微睡み
秋晴れ爽やかな昼休みのこと。僕は昼食を摂った後、午後の部の試合が始まる時間まで適当に屋敷を歩いていた。
ふと、何気なく窓の外に目を向ける。そこは丁度中庭になっていて、真ん中に植えてある木の下に人影を見つけた。
ここからだとよく見えないけど、じっとしているようで動く様子がない。僕は近くのドアから中庭に出ると木の下に向かった。そして人影の正面に立つと、自然と頬が緩む。
「……なんだ、ナナシだったのか」
彼女はナナシといって僕の友達の一人であり、この屋敷の使用人として働いている。今日は休みなのか、私服姿だった。
ナナシの近くに寄ってみたけど、やはり動く様子はない。どうしたんだろうと思って覗き込むと、なんと彼女は昼寝をしていた。
木に寄りかかって規則正しい寝息を繰り返している。そんな彼女の寝顔を見ていると、僕の顔は次第に熱を帯びていった。
こんなところで昼寝なんて、本当に無防備だな。僕が見つめていることにも気付かずに気持ち良さそうに眠るナナシ。
普段は大人しくて控えめな性格だけど、割と大胆なところもあるんだよね。普段とは違う雰囲気の彼女に、自然と胸が高鳴る。
こんなに隙のある姿を見ると、ちょっといたずらをしたくなってきた。僕はナナシの側に膝をつくと、彼女の頬にそっと手を添える。温かくて、少しもっちりとした肌触り。
(誰も見てないよね……?)
周囲を念入りに確認する。気配も感じられず、ここには僕等以外いないみたい。音を立てないようにそっとナナシの隣に座って、肩を寄せた。
すると、彼女の身体が少しだけ動いた気がした。起きたのかと焦ったけど、まだ眠り続けているみたいで一安心。
しかし一息ついた瞬間、ナナシの体が傾く。そしてそのまま僕の肩にくったりと寄りかかってきたのである。
こうなってしまうと下手に動けないな。僕は頭だけ動かして彼女を眺めてみるも、やはり起きる様子はない。これは相当深く眠ってるみたいだ。
もう少し寄り添っていたいけど、このままじゃ風邪を引いてしまうかもしれない。そろそろ起こさないとダメかな。
「ナナシ、起きて」
名残惜しさを込めて耳元で呼びかけてみる。しかし、返ってくるのは小さな寝息だけ。ねえ、本当に起きなくていいの。今隣にいるのは、君を好いてる男なんだよ。
僕は心の中で呟きながら、熱に押されるように彼女の頬へ唇を寄せる。ああ、遂にやってしまった。柔らかな感触に浸った後は、軽いリップ音を立てて顔を離す。
それでもやっぱり目を覚まさなかった。本当は頬じゃなくて口にしたいけど、今の段階でそれは間違ってると思う。
何としても理性だけは保たないと。しかし薄く開かれた唇は実に魅惑的なもので。しばらく悶々としたものを抱えていると、ナナシから小さな呻き声が漏れる。
「ん……えっ、ピット!?」
「おはよう、ナナシ」
「お、おはよう……」
起きたら隣に僕がいるものだから、ナナシは目を丸くして驚いている。そりゃそうだよね。いつの間にか他人の肩に寄り添って眠っていたんだから。
「ごめん、驚かせちゃった?」
「ううん、大丈夫。それより、どうしてここに……?」
「廊下を歩いてたらさ、気持ちよさそうに寝てる君を見つけたんだ」
だからつい眺めてしまったと正直に言うと、ナナシは照れくさそうに俯いた。起きてからはまた別の愛らしい姿を見せる彼女に、秘めていた想いは加速していく。
僕は無意識に手を伸ばしてナナシの手を握った。突然手を握られたことで、彼女の身体がびくりと震える。その仕草も何もかもが僕の心を高揚させるんだよ。
「えっと、いきなりどうしたの……!?」
「嫌?」
「そ、そういう問題じゃなくて!」
「なんとなく、触れたかった」
裏返った声を上げて慌てふためくナナシに、僕はにっこりと笑みを深めてみせる。すると彼女は途端に黙り込み、ただ繋がれた手を見つめていた。
「ピット、一体どうしちゃったの……?」
「何が?」
「だ、だって、いつものピットはこういうことしないっていうか……そもそも私達友達同士でしょ。こういうのって、こ、恋人がすることじゃん!」
確かに今ナナシにしていることは、恋人同士でするようなもの。そんなことは分かっている上で行動を起こしている。僕としては、友達という枠を超えたいんだ。
「僕ね、そろそろ君と友達になるのやめたいんだ」
「えっ……」
「友達じゃなくて……恋人になりたい」
想いを包み隠さずありのままに伝える。途端にナナシの頬が真っ赤に染まり、思いっきり視線を逸らして黙り込んでしまった。しばらくの間、無音と言ってもいい程の沈黙が続く。
彼女の横顔をよく見ると、唇を小さく震わせていた。何か言おうとしているようだけど、声として出せない。そういった感じだ。
「僕の言ったことは百パーセント本気だよ。冗談でも何でもないから、よく考えて答えてほしいんだ」
返事はないけど、ナナシはしっかりと僕の言葉を聞いてくれている。その証拠に握っていた彼女の手に少しばかり力がこもったから。
やがて彼女はゆっくりと顔を上げると、瞳を揺らして見つめ返してくる。その表情には困惑というものがありありと現れていた。
「……私、どうやって応えたらいいのかな。嬉しいはずなのに、全然頭が追いつかなくて……」
「今は僕の気持ちを聞き入れてくれただけで十分だよ。急かしたりなんかしないし、これからゆっくり考えてくれたら……嬉しいな」
そう言って笑いかけると、彼女もぎこちないながらも口元を緩めて微笑む。ああ、やっと笑顔が見られた。
それだけで舞い上がってしまうなんて、僕って自分で思う以上に単純な男なのかもしれない。心の中で自身に呆れていると、午後の部の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。
「あー……もうそんな時間か。そろそろ控え室に行かないと」
「うん、分かった……頑張ってね」
まだナナシの顔には動揺の色が濃く残っていた。無理もないよね。寝起きに突然告白されたら誰だってこうなるはずだ。
僕は名残惜しくもナナシの手に絡めていた指を離す。次に僕達の手が深く結びつくのは、想いが重なり合ってから。
立ち上がって屋内に戻ろうと歩き出した時、背後からナナシが勢いよく立ち上がる気配がした。
「……ピット!」
振り返ると、彼女は胸の前で両手を強く握りしめながら僕を見据えていた。そして大きく息を吸い込むと、はっきりと聞こえる声で告げたのだ。
「私、ちゃんと自分なりに気持ちをまとめるから! そしたら絶対にピットに応えてみせる。だから……もう少しだけ待ってて!」
言い終えるや否や、ナナシは逃げるように反対の方角へと駆け出していく。遠ざかる足音を聞きながら、僕はその場で立ち尽くしていた。彼女が放った言葉を頭の中で何度も反芻する。
「"もう少しだけ待ってて"……か。うん、いつまでも待つよ」
勇気を振り絞ったであろうナナシからの前向きな言葉に、僕は自然と笑みを浮かべていたのだった。
彼女が答えを見つける前に、僕自身も成長していかないといけないな。折角掴んだこのチャンスを、絶対手放したりはしないから。
そうと決まれば、まずは午後の部で全戦全勝を目指してみようじゃないか。決意に満ちた僕の足取りは軽く、意気揚々と戦いの場へと赴いた。
今回は少し強気なピット君。