① 平穏

Morning glow




 十三年前――世界各地で"異変"は起こっていた。大人しかった動物達は突然凶暴化し人々を襲うようになり、更にはおかしな生物を見かけたという話まで囁かれていた。
 それなのに私はそういったことから無意識に目を背け、"平凡"な日常に浸ってきた。あの頃を振り返ると慌ただしい時期だったように思う。
 ――当時まだ学生だった私は、元々オネットという田舎町で家族とともに暮らしていた。それから少しして、動けなくなった母方の祖母の介護をする為にスリークに移住。
 祖母からは"この街はゾンビに支配されていた"なんていう話を毎日のように聞かされていたけど、街の人達からそんな話を聞いたことはなかった。私からこの話題を出すとはぐらかされることはあったけど。
 ただ、北東にあるテントは長年立ち入り禁止になっていて、そのせいで変な噂があるぐらい。今でも祖母の妄想か何かだったんだろうと思う。
 同じ時期、今度は"オネットが怪物達に襲撃された"という記事が新聞に出たものの、その後すぐにコスプレ集団による仕業だったということが明かされて、私は心底呆れていた。
 こうしてスリークに移住してから五年後――祖母が亡くなった後、両親は再びオネットに戻っていった。私だけは残って独り暮らしを始め八年が経ち、今に至る。
 "異変"、"怪奇"、そういったものとは一切縁のない人生を送っていく。そう思ってきたのに、私の生活はある日を境に"平凡"から"非凡"へと変わっていった――


「ナナシ、何やってんの」
「ん、見ての通り自分の足を揉んでるんだけど」

 イーグルランドの静かな町、スリークの一角にあるアパート。私は今、友人のネスが遊びに来てるにも関わらず自室のベッドで足の裏をマッサージしている。
 清掃業に転職してからというものの、肉体労働の日々を送っているからか足への負担が半端ない。しかも不思議なことに、自分で揉んだところで全く効いてる気がしないのである。

「僕が遊びに来てるのにマッサージとか、君って本当に何なんだろうね」
「しょうがないじゃん、今すごい足が痛いんだから。気にしないで寛いでていいよ」

 私はネスを適当にあしらいつつ、黙々と足裏を揉み続けた。だめだ、やっぱり効いてる感じがしない。思わずため息をつくと、今まで暇そうにしていたネスがベッドの上に乗ってきた。

「え、何――
「ちょっと足貸して」

 有無を言わさずネスは両手で私の右足を挟み込むと、そのまま足首からふくらはぎまでを強弱をつけながらさすり始めた。その手つきはとても優しくて、なんだかくすぐったい。

「どう? 気持ちいい?」
「うん……なんか変な感じだけど、良いかも」
「それならいい」

 ネスは微笑むと再び手を動かし始めた。今度は左足に手が伸びてきて、同じように足首からふくらはぎにかけてゆっくりと摩られる。
 自分ではいくら揉みほぐしても効果を感じられないのに、他人に触られるだけでここまで心地良くなるのか。人体って不思議。
 今度は右の足裏を掴まれると、指の付け根あたりを指圧される。"痛かったらごめんね"と言いながら微笑むネス。
 ――しかしここからが地獄の始まりだった。ツボを押されるたびに耐え難い痛みに苛まれ、思わず奇声が出てしまった。

「ほら、我慢我慢。効いてる証拠だよ」

 私は思っていた以上に自分の足裏が凝っていることに驚いた。ネスは笑顔を浮かべたままさらに力を込めてくる。
 内蔵が痺れてくる感覚を覚えつつ、歯を食いしばってなんとか耐えようとするも長くは続かず、痛みのあまり足を動かそうとするも押さえつけられてしまった。

「動くと余計痛くなるよ」
「あ、あぁ……もうっ、もういいからあぁっ!」

 必死の抵抗もありようやく解放された時には全身汗まみれになっていた。息を整えようと深呼吸していると、どこか優越の色を含ませたネスが顔を覗き込んできた。一体何が楽しくてそんな顔をしている。

「ははは、大丈夫?」
「……ネス、何が可笑しいの」
「さっきからナナシの奇声が面白くって」

 私はベッドの上で仰向けになり、大きく息をした。ネスの瞳はまだ楽しそうに細められているものだから、恨めしげに見つめてやる。
 しかし彼は気にする素振りもなく口元に弧を描くと、次は私の左足を掴んできた。一見すると柔和な笑顔も、今の私には悪魔の微笑みにしか見えない。

「さて、次はこっちだ」

 ここからが地獄の二丁目。抵抗する術を持たない私は近所迷惑ということを考える余裕もなく、ひたすら溢れんばかりの悲鳴を上げた――

***

「ふぅ、こんなもんかな」

 快楽と苦痛の狭間から解放された私は、力なく倒れこみ天井を見つめていた。今は何も考えられない。散々解されたからか、全身がふわふわと心地良い感覚に包まれる。
 しばらく呆然とした私だったけど我に返り起き上がろうとしたその時――ネスの手が伸びてきたかと思うと私の腕を掴み、軽く引き寄せられた。
 予想だにしていなかった展開により、私の思考回路は瞬間無になる。その間にも彼は私の二の腕などをペタペタと触っていた。

「え、ちょっと、ネス」
「んー……それにしてもナナシって去年に比べて少しぷよっとしてきたよね」

 ネスはすぐに腕を解き、触れていた箇所を真顔で眺めていた。私は白目になるぐらいの勢いで睨み付けたけど、やはり動じる様子はない。

「そうやっていつも私のことからかって楽しい? それにもう少し年上を労わってよ」
「人が遊びに来てるのに黙々マッサージし始めるナナシも大概だよ。それに充分労わったさ」

 それを言われると何も言い返せない。言葉を詰まらせていると、ネスは急に真面目な顔つきになって私を見据えてきた。思わずどきりと体が固まる。次に彼は私の両手を取り包み込むと、じっと覗き込んできた。

「やっ、な、何?」
「僕だって心配してるんだよ? ナナシ、思ってた以上に疲れが溜まってるみたいだし」

 ネスの言葉を聞いて思わず目を見開く。そうだ、彼はなんだかんだ言いつつもいつだって優しい。毎度余計な一言は添えてくるけど、それ以上の暖かな何かを与えてくれていた。
 今だって私のためにマッサージしてくれたのに、こっちは憎まれ口しか聞けなくて。私は自分の心の狭さを恥じると同時に申し訳なさを感じて俯く。するとネスは私の手を握ったまま語り始めた。

「今は平気だと思っててもさ、年をとったら色々一気にのしかかってくるんだって。君も着実にその域に踏み込んでるんだから」
「あ?」

 項垂れていた私の顔が、そのままぴしりと引きつる。前言撤回。こいつ、私が密かに気にしてることをさらっと言い放ってきた。確かに肌は荒れがちだし、前より疲れやすくなっているのは言い逃れのできない事実だ。
 だからといってここまで言われたら反発せずにはいられなかった。年下相手に何をムキになっているんだろうか、私は。

「言わせておけば……!」
「落ち着いてよ。僕から見たらナナシはまだ若くて綺麗だと思うから安心して」

 こいつはまた恥ずかしげもなくそんなことを。まさか私の思考を読み取られたというのか。そう思わずにはいられないくらいの不意打ちでこちらを動揺させるものだから、心臓に悪いったらありゃしない。

「まあ、綺麗なのは冗談として」
「どっちだよ!」

 一瞬本気で受け取ってしまった自分を呪いたい。怒鳴った後は思いっきり顔を逸らしてやった。何だか直視出来なくなって、こうでもしないと保てない。

「ふんっ、ネスだって今年で二十五になったでしょ。そうやって余裕ぶってると三十路なんてあっという間なんだからね」
「はいはい」

 ネスはへらりと笑いながら適当に返答をしてくる。脇腹を軽く小突いてやろうかと思ったら、咄嗟に側にあった枕で防がれてしまった。恨めしげに見つめる私を横目に、彼は一呼吸置くとぼんやりと何かを考える素振りを見せた。

「ねえ、ナナシ。最近仕事はどう?」

 これまた唐突な話だ。こちらとしては新たな専門知識を学んだりとやることは増えたものの、今のところ大きなトラブルも無く正に平穏そのものだった。

「んー、ぼちぼちかなあ。資格取得とかで忙しくなったけど、それぐらいだよ」
「へえ、ならいいけど」
「ネスの方こそどうなの?」

 こう見えてネスは私立探偵をやっている。初めて彼の職業を聞いた時は心底驚いた。とは言ってもそれは表向きの肩書きであって、彼が受ける依頼内容は通常の探偵業よりもさらに複雑で多様らしい。
 人探しや調査、警察の事件捜査のサポートは勿論、ギャングといった危険な裏組織の鎮圧など、その業務は多岐に渡ると聞く。
 所謂、探偵という名を借りた"何でも屋"みたいなものだ。彼が勤めている探偵事務所はかなり特殊で、なんと超能力で依頼を解決をするという常人には俄かに信じがたい方法で営まれてるんだとか。
 その事務所に雇われてる探偵達はみんな何らかの能力を持っていて、実績も高いらしく依頼内容によっては外国に行く機会もあるみたい。
 ネスも何度かそういった依頼を受けたことがあるみたいで、以前その話を大まかに聞かせてもらった時は驚きの連続だった。実際は極秘情報ばかりだし、友人であっても流石に依頼の詳しい内容やその探偵事務所の詳細までは話してくれなかったけど。

「僕? こっちは……まあ、いつも通りだよ」
「そうなんだ。でも相変わらず色々なことに首突っ込んでるんでしょ」
「まあね。でも稼ぎ良いし、僕としてはやり甲斐もあるから」

 ネスはそう言って笑った。彼曰く子供の頃から好奇心旺盛だったらしく、何かあっても笑顔で流してしまうような生き方をしてきたらしい。
 私もネスのように自分の思いのままに生きてみたいと少し羨ましく感じたこともあった。だけど、三十路寸前の今となっては普通に稼いで生きていけるなら何でもいいかなって思うだけ。

「やり甲斐、かあ」
「ナナシは、仕事にそういうの持ってないの?」
「そう言われると自信無いかも。ただ普通に生活できてればそれで十分だし」

 私が淡々と言い放つと、ネスはどこかつまらなそうな顔をしていた。すると突然立ち上がって窓際へと歩いていく。そしてカーテンを開けると、静かに外の風景を見下ろした。
 その背中からは何も読み取れるはずもなく、沈黙に耐えられなくなり声をかける。

「急にどうしちゃったの」
「別に。ただ、今の君ってどこか投げやりになってるように見えたから」

 それは図星かもしれない。昔から自分にとって本当にやりたいことが見つからず、答えが出せずにいた。そして気付けばこの年になっていて。
 それでも今更大きく動く気にもなれない。だけど折角環境を変えたんだから、今度こそは頑張りたいという気持ちぐらいはある。そんな私の心境を知ってか知らずか、ネスはこちらを振り向いてこう言った。

「大丈夫だよ。ナナシにはナナシの道があるんだから」
「まあ、それはそうだけど」

 私はなんとも曖昧な返事をした。年下に諭されるってどうなんだろう、と思わなくもないけど――私はネスの言葉を聞いて少し心が軽くなった気がした。
 それにしてもネスって私より若いのに、普段の会話からはやけに達観している部分を感じさせる。簡単に言えば、人生経験の時点で大きな差を感じさせられるというか。本当に彼って不思議な人だと思う。

個人的にネスは大人になっても天真爛漫な部分は残ってそうというイメージです。

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