ネス短編24

Morning glow

橙色の頂上で

「ナナシっ、その……君のこと、大好きだから!」
「嬉しいなあ、ありがとうね。私もネスのこと大好きだよ」

 茹で蛸のようになっているであろう僕とは対称的に、目の前のナナシは嬉しそうに微笑むもその顔には赤みはさしていない。
 やっぱり、今回も駄目か――肩を落としそうになるのを堪えて笑顔を貼り付ける僕。もうこれで何度目になるだろうか。窓から差し込む西日に照らされた部屋が、より哀愁を際立たせていく。

「……もう帰らないと。ナナシ、今日も勉強教えてくれてありがとう」
「いいって。ネスの力になれてるなら私も嬉しいし。また躓いたらいつでも聞きに来てね」
「うん、多分またすぐにお世話になると思う」

 "もう、ネスってば"と楽しげに笑うナナシについ見惚れてしまう。僕より少し年上で、僕より身長が高くて、僕より頭が良くて――誰よりも好きな君。
 彼女は僕がまだ小さな頃に近所へ引っ越してきて、それからというもの僕や妹のトレーシー、隣人であるミンチ兄弟のことも実の弟と妹のように大切にしてくれている。僕達としてもナナシのことを頼りになるお姉さんとして尊敬していた。
 けれど、その"憧れ"がいつしか"恋慕"へと変化していたことに気付いた僕は、自身の心に戸惑いながらもそれを受け入れ、今では真っ直ぐに愛を伝えられるようになった。まあ結果は毎回見ての通りなんだけど。

「それじゃあ、またねー」

 庭先まで見送りに出てくれた彼女に手を振り返して、僕はとぼとぼと家路についた。といっても僕の家までたった数分の距離。歩きながら思いに耽るにはあまりにも足りない。やり場の無い僕の溜め息は、夕暮れの空に吸い込まれて消えていった。


――それで、今日もダメだったの?」
「……うん」
「はあ……ナナシさんは相変わらず鈍感ね!」

 夕食の時、僕の向かいに座ったトレーシーは呆れたと謂わんばかりに肩をすくめてみせた。妹の言う通り、ナナシは昔から恋愛事や異性からの好意にとても疎い所がある。
 その証拠に今までナナシに彼氏ができたことはないし、今まで告白してきた男子達も"暖簾に腕押し"といった彼女の様子を見て諦めていったのだから。

「ナナシ、このままずっと恋人を作る気はないのかな……?」
「待ってお兄ちゃん。"女心と秋の空"っていう外国の諺があるでしょ? もしかしたらナナシさんもいつか心変わりする日が来るかもしれないわよ」

 "今日スクールで習ったの"とどこか得意気なトレーシーを横目に、僕はまた大きく溜め息をついた。この手であのナナシの心を掴める日なんて本当に来るんだろうか。もしそうだとしても、どれくらい先の話になるだろう――

***

 あれからずっと悶々としたものを抱えつつ迎えた日曜日のこと。カーテンの隙間から差し込む朝日で目覚めるも、ぼやける意識の中で二度寝をするか迷っていた時だった。誰かが階段を上がってくる音がしてきて、そちらに耳を傾ける。音の大きさやテンポからして多分ママだろうな。
 足音は僕の部屋の前で止まると、ぱっとドアが開かれた。入ってきたのは僕の予想通りママであった訳だけど、その表情はどこか楽し気に見える。何か良いことでもあったんだろうかと、まだ重たい目元を擦りながら上体を起こした。

「おはようネス! 今ナナシちゃんが家に来てね、玄関であなたを待ってるのよ」
「……え?」

 一瞬耳を疑った。あまりにも予想外過ぎて眠気も吹き飛ばしてしまう程の衝撃。ナナシから僕に会いに来てくれた――待ち望んでいた展開なのに思考がついていかない。そんな僕に構わず、ママは早く着替えなさいと急かしてきた。
 僕はベッドから飛び起きるといつもの服に着替えて自室を後にする。階段を下りたら洗面台へ直行し、歯磨きと洗顔を済ませて寝癖だらけの髪を必死で整えた。そして心臓が跳ねるように脈をうつまま玄関へ急ぐと、そこには確かに私服姿の彼女が佇んでいた。

「あー、やっと来た。おはようネス」

 こちらへ振り返り花が咲いたように笑うナナシを見て、思わず喉を鳴らす。朝から大好きな人の笑顔が見られるだなんて。そんな喜びに浸りつつも、しかしどうして突然会いに来てくれたのか気になって仕方ない。

「お、おはよう……ナナシ。どうしたの、急に」
「うん。せっかくの休みだし、ネスとお出かけしようかなって」

 これは本当に現実なのか。この朝だけで、僕はどれだけの幸せを与えられてしまったんだ。それはもう明日から先が恐ろしく感じられてしまう程で、また隕石が落ちてきても不思議じゃないくらいに。

「リュック持ってくるから、待ってて」

 自分でも笑ってしまう程に抑揚のない声。二階へ駆け上がりナナシの姿が見えなくなった所で、ようやく僕の身体は小刻みに震え出した。きっと嬉しさのあまり顔が真っ赤に違いない。ふと視線を感じて顔を上げるとトレーシーの部屋のドアが少し開かれていて、そこから意味深に微笑む妹の顔が覗いていた。

「……何だよ」
「何だよ、じゃないでしょ。今日こそナナシさんに意識してもらえるように頑張らなきゃ! こんな機会滅多にないんだからね」

 それだけ言うとトレーシーはウインクをしてドアを閉じてしまった。背中を押してくれているはずの妹の言葉がやけに重くのしかかる。ああこれでは駄目だ、気負わずに楽しまないと。折角ナナシから誘ってくれたんだから。


 今僕とナナシを取り囲んでいるのは、鮮やかな光を纏い賑やかな音楽を奏でるアトラクションの数々。そして幾つもの興奮や悲鳴が入り混じった喧騒。ここはフォーサイドの近郊に新しく造られたテーマパークだ。
 最新技術の3D映像を楽しめるトンネルやジェットコースターといった目玉アトラクションを一通り楽しんだ僕達は、空いているベンチに腰かけ売店で買ったアイスを食べているところ。一口舐める度に冷たさと甘さが口いっぱいに広がる。隣で彼女も幸せそうに頬張っている姿が微笑ましい。

「ここ初めて来たけど、どれも面白かったなあ」
「本当? そう言ってもらえて良かったー。と言ったものの、私も初めて来たんだけどね!」

 そうして茶目っ気を含んだ笑みを向けるナナシ。その姿にも胸が高鳴ると同時に、不思議と勢いがついてきたことに気付く。今なら何でも言えそうな気がする――そう思い立った時、ナナシはすくっと立ち上がると大きく背伸びをした。

「さて、時間も時間だし……最後はあれに乗ろうか!」

 ナナシが指さす先にあったのは巨大な観覧車。夕日を受けて立つそれは、このテーマパークの顔だと言わんばかりに堂々と構えている。確かにこれはラストを締めくくるにはうってつけだと思う。僕もベンチから立ち上がり、彼女と共にゴンドラの元へ歩き出した――

「ここまで高くなると街の向こうの海まで見えてくるね」
「うん。とても綺麗だよね」

 橙色に染まった水平線は眩しくて、それを眺めるナナシの瞳にも同じ色が写っている。時間が経つのはこれほどに早いものだっただろうか。無限に続くような楽しさにもいずれ終わりが訪れる。
 切ない痛みを感じながらナナシの横顔を見つめていると、不意にこちらを向いた彼女と視線がかち合う。つい驚き俯いてしまった上に、どうにかこの空気を誤魔化そうと口が勝手に動き出していた。

「あの、聞いていいかな……今日はどうして僕を誘ってくれたの?」
「それは……何か最近のネス、元気なさそうだったから」

 ああ、気付かれていたのか。これまで下校後など家の前で顔を合わせたりする度に平静を装ってきたのに、ナナシにはあっさりと変化を見抜かれていた。そんなに分かりやすかったのかと苦笑しつつ、心配してくれたことを嬉しく思う自分もいて複雑ではあるんだけど。
 そっと顔を上げると相変わらず優しい眼差しを向けてくれているナナシがいる。僕と君を乗せた箱は、喧噪を地上に置き去りにして頂点まで登りきった。これ以上にないシチュエーションの中、僕は覚悟を決める。もう思い悩むのも、今日で最後にしようと。

「そっか、心配させてごめん。実は僕、君にしっかり伝えたいことがあるんだ」
「どうしたの? 改まって」

 少しずつ喉の奥が狭まっていくような気がして、息をするのも苦しい。鼓動の音が外にまで漏れてしまいそうだ。まるで自分の心臓の位置を確かめるかのように胸に手を当て、ナナシの目を見つめ返す。
 これでも駄目なら、僕は今度こそナナシのことを諦める。長年に及ぶ片思いに終止符を打つんだ。

「僕は、ナナシのことが大好きだよ。出会ってからずっと、君を想ってきたんだ」
「ありがとう、私もネスこと好きだよ。本当の弟みたいで――
「違う! 僕はナナシのこと一人の女の子として好きって言ってるんだよ!」

 もう引き返せないという覚悟を込めて言い放った。ナナシは僅かに目を見開いたまま僕を見つめてくるだけ。緊張で荒くなった呼吸を整えながら、彼女からの返答を待つ。

「……はは。私、ずっとネスに酷いことしてきたのかもしれない」

 暫く続いた沈黙の後、返ってきたのは予想外の言葉。どういう意味かと問いかける間も無く、ナナシは立ち上がると僕の左頬に顔を寄せて――柔らかく温かな感触が訪れると共にゴンドラが微かに揺れた。

「あ、えっ……!? ナナシっ、」
「私、今までネスの気持ち全然分かってなかったんだ。それなのに勘違いしてあっさり"私も大好き"なんて返して……きっと最近元気無かったのも私が原因だよね。だから、」

 そう言うとナナシは僕の隣へと座り直し、こちらの手を包むように握ってくる。驚いて見上げると、いつになく真剣な表情を向けてくるナナシ。

「今まで傷つけてきた分、これからはしっかり受け止めていく。いずれネスの気持ちに応えられるようになりたいから」

 しっかりとした声色で、でも照れたように頬を赤く染める君がどうしようもなく愛おしくて堪らない。気付いた時には、返事の言葉を選ぶより先に身体が動いていた。

「ナナシ……!」

 僕よりほんの少しだけ大きな肩を抱き寄せ、腕の中に収める。ようやく、やっと届いた僕の想い。ナナシは抵抗する素振りもなく、僕の抱擁を受け止めてくれている。

「絶対に君を振り向かせて見せるから……覚悟してね」

 どうしよう、あまりにも嬉しくて声が震えてしまう。折角格好よく宣戦布告したかったのに、これでは決まらないな。なんてことを頭の隅に追いやって、僕は少し体を伸ばすとナナシの頬に唇を寄せていく。
 これからもナナシを愛するという、不変の想いを込めた誓いの証を送りたい。しかしあと数センチという所で――僕らを乗せたゴンドラはガタンと音を立てて停止し、扉がゆっくりと開かれた。

「お楽しみいただけましたでしょうか? お足元に気を付けて降りてください!」

 いつの間にか地上まで降りていたらしい。満面の笑みを浮かべるスタッフがゴンドラから出るように促してくる。
 僕は慌ててナナシから離れて立ち上がるものの、顔中に集まってくる熱は一向に冷めようとしてくれない。そんな僕を見て悪戯っぽく笑うナナシと視線がかち合う。

「やっぱり、今日遊びに誘って本当に良かった。そろそろ帰ろうか」
「……うん!」

 差し出された手を取りながら、僕の心は雲ひとつない快晴の如く澄み渡っていた。さあナナシ、明日からの僕は今までとは一味も二味も違うよ。身長もすぐに抜かしてみせるし、勉強だって今よりもっと頑張ってみせる。近い将来、堂々と君の横に立てるくらい強い男になれるように――

夜も良いですが、夕暮れの観覧車も乙なものです。




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