掌握
「私、何なんだろうね」
夕暮れのくちばし岬。ここにいるのは私だけ。辺りは暗くなってきて、空と海が少しずつ同じ色に染まろうとしていた。私は何も予定が無い日はこの時間帯にここにいるのが好きだ。このベンチに腰掛けてぼーっとしてるだけで落ち着いてくる。
いつからこうなったかは、忘れちゃった。それも最早どうでもいいことだから。ただ分かることは一つ。私は何も持ってない空っぽの人間だということ。今までも、きっとこれからもだ。毎日この時間にここに通ってこんなことをしてる意味も無いけど、少なくとも家で過ごしたりバイトをしてる時よりかはマシだ。
でも、そろそろ疲れちゃったな。そう思いながら眼下に広がる海を見つめる毎日。衝動的に消えたいと思うことはあっても、そのために行動することすら怠い。何がしたいんだろうな、私は。そんな時、背後から足音が近付いてきた。私は気怠そうに振り向くとそこには数少ない友人の一人、ネスが立っていた。格好からしてバイトからの帰りだろう。彼は眉を下げて、私を見下ろしていた。
「やぁ、ナナシ」
「……バイトの帰り? お疲れ様」
「うん」
私が挨拶するとネスは困ったように笑っていた。次の言葉が思い浮かばない、そういった表情。そんな顔をされても私はどうすることもできない。どうしていいかわからず、ただ俯いた。沈黙が続く中、ふとネスが口を開いた。
「……ナナシ。最近この時間になるとここに来てるみたいだね」
「そうだね」
小さく返事をした。私は小さい頃から大人しく、人見知りで他人と話すことが苦手だった。これは今でも変わらない。でも不思議なことにこのネスという青年は子供の頃から私の友人としての位置を維持している。彼は昔、裏山に隕石が落ちてきた翌日から突然学校に来なくなった時期があったけど、帰ってきてからは別人のようになっていた。
間違いなくその頃に何か人生を変えるような出来事があったんだろう。今も誰に対しても優しくて、何かと強くて、いつでも笑顔で。私とは何もかも正反対な人。今となっては私にはその優しさが眩しくて仕方がない。なのに彼と話してると落ち着くし、安心する。自分でも訳がわからない。いつの間にかネスは私の隣に腰をかけていた。
「帰らなくていいの? ママさん心配するでしょ」
「もうそんな年じゃないよ。ナナシこそ、何でここに通ってるのさ」
私の問いに答えることなく、逆に質問されて戸惑う。理由は誰にも言いたくない。理解されないのもわかりきってるから。それに言ってどうなるわけでもないんだもの。黙って目を伏せた。
少しの間があった後、またネスの方を見ると黒紫色の眼差しとかち合った。それはまるで全てを見透かしているようで、背筋がゾクリとした。昔から彼はたまにこういう目をする時がある。
「君、また何か抱えてるんじゃない?」
ほらやっぱり図星。こうして見透かされても言うつもりはない。私は無言を貫いた。しかし、それで許してくれる彼ではないことも分かってはいた。ため息をつくと彼はこちらを向いて微笑んでいた。
それがあまりにも優しかったものだから一瞬怯んでしまう。動揺した所を隠すために無意識に視線を落とす。沈黙の後、少し顔を上げてもう一度彼の表情を伺う。すると彼は微笑んだまま、私の顔をまっすぐ見つめていた。しかしその目だけは笑っていない。
「……僕は今腹立ってるんだよね。何でだと思う?」
怒気を孕んだ声はその表情からは大きくかけ離れたものだった。何でかなんて、そんなこと分かってる。彼はただ打ち明けて欲しいだけだ。だけど私がそれを拒み続けている。それだけのこと。自分の闇は自分だけのものだと考えているから。それを彼に押し付けようなんて考えてない。
でも私にとってはそれが当たり前になっているだけで、ネスからしたらそうは思わないんだろう。私はネスの目を見ることができずにいた。彼の顔すらまともに見れないのでは友達失格かもしれない。それでもネスは続けた。
「ナナシって昔からそう言う所あるよね。一人で抱えきれないものを抱えてるくせに人前では平気なフリして。無理に強がって、苦しくなったら一人で暗い方に逃げていく」
ああ、その通りかもね。そうだよ、私はこれからもそういう生き方しかできないと思うから。もうこれ以上彼の言葉を聞きたくなくて立ち上がろうとすると、腕を引っ張られた。
「……離してくれない?」
突き放すように低い声で言ってみたものの、彼は怯まない。それどころかさらに強い力で引っ張ってきた。体勢が崩れかけて倒れそうになったところでそのまま彼の胸に抱き留められてしまう。
何が起きたのかよく分からずに混乱してしまった。なんでこんな。心臓の音が大きく聞こえてくるような気がして、耳を押さえてしまいたい衝動に襲われる。突然水の中に突き落とされたかのような感覚を覚えて、私は弱々しく彼の腕の中でもがいた。
「ちょっと、本当にやめて」
「嫌だ」
その時初めて気付いた。彼の声色が妙に真剣なものであることに。だから手を止めざるを得なかった。恐る恐る顔を上げてみると、そこには見たことがないくらい険しい表情をしたネスの顔があった。
「このまま君を離したら、どこか遠いところへ行きそうだったから」
「なに、言って」
「だってナナシ、ほっといたら消えそうな顔してる。そんなの、僕が許さないよ」
ネスの目は怖いくらい真剣で、私は射竦められたような感覚に陥る。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。私、どうすればいいの。彼の顔から目が離せない。今の私、どんな顔してるんだろう。きっと酷い顔をしてるに違いない。
ふいにネスが抱き締める力を強めてきた。脳は今の事態を把握するためにフル回転しているというのに、肉体は金縛りにあったかのように一向に動かない。心臓だけが喧しいほど音を立てている。
「な、に、考えてるの」
「こうでもしないと逃げちゃうと思って」
「別に逃げたりしないから、離して」
「嘘。絶対逃げるもん。だから駄目」
何それ、子供じゃないんだから。というかネスは何でここまでするんだろう。別にこんなどうしようもない私が君の元から逃げても困らないでしょうに。どうして。
するとネスは急に私の体を解放して何事もなかったかのように、立ち上がる。夕日が眩しくて目を細めた。逆光のせいで彼の顔はよく見えない。彼の心も分からない。
「帰ろうか。家まで送るから」
「はあ」
私は力なく返事をして立ち上がった。結局、私の心は何処にあるのか分からないまま。むしろさらに遠くに行ってしまったようにさえ思う。取り敢えずネスにお気に入りのこの場所がバレた以上、次の安らぎの場所を探さないとなあ。
次は北の森にある旅芸人の小屋とかでもいいか。そんな私の悪あがきのような考えを見透かされたかは定かではないけど、次に彼が放った言葉は私の動きを止めるには強すぎるものだった。
「ねえナナシ」
「何」
「君が一人で何処へ逃げ込んでも、僕は見つけてみせるからね」
ネスはそう言うと再び歩き出す。いくら付き合いが長いからって、ここまで私の行動を読まれるものなのか。君は何でそこまで私のこと気にかけるの。そもそも、何でこんな長い間私の友人としてい続けてくれるんだろう。ただのお人好しにしては行き過ぎてるよ、ネス。
「だったら、もっと遠くへ行こうかな」
「それでも必ず見つけるよ。どれだけ時間をかけても、ね」
そう言った時のネスの笑顔は、今まで見た中で一番綺麗で、恐ろしく感じられた。
今度はナナシさんが病みそうに。