グラデーション
最近のナナシを見ているとおかしくなってくる。とはいえ彼女は変わりなく普段通りで、別に奇行を振るったりしている訳じゃない。
問題は僕の視界に彼女が映る度に心臓がどくんと跳ね上がってしまうことだ。すると決まって胸が苦しくなり、身体中が熱くてたまらない。
初めは病気かと思って医務室に通いDrマリオさんの診察を受けていたけど、数日も経つと彼は何処か含みを持たせた笑顔を浮かべるようになっていた。
僕は真剣に悩んでいることを伝えると、彼からは"身体的な問題ではない。治療法は君自身が握っている"とだけ告げられてしまった。医者としてそれはどうなのかと不満を漏らしたところで意味もなく、僕は今も"ナナシシック"を患っている――。
***
「それでな、みんなしてディディーが捨てたバナナの皮踏んで転んでて……あれは傑作だったぜ」
「ええっ、その試合観たかったなあ」
「"大観戦"で録画してあるから後で見せてやるよ」
「本当? じゃあ明日の昼休憩の時に見せて!」
廊下の曲がり角に差し掛かった時、僕の耳がナナシの声を拾った。そっと覗き込むとナナシとソニックが窓際の壁に寄りかかり、楽しげに会話を繰り広げているところだった。二人があまりに和気藹々としているからか、胸の奥が重たく粘ついたもので満たされていく。
"ナナシと一番親しいのは僕だ。彼女にとって何が楽しいのかを一番知っているのも僕のはずだ"
やがて微かな怒りが沸いてくるのを感じ、僕は一度大きく深呼吸をしてみる。自身を宥めるように、ゆっくりと。
"そうだ、彼女はただ友人と仲良くしているだけ。それ以上のことなんて何も起きてないじゃないか"
そう自分に言い聞かせながらも、壁に添えていた手は無意識に拳を作っていた――。
***
ナナシ、乱闘、仕事、生活、ナナシ、ナナシ――僕の思考は日々彼女の存在に支配されつつあった。寝る前に目を閉じればその日ナナシと過ごした場面が浮かび上がり、耳の奥では彼女の声が響いている。
最早重症だなと自分でも引くぐらいなんだけど、それと同時に不思議と心が安らいでいく。いつしか僕はこのほんのりと甘い感覚が癖となっていた。
そんなある日、僕は偶然にも残酷な話を耳にしてしまう。それは――ナナシには好きな人がいるというものだった。使用人仲間と盛り上がりながら照れ臭そうに頬をかく彼女の姿に、何故だか後頭部が重たくなっていく気がした。
この夜は中々寝付けず、何度も寝返りをうっては時間だけが過ぎていく。昼間のことが尾を引いているのか。彼女に好きな人がいたとして、自分は何故ここまで動揺しているのか。こうして思考が螺旋を描いていく内に、いつの間にか意識を落としていった――。
ふと気が付くと、僕の目の前にはナナシが立っていた。僕の部屋の真ん中で、彼女は頬を染めて柔らかな笑みを浮かべている。これは一体どういうことか。僕が問いかけるより先に、彼女の口が開かれた。
「ピット、紹介するね。私の彼氏!」
突然何を――戸惑いの声を上げる間も無く、ナナシの横には黒い靄が現れたと思うと人のような姿へと形を変えていく。彼女はうっとりとした様子でその人影に腕を絡ませると寄り添ってみせた。
「な、何だよそいつ……ナナシ、早く離れて!」
「何でそんなこと言うの……? ピットなら、私のこと祝福してくれるって信じてたのに」
「だってそれじゃ、僕は……」
ナナシの悲しげに歪む顔に胸が張り裂けそうになるけど、とにかく今はあの影から彼女を引き離さねば。焦るままに彼女へ手を伸ばした瞬間、何かが僕の両肩を恐ろしい力で掴んだ。
「ピットなら私が選んだ人を否定しないよね? 応援するに決まってるよね? だって私のことを"誰よりも一番に理解してる"君なんだから!」
それはナナシの腕だった。彼女はこれでもかと目を見開き、口をにんまりと三日月型にして笑っている。その狂気染みた顔を見た瞬間、背筋を冷たいものが駆け抜けた。
喉の奥から掠れた声を漏らすと同時に、視界がぐらりと歪む。その間もナナシは不気味な笑みを浮かべながら僕を見つめ続けていた。
「君っていつもそう。常に自分を私の一番だと決めつけているのに、誰かの影が割り込むだけですぐに取り乱す」
「違う……そんなこと、」
「何が違うの? 本当は毎日不安で不安でたまらないくせに」
するりと手を離したナナシは、なんとも言い難い表情を浮かべていた。それは怒っているようにも、今にも泣きだしそうにも見えて。
「自分からは踏み込まないくせに私が歩み出すのを恐れる君は、一体何がしたいの? 私をどうしたいの?」
先程とは別人のように、ナナシは直立したまま静かに問いかけてくる。僕はナナシをどうしたいんだろう。一度視界を閉じ、自分自身の心に訊ねてみる。するとどうだろう。僕とナナシを取り囲むように、二人で積み重ねてきた記憶が映像のように流れては過ぎていった。
初めて出会った日のこと。お互いに手探りしながら同じ時間を重ねてきたこと。そして、彼女の笑顔を見る度に胸を熱くさせる自分の姿。
ああそうか――そういうことだったんだ。答えを見つけた瞬間、薄暗かった背景が白み始めていく。
「僕は、ナナシのことが大好きだ。誰にも渡したくない……ずっと僕の側にいてほしい!」
ようやく掴み取った思いの丈を叫んだ瞬間、強烈な光が僕らを包み込む。眩しさのあまり顔を腕で覆い隠す間際に見えたのは、いつもの愛らしい微笑みを浮かべるナナシの姿だった――。
次に視界が開けた時、僕は勢いよく飛び起きた。激しく脈を打つ胸を押さえて落ち着くのを待っていると、真横から視線を感じてそっと顔を向ける。そこには目を丸くしてこちらを見つめるナナシの姿があった。
「ピット、大丈夫……?」
「え、あ……うん。というか、君こそ何で僕の部屋に……」
「ピットの部屋の前を歩いてたら呻き声が聞こえて……覗いたら君が魘されてたから、心配で……」
理由を語る間何故かナナシの頬は赤らんでいて、次第に言葉尻が小さくなっていく。遂には耐えきれなくなったのか視線を逸らして俯いてしまった。
一体どうしたんだろう。思い当たる節といえば、夢の中で叫んだことが寝言となってナナシに届いてしまったとか。いやまさかそんなことは――。
「ピットの寝言、あれって……そういうこと、なの?」
恐る恐るといった具合に顔を上げてくる彼女の顔は真っ赤なまま。逃れようのない現状を突き付けられ、僕は恥ずかしさのあまり両手で顔を隠してしまう。ああもう、なんでよりにもよって本人に聞かれちゃうんだよ。いっそのこと寝付けずに朝を迎えた方が良かったんじゃないか。
そんな後悔の念に駆られていると、不意に柔らかい感触が手を包む。驚いて顔を上げると、ナナシが重ねられた手をぎゅっと握りしめていた。彼女の手は汗ばんでいて、少し震えているのが伝わってくる。
「もしピットの言ったことが本心なら、私も自分の気持ちを打ち明けて良いよね……?」
切なげに揺れる瞳を見つめながら、僕はゆっくりと頷いた。心臓の音がうるさいくらいに高鳴って、まるで全身が心臓そのものになってしまったかのようだ。やがてナナシは意を決したように息を吸うと、真っ直ぐな眼差しを向けてきた。
「私もずっと前からピットのことが好き。大好き」
「僕……まだ夢の続き、見てるのかな?」
思いもよらぬ展開に呆然としていると突然両頬にじんわりとした痛みが広がった。気付けばナナシが僕の頬をつねっていて、少しむくれた様子で左右に何度も伸ばしてくる。
「いひゃっ、止めヘぇ……!」
「全く、現実だってば!」
言うなり抱き着いてきたナナシを受け止めたものの、二人してベッドに倒れ込んだ。寝転びながら間近で視線を絡ませると、どちらからともなく笑みが溢れてくる。
「はあ、本当ならもっとまともな形で告白するべきだったな」
「でも……こんな形で結ばれるカップルがいたって良いんじゃない?」
忍び笑いを交わしながらお互いの背中に腕を回すと、再びじゃれつき合う。心の底から求めていたナナシが、こうして僕の腕の中にいる。これから彼女と共に見つめていく景色はより鮮明に、色鮮やかに感じられることだろう――。
現実の寝言と夢の内容って割と一致してたりするらしいですね。