ポケトレ短編4

Morning glow

Change

 静かな廊下に一人佇む私は、ひとつのドアの前で深呼吸をしていた。何故なら此処は、この屋敷の主であるマスターの部屋の前。
 食堂の清掃の途中、正午に差し掛かろうかという時。突然館内放送で呼び出されたのがことの始まりだった。
 理由に対して心当たりがある訳がなく、私一人を呼び出す目的も皆目見当がつかない。もしかしてお咎めなのか。不安を胸に抱えながら、私は意を決して部屋の扉をノックした。

「失礼いたします。ナナシです」
「来てくれたか。入ってくれ」

 中から聞こえてきたのは紛れもなく彼の声。緊張で強張りながらも部屋に入ると、そこには巨大な右手を象る異形の者――"マスターハンド"の姿があった。
 この屋敷に拾われたばかりの頃はその様相に驚く日々だったけど、数ヶ月も経てばもう慣れたもの。
 それにしてもわざわざ指名して呼び出すとは、一体何の用なんだろうか。

「急に呼び出したりして済まないな。君に頼みたいことができてね」
「頼みたいこと……ですか?」
「ああ。机の上を見てくれ。小瓶があるだろう」

 マスターの指示に従って視線を移すと、そこには片手に収まるほどの小さなガラス瓶が置かれていた。中身には淡い黄緑色をした液体が入っている。
 彼が何を命じてくるのか、なんとなく分かってしまった私は思わず身構えてしまう。

「あの、やっぱりそれ……私が飲むんですか」
「理解が早くて助かる。この薬は飲んだ者をポケモンの姿に変えるという、実に面白い効力を持つものなんだ。ただし、どんな姿になるかは飲んでからでないと分からないがね」
「は……ぽ、ポケモンに!?」

 予想通りの答えだったとはいえ、想像の斜め上をいく話に驚愕の声を漏らした。そんなもの、一体どうやって作ったのか、そもそも何故作ろうとしたのかという疑問が次々に湧いてくる。
 だけど今はそれを気にしている場合じゃない。安易に引き受けてしまえば、取り返しのつかないことになるかもしれない。

「それ、効力が切れればちゃんと元の姿に戻れるんですよね……?」
「勿論。ファイター向けに精製していたものだから、副作用や後遺症の心配は無用だ。元々乱闘用の新たなアイテムとして開発していたものの、インパクトに欠けるという理由で取りやめるか迷っていてな」
「そうですか……しかし、何故私をご指名に?」
「君は使用人の中でも珍しい、ポケモントレーナーという立場。折角試すならその道に精通している人物が適していると考えてのことだ。君が引き起こす結果次第では、更なる改良の余地もあるだろうしな」

 自分が選ばれた理由は分かった。それに実は、小さな頃から"一度ポケモンになってみたい"という願望を密かに抱いていたのである。
 それが叶うというなら、これはまたとないチャンスではないか。安全性も約束されているんだし、今回だけなら――高鳴る胸を抑え、私はついに覚悟を決めた。

「勿論協力してくれたら報酬も出す。どうだろうか」
「……分かりました。やってみます」
「受けてくれるか! では早速飲んでみてくれ」

 机の上の小瓶を手に取り、蓋を開けると一気に飲み干す。すると瞬く間に身体の奥底から熱が溢れ出るような感覚を覚え、視界に映る景色が歪んでいった。
 足がふらついて立っているのが困難になると、ソファーの方に誘導されて倒れ込む。

「そのまま眠るといい。目が覚めれば君はポケモンの姿になっているだろう」

 一体どんなポケモンになるんだろう。楽しみなような不安なような。思考すらぼやけていく中、マスターの声だけが木霊していた――

***

「よし、効力は正常に発揮されたようだな」

 意識が覚醒してきた頃、耳がマスターの満足げな声を拾う。とりあえず起き上がろうと手を動かした時、ようやく自分の異変に気付きはじめた。
 手だと思って動かしたそれは茶色い毛に覆われており、桃色の小さな肉球まで付いている。まるで四足獣の前足みたいだと、どこか他人事のように考えながら自身の身体に視線を落とす。
 まず目を引いたのは、首元を覆うように生えている柔らかな黄色みがかった毛。よく見れば全身も前足と同じく茶色に染まっていた。
 思わず声を出したものの、口から飛び出したのは人間の声ではなくて――

「いっ……ぶい!?」
「しっかり鳴き声もポケモンのものになったか。ここも問題は無し……と。ナナシ、落ち着いて自分の姿を見てみるといい」

 言われた通りに立ち上がると、ぎこちない動きで用意された鏡の前に立つ。そこに映し出されていたのは紛れもなく――イーブイと呼ばれるポケモンである。
 本当に、ポケモンになれたんだ。感極まって飛び跳ねてみようと足を踏み込んだ時だった。突然ドアの方からノック音がし、聴き馴染んだ友人の声が続く。

「マスター。レッドです」
「ん……? ああ、呼んでいたんだった。入ってきてくれ」

 短い返事とともにドアが開かれる。レッドはマスターに頭を下げると、次に私の方に視線を向けた。
 目を丸くして首をかしげるその姿からは、明らかに戸惑いの色が伺える。無理もないか。
 マスターの部屋に、ぽつんとイーブイがいたら誰でも同じ顔をするだろう。その上、まさか人間がポケモンに身を変えているなんて夢にも思わないはずだ。

「実は君を呼んだのは、このイーブイのことなんだ。野生の個体が屋敷に迷い込んでしまってね。このイーブイの生息地が判明するまでの間、面倒を見てやってほしい」

 マスターの思いもよらない発言に私は抗議の意――基、鳴き声をあげた。こちらが言葉を話せないのをいいことに、随分勝手な展開に持っていかれたものだ。
 恐らくポケモントレーナーであるレッドと対面させ、私が人間の姿に戻った瞬間を見せて驚かせようとかいうものなんだろう。
 レッドもレッドだ。ポケモンのこととなると目を輝かせ、すぐに快諾する有様。これで本当に目の前で薬の効力が解けたら、彼にとってはある意味トラウマになるかもしれないのに。

「ありがたい。それでは頼んだぞ」
「はい。少しの間だけどよろしくな、イーブイ」

 レッドは私の側によると、しゃがんで目線を合わせてきた。何処か期待に満ちた表情を浮かべながら、そっと片手を伸ばしてくる。
 私は諦めて小さく鳴くと、大人しく彼の掌に頭を預けた。すると優しく丁寧に撫でられる。気持ち良さについ喉を鳴らすと、顎の下に手を添えられて指で軽く掻かれる。
 その絶妙な力加減がなんとも言えず、もっとして欲しいと強請るように擦り寄ってしまう自分がいた――
 マスターの部屋を後にしたレッドは私を両腕で抱きかかえ、静かな廊下を歩いていた。ポケモンの姿になったことで、視点が低くなり景色も変わって見える。
 顔を上げてみるとすぐ側にレッドの顔があり、慌てて目を逸らした。こうして間近で見ると、改めて整った顔をしていると気付かされる。
 普段はあまり気にしていなかったけど、今は気恥ずかしくてまともに見ていられない。彼は友人であり、同じトレーナー仲間だと思っていたのに――どうしよう。
 湧き上がる熱に振り回されていると、不意にレッドの歩みが止まる。いつの間にか彼の自室に到着したらしい。

「ここが僕の部屋。寛いでくれていいから……とはいってもすぐに馴染んではくれないか」

 そっと私を床に下ろすと、頭上から彼の呟きが聞こえる。彼の中では預かったイーブイは"屋敷に迷い込んだ野生ポケモン"という認識。
 しかし中身は彼のよく知る友人であり使用人の一人、ナナシだ。あまり気を遣わせるのも居た堪れない。
 私はソファーに飛び乗ると、体を伸ばして寛ぐような仕草を見せた。

「良かった、ゆっくり休んでて。さて、汗を流してくるか……」

 言いながら上着を脱いでソファーにかけると、レッドは部屋の奥へと消えていった。この屋敷は大浴場の他、自室にシャワー用の小部屋が備え付けられている。
 暫くして戻ってきたレッドの姿に、思わず目を奪われてしまう。黒のインナーを纏う上半身は程良く筋肉質で、引き締まった身体をしていた。
 濡れて艶やかな髪から滴る水粒が、更に色香を引き立たせていて――って、私は何を考えてる。
 煩悩を振り払うように勢いよく首を振ると、そんな私の行動に驚いたのかレッドが駆け寄ってきた。

「どうした、何かあった?」

 急に顔を覗き込まれ反射的に身を引くと、レッドは少し寂しげに眉を下げる。違う、そんな顔をしてほしくない。
 "大丈夫。なんでもないよ"。こんな短い言葉すら、君に上手く伝えることができない。今すぐにでも、"自分はナナシだよ"と伝えたいのに。
 もどかしい気持ちに反応するように、全身の体毛がざわついて仕方がない。そんな時だった。
 ふわりとした浮遊感に襲われ、体が宙に浮かぶ感覚を覚える。そして次の瞬間には、レッドの膝の上に収まっていた。

「……もしかして、まだ僕が怖い? ごめんな、驚かせて」

 困り顔で微笑むレッドを見ていられなくて、私は必死に否定するように鳴き声を上げた。すると今度は彼の腕が伸びてきて、優しく抱え込まれる。
 そのまま引き寄せられると胸板に鼻先が触れた。鼓動の音が聴こえそうなくらいの距離に息を呑む。

「もし、君が良ければ……僕の仲間になってほしいな。何だか君を見てると、初めて会った気がしないんだ。まるでナナシが側にいるみたいで、不思議と心が落ち着くというか……」

 レッドの口から私の名前が出てくるとは予想外もいいところ、驚きのあまり耳が勢いよく立つ。それはどういう意味で受け取ればいいんだろう。
 すると彼は次々に胸の内を語り始めた。私とポケモンの話を語り合う時間が楽しいということ。私の笑顔が好きで、つい見蕩れてしまうということ。
 そして、いつの間にか私のことを好きになっていたと――

「明日、ナナシに会わせてあげる。ちなみに今話したことは全部、彼女には内緒ということで」

 レッドは照れくさそうに呟くと、私の鼻先に人差し指を近付ける。私は小さく鳴いてみせると、柔らかな微笑みで見下ろしてきた。
 君は、そういった表情もできるんだね。いつもは口数が少ないのに、ポケモンと接する時だけはこんなにも饒舌になる。今まで知らなかった一面に、思わず胸が高鳴った。

「そろそろお腹が空いただろ? ポケモンフード用意するから待ってて」

 私をそっとソファーに下ろすと、彼は棚の方へ向かっていく。そういえば今日は昼食を食べ損ねていたっけ。今になって鳴り響く腹の音を感じながら、彼の背中を見つめていた時だった。
 突然身体の奥底から燃えるように熱くなり、視界が歪み始める。間違いない、これはあの薬を飲んだ時と同じ感覚。
 多分、直に薬の効力が切れるだろう。このままこの場に残れば、マスターの目論見通りレッドを驚かせることになる。
 しかし秘めている想いを明かされた直後に、目の前で元の姿に戻るというのは――レッドにとってあんまりな仕打ちじゃないか。
 このイーブイが私であることが知られれば、きっと今までのように接してくれなくなる。そんなの、耐えられるわけがない。
 私は鉛のように重い身体に喝を入れ、一直線に扉に向かって駆け出す。後ろからレッドの声が聞こえたけど、振り返らずに全身でドアノブを回して廊下に飛び出した。
 息苦しくなっても、足がもつれそうになっても、とにかく人気のない場所を求めて走り続ける。
 こうしてようやく物置となっている空き部屋に転がり込むと、限界を超えていた私はそのまま意識を失ってしまった――

***

 次に目が覚めた時、私はマスターの部屋に居た。慌てて起き上がると、視界に映ったのは肌色の両腕。恐る恐る顔に手を当ててみると、温かな肌の感触が直に伝わってきた。
 すぐ横の窓からは西日が差し込んでいて、夕方だということを悟る。部屋を見渡すと、マスターが私の様子に気付いたようでこちらに向いた。

「目覚めたか。既に薬の効力は切れて、君は人間に姿に戻っている」
「はい……それであの、レッドのこと……なんですけど」
 
 長いようで短い、まるで夢のような出来事を振り返ると胸の奥が痛む。今もレッドは必死に、もういるはずのない"迷子のイーブイ"を探しているのではないか。

「経緯はナナシの目を通してこちらで既に把握している。今回は、二人に複雑な思いをさせてしまったようだ。済まない……レッドには私から話をしておいた。あのイーブイが君だということは伏せてある。そこは安心してくれ」

 マスター曰く、レッドには"逃げ出したイーブイはこちらで確保し、無事生息地へ帰した"とだけ説明したという。
 それに対しレッドは安心してくれたものの、寂しげな様子であったと。事の顛末を聞き終えた私の中には、切なさが溢れていた。
 本心を言うと、あの時私は嬉しかったんだ。レッドが私のことを好きでいてくれたこと、あんな風に想ってくれていたことが。
 だけど今はその気持ちに真っ向から向き合うことができない。嬉しいのに踏み込めない、意気地なしの私が心の中に住み着いている。
 それでもいつか、彼の想いを受け止められるようになったら。今度こそ私からも精一杯の気持ちを返してみせる。
 あの一連の出来事はレッドと"野生のイーブイ"の間で共有する、一人と一匹の秘密。これからも互いに秘めたまま、共に歩んでいくんだ――

一見切なげな内容ですが、未来は明るい方へ。




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