③ 変異

Morning glow




 あれから三カ月。月日はあっと言う間に過ぎ去り冬の季節となっていた。あの日以来ネスは一度も私の前に姿を現していない。
 ここまで長い間顔を合わせないのは初めてだった。電話でもかけようかと思っても、彼は普段から仕事用の携帯しか持ち歩いていないと言っていた。
 その携帯の番号やメールアドレスも定期的に変更されており、基本的に探偵事務所の関係者と依頼人にしか知られてはいけないということで、こちらから連絡することはできずにいた。今までも、殆ど彼の方から私の前に現れるかたちで顔を合わせていたのである。
 一方私はというと、相変わらず平凡な日々を送っている。時折仕事の忙しさに頭を抱えることはあっても、それは日常の中の些細な出来事でしかない。
 ただ変わったことがあるとすれば――毎晩ベッドの中で漠然とした不安が渦巻くようになったこと。
 一体何に不安を抱いているのかすら自分でもよくわからず、悶々とする夜が続いていた。これもきっと、誰しもが経験していることだろうと流して、なんとか眠りに就く。
 そうして私は、胸の奥に残る重みを感じつつも朝を迎えていた。今日も昨日と同じような一日が始まるんだろう。冷えたフローリングを踏みしめていつものように身支度を終えたら、テレビのニュースを見ながら朝食を摂る。
 今はノーベル賞を受賞したという、隣国フォギーランド人の若い博士が映し出されていた。金髪で分厚いメガネをかけた、いかにも知的な印象を与える顔立ちの青年だ。年齢もネスと同い年の二十五歳。
 そしてあのアンドーナッツ博士の息子さんだという。彼は十代で博士号を取得した程の秀才らしく、機械の発明などにも精通してるらしい。
 何やら難しい話をしているけれど、受賞した主な内容は"物体を時間の異なる同じ空間へ転送させる方法"に関することとだけは辛うじて理解できた。私より若い青年がこうして世の中を驚愕させる論文を書き出し、世界に認められている。全く別世界の人物だな――と、思いながら私はトーストを齧っていた。

 この日もいつも通りの時間に出勤し、ロッカールームへと入ってユニフォームに着替える。私の仕事は清掃業で、主にビルや商業施設といった大型施設の清掃を任されている。
 準備ができると数名のグループで車に乗り込み、依頼を受けた建物へ向かう。行き先は実家のあるオネットから、大都会フォーサイドまで様々。運転はグループ毎に当番制で、月に五日ぐらいは私が運転する日もあったりする。
 今日は別の街へ向かう予定は入っておらず、此処スリークの一角にあるビルでの作業となっていた。目的地は本社から然程遠くない距離だから移動も楽で助かる。

「このビル前にも入ったことあるけどさ、いつも階段周りが酷いのよねえ」
「そうですね……壁も結構汚れがひどくて。あの範囲を一日でやりきれっていうのは少し無茶でしたね」
「それにあそこのビルの社員って皆死んだような目をしてたり、やたらギラギラしてるのもいて妙な感じでしょう。余程仕事がキツいのかしら」

 このように移動中の会話は大抵、現場や理不尽な要求をしてくる依頼主への愚痴だったりする。決して給料は良い方とは言えないけれど、一人で暮らしていく分には全然問題ない額。それに一番大きいのは、人間関係には特に問題がなく快適だったということ。
 だから精神的な負担もそこまでなくこの仕事を続けていられるというわけだ。今の私にはこの環境で十分だった。

「そう言えば聞いた? この間入ってきた新人さん、先週他所で誰かと殴り合ったかで逮捕されちゃったのよ」
「えっ、あの大人しそうだった人ですよね? 暴力を振るうような人には見えなかったと思いますが……」

 片手で数えるぐらいしか顔を合わせてないけど、確か物静かで大人しい感じの男性だったと思う。まさかそんな人が誰かと殴り合いの喧嘩をするとは想像できなかった。
 信じられなかったけど、出勤してこない所を見るに本当のことなんだろう。そういった話をしている内に目的のビルに到着し、依頼通りに作業を始めた。こんな感じで今日もこれといって問題無く半日が終わるんだろう。


 この日の作業も予定されていた通り順調に終わり、本社に戻ると着替えを始めた。あまり広い部屋ではないから、一度に三人も入るとたまに体が軽くぶつかってしまうこともある。
 でも普段からお互いに慣れてはいたから、誰も気にしていなかった。私が上着に腕を通そうとし、つい隣にいた同僚の肩に触れてしまった時だった。

「いきなり何すんの! 周り見なさいよ!!」

 突然鋭い剣幕で怒鳴られ、謝ろうとしていた私は口を開きかけたまま硬直してしまった。この人は普段から穏やかな雰囲気を持っていて、昔から誰とも争うことなく楽しそうに話をしている人だ。
 私ともよく趣味のことで話をするような仲。動揺しながらも彼女の顔を見ると、その目は血走り、歯茎を剥き出しにしていた。そこまで怒らせてしまったんだろうかと思い、萎縮してしまう。

「ちょっと聞いてんの!?」

 声を張り上げながら私の腕を掴まれる。その力があまりにも強くて、痛みに顔を歪めてしまう。それを反抗の意と受け取られたのか、彼女は更に詰め寄ってきた。

「何よその顔はぁ! あんたが私を突き飛ばそうとしてきたんでしょうが!!」

 否定したかったのに、その迫力に押されてとても言える状況ではなかった。その時、私達の成り行きを見ていた他の同僚が彼女を宥めようと割って入ってくれた。

「まあまあ、落ち着いて。ナナシさんもわざとじゃないし、ねえ」

 すると先程まで怒り心頭という様子だった彼女の表情が一瞬固まったかと思うと、みるみる内に元の穏やかなものへと変わっていき、普段のような柔らかな微笑みを向けてきた。
 その変わり様に私は背筋が凍りつくような思いだった。このちぐはぐとした雰囲気がなんとも気味悪い。

「そ、そうよねえ……いきなり怒鳴ったりしてごめんなさいね」
「あ……い、いえ、こちらこそ……ごめんなさい」

 なんとか絞り出した声は微かに震えていた。今起きたのは現実だったんだろうか。そう思いたくなるほど強烈な数分間だった。彼女の豹変ぶりは尋常ではなかった。
 それとも、こうなってしまうほどに大きなストレスを溜め込んでいた人なんだろうか。他にも色々な要因が重なって、この日爆発してしまったんだろうか。
 いくら考えてもキリがない。ただ、何となくあの人に近寄りにくくなってしまったのは事実だ――

 その後はなんとか自宅に帰ってきて、着替えもせずに居間にへたりこんだ。暖房をつけたばかりの部屋の空気が私の体に冷たくのしかかる。
 会社でのこともあって食欲が湧かなかった私は、冷蔵庫に入れてあった惣菜だけで夕飯を済ませることにした。おかずをレンジから取り出し、食べながら適当にテレビのチャンネルを回す。
 画面は飲食店の特集から、今日のニュースへと切り替わった。こうして眺めていると、物騒な事件が増えてきてると思う。
 特に酷くなったのは去年ぐらいからか。野良犬やカラスが人を襲ったという話から傷害事件や強盗といったものばかりで、段々と気が滅入ってくる。
 先週だってこのアパート付近でも窃盗未遂事件があったばかり。ベランダから侵入するという手口で次々と室内に忍び込もうとしていたらしい。
 画面に容疑者の顔が映し出されているのを見ている内にふと脳裏に怒り狂った同僚の顔が浮かんでしまい、私はそれを振り払うようにテレビを消した。

「今日は早めに休もうかな……」

 心身ともに疲れきっていたこともあり、お風呂はシャワーを浴びるのに留めてすぐにベッドに潜り込んだ。目を閉じる前に何となく携帯の通知を見たけど、特に何も入っていなかった。
 この三ヶ月、毎晩こうして携帯の通知を確認するのが習慣になっていた。もしかしたらネスが気まぐれにメールでも送ってきてるかも、なんて思いながら画面を見ては小さく溜息をつく毎日。一体、彼は今頃どこで何をしているんだろうか。
 まさか依頼の中で事件に巻き込まれたりとか、行方不明になっているとかではあるまいな。でもあのお気楽でいつも飄々としている奴に限ってそんなことは。超能力だって使えるんだし、きっと大丈夫でしょ。
 最悪の状況を想像してしまう不安感と、彼に抱いている謎の信頼感が縄のように絡み合い、日々私の思考を縛り付けている。
 このまま悶々と考えていても事は何も変わらないというのに、それでも私の心の中には彼の姿が浮かんでいた。
 最後に彼と会った時は家で夕飯をご馳走したんだっけ。あんなに美味しそうに食べてくれるとは思わなくて、言葉には出せなかったけど――本当は嬉しかった。
 それに一応約束したから、いつ彼が私の家に現れても良いように時々ハンバーグを作っては感覚を取り戻しつつある。
 それなのに肝心の君がいないなら意味が無いじゃないか。しれっとタダ飯を予約しておきながらこれ程長い間姿を消すなんて、どうなんだネスくん。
 こうして毎日もやもやと湧いてくるものを強引に胸の奥に押し込みながら眠りにつく。明日の現場はフォーサイドにあるから、普段より早めに出勤しないといけない。
 目を瞑っている内にようやくやってきた睡魔に身を任せて、一日を終えた。

この話はタイトルに迷った。

続き



戻る
▲top