ピット短編5

Morning glow

熱すら巻き込んで

 この春を迎えれば、ナナシと付き合い始めて三ヶ月が経つことになる。長い間秘めていた想いを打ち明け、互いに同じものを抱いていたと知った僕達。
 当初は事あるごとに恥じらう姿を見せていたナナシも、今では腕を絡めてきたりとスキンシップを取るようになってくれた。という訳で今の僕達は順調なんだと思う。
 そんな三月のある土曜日、僕はナナシと街へ買い物に出掛けていた。とは言っても時間の殆どを遊びに費やしていて――所謂デートの最中だ。
 繋いでいる彼女の手はとても柔らかくて温かくて、何度指を絡め合っても慣れることはなく心臓が早鐘を打つ。
 ナナシも同じなのか、時折僕の方を見ては頬をほんのりと染めて微笑んでくる。それがまた可愛らしくて堪らない。

「ナナシ、次はどこに行こうか」
「うーん、まだ決まってないなあ。一旦休みながら考えてもいい?」
「実を言うと僕も休みたかったところ。あの公園で少し休もうか」

 僕達は頷き合うと近くに見えた自然公園に向かった。この辺りには小さな池や花畑などがあって、歩いているだけでも楽しめる密かな人気スポット。
 ナナシと他愛のない話をしながら歩いているうちにベンチを見つけ、ようやく一息つくことができた。
 今日はこの時期にしては珍しく気温が高く、僕の額からはじわりと溜まった汗が流れ落ちてくる。
 彼女は薄地のTシャツにショートパンツというラフな格好をしていて、時折頬を伝う汗を拭う仕草には仄かな色気が滲んでいた。

「ふぅ……今日はやっぱ暑いね」
「うん、まだ三月なのにこれは暑過ぎるよ」

 ナナシは少しぐったりした様子で手を動かし、自分の顔を扇いでいる。こうして見るとやっぱり年頃の女性らしい。例えば鎖骨とか、その下の――
 つい胸の方に視線が降りていく。これはいけないと"理性"で押さえ込もうとしても、"本能"が眼球を動かしていく。
 ナナシは僕の視線に気付いたのか、不思議そうにこちらを見つめてきた。あ、まずい。慌てて目を逸らしてしまったけど、これじゃ逆に不自然すぎる。

「どうしたの?」
「えっ、いや、何でもないよ! しかし本当に暑いなあ……っ」

 なんとか言葉を誤魔化す。言えるわけないでしょ。"今の君が色っぽくて見蕩れてた"なんて。ナナシはそうだよねぇ、なんて相槌を打つとまたハンカチで吹き出る汗を拭っていた。
 僕はまた横目で彼女の姿を眺める。しょうがないじゃないか。僕だって男なんだから、好きな人の体に興味を持つことぐらい――当然なんだ。
 必死に自分に言い訳をする僕の視線に気付かないまま、彼女は遠くを見つめながらまた片手で顔を仰いでいた。
 ああ。また頭がぼんやりとしてきた。周りの景色も目に映らないくらい、その姿に釘付けになってしまう。

「自販機で飲み物買ってこようかな。ピットは何がいい?」
「え、えっと……じゃあコーラがいいな」
「了解! ちょっと待っててね」

 ナナシは立ち上がると小走りに駆けていった。一人残された僕はぼんやりと空を仰ぐ。青を背景に細かな白が斑に飛び散っている。確か、"うろこ雲"というんだったか。
 最近ナナシを見ていると体の奥まで熱くなってきて、落ち着かなくなる事が増えてきた。可愛い、愛おしい、とは別の――もっと違う”何か”。
 いつの間にか物思いに耽っていると、ナナシが戻ってきた。彼女の持つ袋にはペットボトルの他にパンも入っている。

「見て見て! 自販機見つける前に売店が先に見つかってね。小腹空いてたしパンも買っちゃった。ピットの分もあるよー」
「ありがとう、ナナシ。ありがたく頂くよ」
「外で食べるパンも乙なものだよね」

 ナナシはそう言うとベンチに腰掛けて、持っていたジュースの蓋を開ける。炭酸が抜ける音がしたと同時にナナシは早速喉に流し込むと、涼感に浸るようにため息をこぼす。
 そんな彼女のこめかみからは変わらず汗が伝っている。頬も熱気を受けて紅潮していて――ああ、これが所謂"艶めかしさ"というものなんだろうか。
 無意識にナナシの顎に手を伸ばして、指で汗を拭う。当然ナナシは驚いたようにこちらに顔を向けてくる。
 そのまま戸惑いの声ごと飲み込むように、僕は彼女の唇に自分のものを重ねた。舌を入れて口の中を舐め回すと、ナナシはくぐもった声を上げる。
 駄目だ、もう自分の心だけじゃ止められない。いや、止まろうという考えすら捨てていたんだ。
 僕は彼女の体を抱きしめると、ベンチに押し倒した。そして覆い被さるようにして、もう一度深くキスをする。

「ねえ、ナナシ……好きだ」
「や、何して……っ、こんな外で誰かに見られちゃう……!」

 ナナシの切羽詰まった声を聴いて、ようやく我に返る。僕ってば何をしてるんだ。この暑さでとうとう頭がやられたのか。
 慌てて彼女を抱き起こすと、何度も頭を下げて彼女に謝る。この後どれだけ怒られたとしても、全て受け入れる覚悟をしていた。

「本当に……ほんっとうにごめん! 僕、どうかして、た……」
「……もう、何すんの」

 ナナシは荒い息を繰り返し、瞳は潤んでいた。その声は怒りよりも、ただただ困惑しているといった感じだ。

「その、暑くて気が動転してた、みたいだ……」

 ナナシはこれには返答せずに俯いていて、僕の背中にはひやりとした汗が伝う。やっぱり怒らせてしまったんだろうか。取り返しのつかないことをしてしまった。
 恐る恐る彼女の様子を伺おうと身体を傾けると、突然腕を掴まれて引き寄せられる。
 声を漏らす間もなく僕の唇に柔らかな感触が伝わってきたかと思ったら、それはすぐに離れた。

「ビックリしたから……お返し」

 ナナシはそう言って微笑みながら顔を逸らす。心臓がうるさいくらいに激しく鳴っている。まさか、彼女からキスしてくるなんて思ってもみなかった。
 何とか落ち着こうとして深呼吸を繰り返すけど、簡単には静まってくれそうにない。すると不意に僕の手を握ってきた。
 ナナシの手は不思議とひんやりしていて、火照った手のひらに冷たさが浸透していく。握られている手を見つめていると、ナナシは小さく笑った。

「急に笑ってどうしたんだよ……」
「だって、いきなりあんな事してくるなんてさ……ちょっと意外だったから」

 確かにそうだ。どうして今日に限ってこんなことを。ただ、あの時の僕は抑えられないほどの熱に浮かされて、理性が狂いかけていたことは確かで。

「……正直ね、嬉しかった。私のことそういう風に見ててくれたって分かったし」
「えっと、それはどういう……」
「だって、付き合い始めてから一度も迫ってきてくれなかったし。私ってそんなに魅力無いかなって」

 "魅力がない"? そんなこと、あるわけないだろう。それどころか今まで葛藤を繰り返してきたぐらいなのに。
 無理に迫って、傷つけたくないという"理性"が働いていたから――それも本当は、奥手な僕にとって都合のいい言い訳だったと思う。
 しかもそれはナナシを不安にさせることに繋がっていた。いつだって"恋"というものは手探りなんだと、僕は改めて実感する。
 これからはちゃんと、言葉で、行動で示していかないと。寂しげに微笑むナナシの頬に手を添えながら、そう心に決めた。

「そんなわけない。君は凄く魅力的なんだよ。ただ僕が奥手だっただけだ……許してくれる?」

 ナナシは安心してくれたのか、表情を柔らかく崩すと静かに目を閉じた。そして僕達は互いの気持ちを確かめるように、ゆっくりと唇を重ねる。
 顔を伝う汗の感触、刺すような暑さすら巻き込みながら、僕達は互いの熱を絡めてあわせていった。

遠慮し過ぎて勘違いさせてしまうのは、あるあるですね。




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