④ 依存

Morning glow




 この日は早朝から雪が降り出していた。とは言ってもそこまで降りは強くないし、本社から今日の現場までは会社の車で向かうから特に大きな問題がある訳ではない。
 ――ただ、この薄曇りの空が私の心に居座り続ける影を色濃くさせるのである。
 現場に着くと私達はそれぞれ担当の箇所へ移動して清掃作業に取り掛かった。特に目立つ汚れもなく、比較的清潔に保たれているように見受けられる。
 今回の現場は当たりかなと思いつつ、黙々と作業をしていた時だ。私が今いる廊下から三メートル程の距離にある休憩所から、何やら話し声が聞こえてきた。
 この周囲には他に誰もおらず、静かだったこともあってかここまで声が届いてくる。

「はあ、今日も無断欠勤だってよ。アイツ、この前飲んだ帰りにゴミ捨て場で小さいヘンテコな像を拾ってから変わったよな」
「やっぱ君もそう思う? 何か雰囲気変わったよなあ、嫌な意味でギラギラしてるっていうか。何考えてるか分からん奴になったよ」

 聞き取れた範囲ではこんなところだった。これ以上立ち聞きするのも何だし、今の話を聞いて何となく寒気を覚えた私は用具をまとめて速やかにその場を離れた。
 ヘンテコな像というのはよく分からないけど、拾い物をしただけで簡単に人格が変わるようなことなんてあるんだろうか。
 いや、それぐらいで変わるならとうの昔にこの世は狂った人間で溢れているだろう。とは言うものの、ここ最近自分の周辺も悪い意味で変化していっているような気がして、漠然とした不安が日を追うごとに大きくなっていくのである。
 しかしこれも『平凡』な日常の中にある、些細な綻びのひとつに過ぎないんだ。そうに決まっている。ずっと私の心が晴れないのも、日々の生活の所々に違和感を抱えつつあることも、きっと一時的なものに過ぎない。
 どうせ一ヶ月もすればまた以前のような何事もない日々が戻ってくるんだ。そうとでも思ってなければやってられないほど、今の私は得体の知れない不安に苛まれていた――

 そんな鬱屈な日々の中にもささやかな楽しみや喜びはある。今日この一日を乗り越えられれば明日は休日。そう思うだけで心は少し軽くなって、仕事にも力が入る。
 いつも以上に念入りに清掃をし、チェックも怠らない。その甲斐あってか、普段寡黙な上司から珍しくお褒めの言葉を頂いた。今日は我ながら頑張ったんじゃないかとちょっぴり自画自賛する。
 今晩はご褒美として、仕事の帰りにコンビニでも寄ってお高めの缶ビールとおつまみを買おうかなと考えながら帰り支度をしていた時だった。

「あの、ナナシさん……」

 遠慮がちな声色で名を呼ばれ、振り返ると例の同僚が神妙な面持ちでこちらを見つめていた。私はこの間突然激しい怒りをぶつけられて以来、無意識にこの人のことを避けていた。
 しかし仕事を終えて着替えるこの時間だけはどうしようもない。また何かの拍子に激昂するのではないかと思うと、恐ろしい。まるでいつ爆発するか分からない爆弾に接するかのような心境だった。

「あ……お疲れ様です」

 軽く挨拶だけ済ませて横をすり抜けようかと思っていたその瞬間、彼女は突然思いっきり頭を下げてきたのである。私は訳が分からず、小さく声を漏らして硬直してしまった。

「この前は本当にごめんなさい。あの時何であんなに怒ったのか、自分でもよくわからなくて」

 彼女いわく、ある日から何故か落ち着かなくてイライラするようになり、自分でも感情が制御できなくなることが増えた。
 しかし主人が持ち帰ってきた妙な像を見ていると優しげな声が聞こえてきて、不思議と心が落ち着くのでそれで何とか抑えていた、ということだった。
 また『像』というワードを耳にした私は薄ら寒いものを感じた。しかもそれが語りかけてくるというのである。まさか、あの会社員達が話していた『ヘンテコな像』とやらと関係してるんだろうか。
 いや、きっと偶然だ。小さな像なんて言っても、よく庭とかに置かれているようなオブジェのことを指してるんだろう。
 語りかけてくるというのも、疲れからくる幻聴か何かに違いない。この人がここまで情緒不安定になっているのも、日頃のストレスか何かが原因ではないのか――

「私は気にしていませんから、大丈夫ですよ」
「本当にごめんなさいね」

 また深々と頭を下げられ、居た堪れなくなった私は早々に話を切り上げて会社を後にした。先程まで高揚していた気持ちはすっと冷めて、コンビニに立ち寄る気すら失せてしまう。
 とにかく落ち着かなくて、今は早く帰って休むことだけ考えていた。

 帰宅後、バッグや上着をソファに放り投げると側のテーブルに突っ伏した。明日はせっかくの休日だというのに、私の心が晴れることはなかった。
 思い返してみれば、このところずっと気分が優れないことばかり続いている。良い事もあったはずなのに、その喜びや嬉しさは蝋燭の火のように弱々しく、あっという間にかき消される。どうしてこんな風になってしまったんだろう。
 少し前まで平穏な毎日を過ごしてきたのに、最近は何をしていても楽しくない。普段なら気にも留めなかった些細なことですら必要以上に考え込んでしまうようになり、自分で自分を締め付けているようだった。
 多分気候のせいだろうと思うことにして、気怠い体を起こして夕飯を作り始めた。こんな時にあのお気楽青年が居てくれたら、少しはマシなのに――
 そんなことをぼんやりと考えていたら、急に胸の奥底から込み上げてくるものがあった。私はこの感覚の正体を知っている。だからこそ、それを認めたくなかった。

「……何処で何やってるんだか」

 ぽつりと呟いて、ボウルの中の挽肉をひたすら捏ねていた。もう週に一度はこれを作っている気がする。でもこれは私が食べたいから作っているだけ。
 本当は他にも理由はあるけど、多分それは意味を成さないものになりつつあるんじゃないかと思う。
 そもそも私と彼は友人であり、それ以上でもそれ以下でもない。私はそう思っていたのに、彼はあの日突然私を抱きしめてきた。
 あの時彼が何を考えていたのか、今でも見当がつかない。彼のいつもの気まぐれで思いついた悪戯、で片付けるにはあまりにも真剣な表情をしていたから、尚更。
 私には彼がわからない。今となっては聞きたいことも沢山あった。日を増すごとに上達していくハンバーグ作り。日を増すごとに薄れていく彼との約束。
 このちぐはぐな状況は私の中の暗雲を深めるには十分な要素だった。私はいつまでこの遣り場のない心を誤魔化し続けていられるんだろう。その時、突然脳内に声のようなものが流れ込んできた。

"――もう待つことに意味が無いというのは、君が一番良くわかっているはずだ。もう疲れただろう。そろそろ心の荷を下ろすといい"

 それはとても心地よくて、ずっと聴いていたくなるような甘くて優しいものだった。こんなのが聴こえてくるようになるなんて、私も精神的に相当疲弊しているのかもしれない。

「私も、あの人みたいに"ヘンテコな像"とやらを手に入れられたら、楽になれるのかな」

 無意識に声に出していた言葉を頭の中で反芻させ、私は咄嗟に口を押さえた。そんな得体の知れない物にまで縋るような思考になっていた自分がひどく惨めで哀れな存在に思えてくる。
 完全に思考が薬物に手を出す人間のそれと同じように感じられて、吐きそうになった。私はただ、この漠然とした苦しさから救われたいだけだ。
 あの天真爛漫でほんのり身勝手な彼と、しょうもないやり取りを楽しんでいた頃の平凡な私に戻りたいだけ。それだけのことなのに、今はどんな願いよりも遠いものに感じられた。
 もしかしたら自分も、あの人のように突然爆発してしまうようになるんだろうか。自分の心を抑えられるのは自分しかいないのに、私はその術を見失いつつあった――

じわりじわりと。

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