、僕について来てくれて、本当にありがとう。自分の腕に包まれた彼女の"形"を感じながら、今夜も甘い微睡みに身を任せる――。
かなり前の書きかけに手を加えたもの。