白銀を散りばめて
午後十一時、消灯時間を優に過ぎた頃。私は遅番の仕事を終えると同時にすぐに入浴を済ませ、疲労の抜けきらない身体をベッドに投げ出すとそのまま目を閉じた。
布団に沈み込む感覚に浸りながら、ぼんやりと明日のことを思い浮かべてみる。久々の休みだし何をしようかな。まあ、起きてから考えれば良いか。きっと明日も今日のように何事もなく過ぎていくだろうから。
たまにはちょっとした刺激があってもいいのに、と思うのは我ながら贅沢かもしれない。そんな思考もぼやけていき、やがて穏やかな眠りに飲み込まれていった――。
心地よい夢の中にいた私の意識はノックの音によって覚醒する。目を擦りながら窓の方を見ると外はまだ薄暗く、冷えた空気が身を震わせた。
一体この朝早くに何用か。困惑と少しばかりの怒りを滲ませながら、私はそっと扉を開けたものの――そこにいたのは想像もしていなかった人物だった。
「おはよう、ナナシ」
「レッド……こんな時間に一体どうしたの?」
目の前の少年レッドは有力なポケモントレーナーとして"スマッシュブラザーズ"のファイターに選ばれた程の人物。同じくトレーナーである私とは何かと絡んだりする仲で、一言でいえば友人のようなものだ。
普段はもの静かで何を考えているか読み取りにくい彼。だけど一応常識人という認識ではあったから、こんな時間に訪ねて来るなんて考えもしなかったのである。そして今の彼は厚手の上着を羽織っていて、今から出かける気満々といった様子。
「君に来てほしい場所があるんだ」
「えー……突然すぎるでしょ。後でも、」
「ダメだ。今から行かないと間に合わない」
珍しく焦りというものを匂わせながら、彼は真剣な目で訴えかけてくる。それほどまでに重要な場所なのか。私は戸惑いつつも少しずつ興味が湧いてきた。
「仕方ない……ちょっと待ってて」
「ああ。これから行く場所は寒いから、暖かい服に着替えた方がいい」
一旦ドアを閉めると急いでクローゼットから服を取り出していく。何が待ち受けているか分からないけど、行くだけ行ってみるしかない――。
***
レッドと共に訪れたのは彼の故郷である"カントー地方"のマサラタウン。夜明け前の町は静まりかえっていて、時々凍えるような風を切る音が流れるだけだ。
屋敷の地下室にある"扉"の力でやってきた訳だけど、目的地は此処から向かうのだという。レッドは広い道に出るとベルトからモンスターボールを取り出し、寒空に向かって放り上げた。
「リザードン、頼む」
目の覚めるような橙色の翼を広げて現れたのは"かえんポケモン"のリザードン。レッドの相棒で、乱闘でも日々その実力を奮っている頼もしいポケモンだ。彼はレッドの言葉に頷き、羽を水平に広げて身体を屈める姿勢をとった。
「ナナシ、リザードンに乗って」
「え……まさか飛ぶの!?」
「そっちの方が早いんだ。ほら、急がないと」
促されるままリザードンの背中に乗ったはいいものの、実はポケモンに乗って空を飛ぶのは初めての体験。レッドは慣れた様子で相棒にまたがりこちらに振り向くと、互いの視線が至近距離で交わったことで二人して硬直してしまう。
「……危ないから、僕に掴まって」
「あっ……ハイ」
気を取り直してレッドの腰辺りに腕を回して密着すると、そこから伝わる引き締まった身体を感じて胸が高鳴った。今まで旅をしていたことだし、それなりに鍛えられているんだろうか。今まで意識したことなんてなかったのに、こうして彼に触れていると妙に緊張してきてしまうから困ったものだ。
"いやいや、これは安全の為であって別に他意はないんだから"
そう自分に言い聞かせながらも頬が熱くなるのを感じる。そんな私をよそに、リザードンは逞しい足で地面を蹴りつけて一気に飛び上がった。
上空へ舞い上がると地上にいた時より冷たい風が吹き付けてくる。思わずレッドにしがみついてしまったものの、遥か高所にいるという現実が羞恥心すらもかき消していった。
凍える風に身震いしながらもそっと見渡すと、遠くに広大な森が広がっているのが見える。あれはトキワの森だろうか――なんて思案できるぐらいには落ち着いてきた頃、リザードンは進路を変えると少しずつ速度を上げていった。
「時間はギリギリか……あの山まで加速するから」
「あ、あの山って……てか、は、早いいぃぃっ!」
私の叫びと涙は向かい風によって絡め取られ、前方に連なる山脈を中心に周辺の景色がぼやけていく。そしてあっという間に目前に迫った岩壁に沿うように、リザードンは翼を並行に広げると風に乗りながら頂上へと登りあげていった。
***
数分後、私達は目的の山の頂上に降り立っていた。震える足になんとか力を入れつつ、スマホで時刻を確認すると屋敷を出てから二十分も経っていなかった。あれだけ長く感じられた飛行時間は、実際には驚く程短いものだったということらしい。
「……私を連れてきたかった場所って、ここ?」
レッドは頷くと私の手を引いてゆっくりと崖の方へと歩いていく。雪を踏みしめる音だけが耳に届く中、頂に登った私は目の前に広がる景色に言葉を失った。
雪に覆われた山脈が連なり、下の方は雲海によって遮られていて見えない。生まれて初めて見る光景に、まるで地上の世界から隔離されたかのような錯覚すら覚える。
「この"シロガネ山"はカントー地方の中で一番高い山。ここでどうしてもナナシに見せたいものがあって」
「見せたいもの……?」
「うん。もうすぐ見えるはずだ」
その言葉を最後に空を見上げ、再び口を閉ざすレッド。彼の視線に倣うように顔を上げると、白み始めた空に無数の輝きが浮かび始めた。
気付けば私達の周囲にも光の粒が舞っていて、徐々に輪郭を帯びてきた太陽が姿を現すと共に朝焼けの光を受けて輝きを増していく。
「綺麗……」
それは自然と口から漏れた言葉だった。我ながら月並みな言葉だけど、今の私にはこの感想に装飾することはできない。ただ美しいとしか言いようがなかったのだから。
気になることといえば、今降り注いでいる雪はきめ細かく透明感があり、粉雪とも少し違う気がした。
「これは"ダイヤモンドダスト"。空気中の水蒸気が一気に冷やされて出来る氷晶のことで、寒冷地でも滅多に見られない珍しい現象なんだ」
「へえ……初めて知った」
レッド曰く、ファイターになる前からこのシロガネ山には特訓の為によく通っていたようで、その頃に初めてダイヤモンドダストを見たという。それを期にこの現象について調べるようになり、遂に観測できる日時を突き止めたというのである。
「どうしても誰かに見せたくて。それで一番に思い浮かんだのがナナシだった」
「なら前もって教えてくれればいいのに……」
「それは、君を驚かせたかったから」
優しげな眼差しで見つめられては、胸が高鳴ってどうしようもない。もしかしたらこれは――なんて淡い期待が胸に湧くも、頭を軽く振って邪念を追い払う。ここで自惚れてどうする、もし私の思い違いだったら傷付くだけじゃないか。
「朝早くに起こしたの、これで許してくれる?」
「勿論。むしろ……その、ありがとう」
本当は照れくさくて堪らないけど、向き合ってお礼を伝えることができた。彼が私のために以前から準備をしてくれていた思いにはしっかり応えるべきだから。
小さく頷いたレッドの頬にはその名と同じ色が差していて、周囲を包む白銀が彼の輪郭を色濃く映し出していた。
「……ナナシ」
「どうかした、レッド?」
「僕が一番に君を思い浮かべた理由、マサラタウンに着くまでに考えておいて」
「えっ、それってどういう、」
レッドはうっすらとした笑みを浮かべると、"そろそろ帰ろう"とだけ返してリザードンをボールから出す。
颯爽と相棒の背に飛び乗った彼はこちらに手を差し伸べ、そっと握り返すと私の身体は勢いよく引き上げられた。その力強さから再び"男"を感じてしまい、顔を合わせられなくなる。
「答えられなかったら罰ゲームだから」
「はあ!? そんな無茶苦茶なっ、」
私の言い分を遮るかのように、レッドがリザードンに離陸の合図を出した。火竜は雄叫びと共に雪を巻き上げながら飛び立ち、銀箔が降り注ぐ中を飛翔する。
シロガネ山の景色は遥か後方に流れていき、前方にはレッドの生まれ故郷の町が見えてきた。さて、あと数分の間に彼の求める"答え"を言い当てられるだろうか。
私は彼の背にしがみつきながら必死に頭を悩ませる。この身体に吹き付けてくる凍風も、頬に宿る熱を冷ますには至らない――。
レッドは隠れSっぽいといいなと思う。