Don't run away
ある休日の昼下がりのこと。私はネスにおやつをおねだりされて、暇だったこともあり取り敢えずクッキーを作ることになった。
久しぶりに何か作りたいという気分だったし丁度いい。皿に盛られたクッキーを彼は美味しそうに頬張っていて、その年相応の子供らしい姿にほっこりしていた時のことである。
「ねえナナシ、僕のことどう思ってる?」
「ん? どうって、しっかりしてて良い子だなって思ってるけど」
「そうじゃなくて、男としてどうって聞いてるの」
いつになく真剣な表情で迫ってくるものだから、私はその迫力に押されるように後退る。普段は見せない姿に内心動揺を隠そうと必死だった。
十二歳ともなると思春期だし、改めて自分自身について色々考えるようになったんだろうか。もしかして好きな人でもできたのか、なんて考える。
「もう、そういうのは本当に大切な人ができた時に聞くものだよ」
「大切な人ができたから聞いてるんだよ。本当にナナシは鈍いよね」
そういうネスの瞳はまっすぐ私に向けられていた。まさか、この様子だと彼は私を異性として見ているということなのか。
仮にそうだとしてもそれは、例えば生徒が憧れの先生などに向けるものと同じ、一過性の慕情に過ぎないと思っている。
だから私はそれをつい軽い気持ちで受け止めていた。いつか成長していく中で本当に大事な存在と出会い、愛を育んでいくものだと思っているから。
「んー、もしかして今のネスにとって大切なのは私ってこと? まっさか、そんな訳ないよね」
「それ以外に何もないよ。僕はナナシが好き。ナナシは、僕のこと……どう?」
上目遣いで私のことを見上げてくる顔はほんのりと赤く染まっていた。大胆な告白の後に見せてくる内気な仕草にギャップを感じて、私は心底愛らしいと思いながら頷いてみせた。
思春期に芽生えた恋心を気安く弄んではいけないと思うし、その中で上手く正しい方向に誘導するのが年上である私の役割だと思っているから。
「ありがとう。私もネスのこと良いと思ってるよ。普段からしっかりしてるし、女の子にもモテそうだなって思ってるから」
「本当? ナナシにそう言われたら僕、嬉しくてどうにかなりそうだよ。ナナシが僕のこと見てくれるなら、モテるかどうかとかどうでもいいもん」
ネスはそこまで言うと、耳まで真っ赤にさせた顔をティーカップで隠すように紅茶を飲み始めた。妙に大人びていてもこういう所は年相応の男子が見せるそれである。
私からすると微笑ましくて、クッキーを齧りながらその様子を眺める。やがてネスは空のカップをテーブルに置き、クロスを見つめたまま口を開いた。
「もしナナシに嫌われたら……耐えられないや。生きていけないよ」
「そ、そんなに?」
「うん。もしそうなったら、ナナシと一緒に命を絶つのも厭わないよ」
そう言いながら穏やかな笑顔を向けてくるネスに背筋が凍りつきそうになる感覚を堪えつつ、そういうことは言うものじゃないと注意して流した。
すると彼ははっとした表情を浮かべて小さく、ごめんなさいと返してくるだけだった。私は先程の彼らしくない発言に冷や汗が止まらなかった。
***
あれから数日後。この日は何故だか落ち着けず、外に出る理由が欲しくて部屋の中を見渡す。よく見ると生活用品を一部切らしていた為、買い物に行くという目的を見つけて外出することにした。
しかし今の時間帯、大広間にはネスがいた。彼は椅子に座って壁掛けモニターに映る番組を眺めている。周りにはリュカやトゥーンといったお馴染みのメンバーの姿は無かった。
今いる通路から玄関へ出るにはこの大広間を通り抜けなくてはならない。だけどあの日以来何となく彼の側を通りかかることに抵抗があった私は、玄関からではなく厨房の裏口から出ることを考案してた。
何故ここまでするかと言うと、やはりこの間のネスの発言が尾を引いているからというのが大きい。
単なる悪ふざけで言うにしては、あの時の彼から漂う雰囲気は到底子供が醸し出すものには感じられなかった。情けないことに、私はそれが恐ろしくて堪らなかったのである。
幸い今は厨房に誰もおらず、なんとか裏口の扉まで着くとドアノブに手をかけて外に出る。今日は適当に買い物をしながら夕方まで時間を潰そう。そう思っていた時であった。
「――ねえ、どこ行くの?」
不意に声をかけられ肩が跳ね上がったものの、なんとか大声は出さずに済んだ。恐る恐る振り返ると、裏口のドアに寄りかかっているはネスの姿。
いつものように子供らしくあどけない笑みを浮かべたまま、彼はこちらを見つめている。私は変に慌てた素振りを見せないように作り笑いを浮かべたけど、口元が引きつっているのが自分でもよくわかる。
「あれ、ネス……こんなところでどうしたの?」
「ナナシこそどうしたの? わざわざ裏口から出ていこうとするなんて、まるで誰かにバレないように出かけようとしてるみたい」
心臓を鷲掴みにされたかのような感覚を覚えて、額から嫌な汗が伝う。なんとか誤魔化せる言い分を思いつかなければ、と考えた所でひとつ思い浮かんだ。
「か、買い物だよ。ほら、カービィとかに見つかると色々おねだりされちゃうから……」
「……へえ、買い物? ね、僕もついていっていい?」
一瞬妙な間があったような気がしたけど、多分気付かれてはないと思う。同行していいかと聞いてくるネスの目は輝いていて、そんな顔をされたら強引に逃げ出すこともできなくなる。
今思えば、あの時の発言だってそこまで深い意味は無かったのかもしれない。きっと子供故の突発的なものだろう。
そう考えると目の前のネスは普段のよく知る姿であることには変わらないと思う。愚かなくらい単純な私は大きく頷いていた。
「いいよ。一緒に行こうか」
「やったっ、ナナシとデートだ!」
かわいいことを言うなあ、と和んでいるとネスが実に楽しそうに私の手を掴んで引っ張ってくる。こうして私は彼に促されるように商店街へと駆けていった――。
その後はつい買う予定の無かった物まで買ってしまったり、休憩がてら喫茶店に立ち寄り二人でお茶をしたりなどして過ごした。
やがて時間の流れとともに、いつの間にかネスに抱いていた"恐れ"のようなものも消え失せていた。夕日が照らす中、歩き疲れた私達はひとまず近所の公園で休むことにした。
「今日はナナシと二人っきりで遊べて楽しかったよ」
「そう? 楽しんでもらえてよかった」
ネスの嬉しそうな顔につられるように、こちらも頬が緩む。そんな私の顔を見上げながらにこりと微笑んでいたかと思うと、急に真顔になるネス。
夕暮れ時だからか、その表情は影を帯びていてなんだか不穏だ。不意に生温い風が私達の間を吹き抜けて、思わず身を震わせた。それでも微動だにしない彼に対し、何事かと思った瞬間。
「――ねえナナシ。本当は今日、ただ買い物に行くつもりじゃなかったんでしょ」
今まで聞いたことの無いような低い声を受け、私の体は金縛りにあったように動かなくなる。多分、この動揺は繋がれた手から彼に伝わってしまったかもしれない。
「え? 何で、そんなこと……」
「本当は僕から逃げようとしてたんだよね」
穏やかな口調で紡がれた言葉は、私の声を遮った。冷たいものが背中を伝っていく。寒気がするのは夕暮れの風に包まれたからではない。
「な、に言って……」
「本当ナナシって分かりやすいよね。でも駄目だよ。黙って僕の元から離れようとしちゃ」
言い終えると突然繋がれた手に力が入り、指の骨が軋みそうなほど強く握られた。私が痛みのあまり顔を歪ませている間も、ネスは口元に弧を描き真っ直ぐこちらを見つめていた。
これほどの力を込めているはずなのに顔色ひとつ変えていない辺り、子供ながらも確かな力を秘めた彼の強さの片鱗が垣間見える。
「や……ネス、い、痛い……っ」
「これぐらい強く握っておかないと、ナナシはまた逃げちゃうでしょ」
「だ、だから逃げてないってば!」
「へぇ……僕から逃げようとしてる上に嘘まで吐くんだ。ナナシって酷いよね」
酷いのはどちらだ、と返したところで恐らくこれも流されてしまうんだろう。こちらの主張を都合よく解釈し、一方的な振る舞いをしてくる今の彼には話が通用しない。
それでもなんとか誤解を解こうと考えを巡らせるが、今朝のように機転を利かせる返答が浮かばずにいた。
「ねえナナシ。僕のこと嫌い?」
「……嫌いじゃない、けど、」
"君が怖い"――この一言が言えなかった。それを聞いたネスは満足げな笑みを浮かべた。
一体何を考えているのか分からない。ただ、彼が酷薄な笑みを向けてくる度に背筋が凍る。見慣れているはずのあどけない笑顔が、今はとても恐ろしい。こんな身の毛もよだつような恐怖を感じたのは生まれて初めてだ。
「良かった! それならナナシは僕から離れる理由なんて何処にもないよね」
私の答えに満足したらしく、握られていた手の力を緩められる。それでもまだ強いぐらいだけど、これ以上言い返すと次は何をされるか想像もつかない。
とにかく今の彼は何をしでかすか分からない、ある意味危険な状態であることは鈍い私でも感じ取っていた。
これはきっと本能からくるものだ。こういう時は決して自分の直感に逆らってはいけない。黙りこくる私を見つめながら、ネスはにこりと微笑みかけてくる。
「大丈夫だよ。僕だってそれなりに強いから、これからずっとナナシのことを守ってあげられる。いつ変な奴が近付いてきてもすぐに追い払ってあげるから。もしナナシが何処か遠くに行ってもすぐに見つけるし、何かがあればすぐに助けに行く」
「あ、ははは……」
淡々と言い放つ彼に対して、もう何も返答する気力が湧かない。私がどう言おうとネスは自分の思うように私を守ろうとするんだろう。
如何なる手段を使っても。そんなことを考えていると、ネスが空いている方の手を私の頬に添えてきた。
ひんやりとした手が触れた途端、思わずびくりと肩が跳ね上がった。私の怯える反応を見たネスは笑みを深め、私の耳元で囁いてくる。
「ねえナナシ。大人になっても、ずっとずっと一緒にいようね」
直接脳内を揺さぶられるような感覚に陥る。ああ、彼はいつの間にか引き返せない領域に足を踏み入れていたんだろう。
自分でも自覚していない内に。そう悟った時、自然と涙が出てきた。悲しいとかそういう感情ではない。
今までの人生で味わってきたあらゆる負の感情がブレンドされたような、形容し難い気持ち悪さを感じる。そんな私の心境を知ってか知らずか、ネスは更に畳み掛けてくる。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。もうすぐ泣く必要なんて無くなるから!」
私からは沈黙しか返せない。もうネスからは逃げられないことを悟り、返答する気力すら削がれてしまった。
こうして年下の少年に呆気なく気圧されて、大人しく従う人生なんて笑えてくる。しかしこれは現実であり、抗えない未来。
この日――ナナシという人間はネスという名の少年に全てを握られたのだ。
「ナナシは僕だけを見てればいいんだよ。そうしてれば何も心配する事なんてないんだから」
ネスの言葉が頭の中を埋め尽くしていく。鼓膜を通じて脳内に直接刷り込まれていくみたい。このままだと本当に狂いそう。いや、既になりつつあるのか。今となっては、もうどっちでもいいか。
「……もう離れていかないように、しっかり教えていかないとなあ」
呟く声すらも少しずつ染み込んでくる。まるで薬のように、着実に。夕暮れの空の下、虚ろな瞳を揺らしながら私は手を引いてくるネスの後を追うだけ。これからもずっと、彼から離れない。
スイマセン。ヤンデレです。彼の使うさいみんじゅつって、応用次第で色々な用途がありそう。