その涙すら
ナナシは決して人前では泣かない人だ。少なくともそこそこ長い付き合いのある僕は、彼女が悲しみに暮れる姿を見たことがない。きっとこれからも見ることはないのかもしれない。本来ならそれで良いはずなのに、"一度だけでも見てみたい"と願っては自己嫌悪する――そんなことを繰り返していたある日のことだった。
せっかくの休日だというのに生憎の雨。予定が殆ど潰れてしまった僕は特に宛もなく屋敷の中を歩いていた。すると廊下の突き当たりに僕の友人のひとり、ナナシの姿が見えた。彼女は窓際に寄りかかり、雨が降りしきる景色を眺めている。声をかけようかと思ったけど、彼女の横顔を見た瞬間に躊躇いが生じた。
何故ならナナシの瞳はどこか寂しげに細められていて、口元はきつく引き締められていたから。それは今にも溢れそうなものを抑え込んでいるようにも見えて――遂に、ナナシの目尻から光るものが流れ落ちた。瞳から溢れるものなんてひとつしかない。彼女は窓の外を見つめたまま静かに涙を流し続け、時折思い出したように目元を拭っていた。
ナナシは今、泣いている。その姿を目に焼き付けようとするかのように、僕は足から根が生えたように動けないまま彼女を見つめていた。数分にも数時間にも思えた沈黙の後、不意にナナシはこちらを振り向くとひどく驚いた様子で後退った。僕はそんな彼女に吸い寄せられるように歩み寄っていく。
「えっ……ピット!? いつから……」
「ついさっきだよ。君こそ、どうして泣いてたの?」
「な、泣いてないよ!!」
そう言って頭を振る彼女の瞳からは大粒の雫が弾け飛んだ。その光景が場違いにも美しく見えて、僕の手は無意識に彼女の頬へと伸びていく。しかし触れそうになったところでナナシは咄嗟に僕の手を払いのけると、眉をくしゃりと下げて俯いた。
「ごめん、つい……痛かったよね」
ナナシはか細い声で呟くと僕の横をすり抜けて走り出した。慌てて彼女を呼び止めようとしたけれど、追いつくことはできず階段を駆け下りていく背中を見送るだけ。雨音に包まれた踊り場で、僕は一人立ち尽くしていた――。
***
その夜、自室に戻った僕はベッドの上に寝転ぶと天井を見ながら考えていた。なぜナナシは泣いたのか。何があったのか。寝付けないほどに気になって仕方がないけど、直接本人に訊いても教えてくれないだろう。昼間のナナシは、泣いていた所を僕に見られたことでひどく動揺しているように見えた。
あの様子ではまた追及したところで何も聞き出せないどころか、下手をしたら距離を置かれるかもしれない。それでも友達が泣いてるのを見て平然としていられるほど、僕は図太くないはずだ。
"本当に、それだけ?"
もうひとりの自分が、そう問いかけてきた気がした。勿論心配なのは本当だけど、それ以上に泣いているナナシの横顔に見とれていたのも事実で。あれほど悲しげに涙を流す理由を知りたい。この手で彼女の雫を拭って、包み込んであげたい。また僕のそばで笑っていて欲しい。ナナシの笑顔を思い浮かべた瞬間、胸の奥が熱を宿した。
それはまるで火のように燃え上がり体中に広がっていく。心臓の鼓動が激しくなり、苦しくてたまらない。ああ、これはまずいな――そう思った時には遅かった。僕はナナシが好きなんだと、自覚してしまったんだ。
しかし気付いたところであの状態のナナシに気持ちを伝えるなんて、とてもできない。僕は明日から彼女に対してどう在ればいいんだろう。何をするべきなんだろう。藻掻いても足掻いても焦るばかりで、彼女にしてあげられることが何一つ思い浮かばない。それがどうしようもなく情けなく、憤りすら感じてしまう。
その一方で、ナナシというひとりの存在にこれ程までに心乱されていく感覚はどこか尊いものに感じられ、不思議と心地よくなっていた。この感覚が"恋"というものなら、いずれは彼女の心も僕という存在でぐしゃぐしゃに搔き乱したい。今の僕のように、ただ一人の存在に溺れ焦がれるような快感を味わわせてあげたい。こうして僕はひとつの"答え"を掴みかけていた――。
病み始めというか。未知の感情に振り回されるまま無意識に堕ちていくっていうのも良いものかなと…。