⑤ 希求

Morning glow




 ネスが私の前から姿を消して、もう半年となる。その間に世間では新年を迎え、今は三月になっていた。私は今も『平凡』の中を漂っている。
 いや、実際にはそう思っていたいだけなのは今も変わらない。時間というものは残酷に、この世に在るもの全てに平等に刻んでいく。
 ただ、今は時の流れを恨んでしまうことがある。そんなことをしても無駄だとわかっていながらも、つい考えてしまう。あれからもう半年近くにもなるのに心の隅ではいつまでも彼の顔がちらついて、一向に離れていく気配がないのである。
 当の本人は私の前に姿を現す気配はないのに、心の中ではいつまでも側にいて、互いに軽口を叩きあっては笑い合う。
 いつの間にかそういった光景に依存している気がする。ほんのり切ないものをグラスに浮かぶ氷に重ねて見つめていた時だった。

「ナナシってば何しんみりしてんの。考え事?」

 隣に座っていた友人がほろ酔いの顔に困惑の色を浮かべながら聞いてくる。私が黙りこくっていたからだろうか。
 それとも顔に出てしまっていたのか。彼女はいつも自分より周りを優先して心配してくれる優しい人だ。
 私は友人の憂いを振り払うように、へらりと笑ってみせた。しかし彼女は私の目を見つめたまま逸らさない。まるで私の真意を探ろうとする、そんな眼差しだった。

「もしかして、例の彼と上手くいってないの? 確かネス君っていう年下の、」

 少し遠慮がちに尋ねてくる。まるで胸中を読んでいたかのように、ぴたりと当ててくる彼女に私は思わず苦笑いするしかなかった。

「……そういう仲じゃないよって前にも言ったよね?」
「そんな事言ってぇ。前のあんたってば、ネス君の話してる時いつも楽しそうな顔してたじゃない」

 にやにやと楽しそうに振舞う彼女を横目に溜息をつく。今夜は気晴らしに友人を誘ってフォーサイドのボルヘス酒場に来てみたものの、自然にネスの話題になってしまい余計気分は沈んでいく。
 実はまだ友人にはネスと連絡が取れないという現状を話していない。彼が探偵をしているということは隠さないといけないし、この友人のことだから行方が知れないなら最悪捜索願を出そうという展開にもなりかねない。
 私自身、何度か警察を頼ろうかと思っていた時もあった。しかしそうなればネスの実家に連絡をしなければいけなくなるし、間接的に彼の仕事を妨害することに繋がってしまうかもしれない。
 そう、仮に仕事の都合で行方知れずというだけならば――
 とにかく、ネスがどのような状況であれ今の私にはどうしようもできない。会えないやるせなさを振り切ることもできなければ、背中を追おうと踏み込むこともできない。どこまでも臆病で情けない自分が嫌になって、気付けば雫が頬を伝っていた。

「やだナナシっ、泣いてんの? やっぱ彼のことなんでしょ、思い切って吐き出しなさいよ」
「だから、そういうんじゃないって――

 どうしよう、涙が止まらない。バラバラになった心が元の形に戻ろうとしては、保てずにぼろぼろと崩れていく。こうなってしまったのもアルコールが回っているせいだ。きっとそう。
 明日になればこの心は形を取り戻しているはずなんだ。友人に優しく背中を叩かれながら、私はカウンターに突っ伏して溢れる涙をひたすら拭っていた。


 翌日、私のコンディションは最悪といってもいいものだった。昨日は泣きながら辛い心を誤魔化すため、浴びるようにお酒を飲んでいた。
 友人にも飲み過ぎだと言われていたのに押し切っていたのは覚えている。こうして見事に二日酔いになってしまい、酷い頭痛を抱えることとなった。
 自業自得と言ってしまえばそれまでだ。更には同僚の何人かが一か月前から謎の休職期間に入っていて、社内は人手不足に陥っていた。その中にはあの情緒不安定になっていた例の人も含まれている。
 色々と追い込まれつつも仕事だけはしっかりこなさなければと、怠く重い体を押して作業をしていた。この日はビルの外壁清掃の後、周囲の植木や花壇への散水も任されていた。ただ清掃業といっても掃除をするだけではないということである。
 夕日が照らす中、無事に散水は終わった。しかし片付けが終わって気が抜けた途端、全身を冷風が吹き付けた。
 気付けば作業着は跳ねた水で濡れていて、冷やされた布が肌に張り付いていた。三月とはいえ、まだ冬の名残は去っていない。
 震えを抑えつつ着替えようと更衣室に向かう途中、突然足に力が入らなくなり立ち眩みに襲われてしまった。私はよろめきながらも更衣室に辿り着くと、力なくベンチに腰掛けた。
 結局その後も動けないままで、別の作業を終えて帰ってきた同僚に心配をかけた上に車で自宅まで送ってもらうことになってしまった。
 ふらつく足で家に帰ってきた私は、何とかお風呂だけは済ませるとソファに倒れ込み泥のように眠りこけた。


 次の日の朝、私の体は言うことを聞かなくなっていた。目を覚まして何とか携帯の画面を見ると時刻は朝八時を示していた。
 一瞬遅刻だと思って体が跳ね上がるも、すぐに今日と明日は休みだということを思い出して一気に全身の力が抜ける。
 しかし安心するのも束の間、その視界さえも滲んでぼやけてしまう。――顔が熱い。重い。気怠い。何もする気力が湧かない。
 ここまでくると今の自分がどう言う状態であるか嫌でも分かってしまう。こうなったのも、自分の体調管理を怠っていた故の結果。

「あー……完全に風邪ひいた」

 つい漏れた声は掠れていて、その事実が余計に体を重くさせる。体温計を取りに行こうと思ってもそれすらもだるく感じられた。
そのままソファにへたり込んでいると、インターホンが鳴った。こんな朝から誰だろうと、壁伝いに玄関へと向かう。
 急いでドアスコープを覗くと、配達員の男性が立っていた。差し出された荷物には隣人の苗字が書かれていて、住所が間違っていることを伝えておいた。すると男性は慌てて頭を下げ、すぐに隣の部屋のドアに駆けていった。
 間違いは誰にでもあるとは思うけど、今回は間が悪過ぎる。無理をして立ち上がったせいか頭がふらついて仕方がない。折角の休日だというのに、この二日間はずっとベッドの上で過ごすことになりそうだ。
 こういう時に一人暮らしは寂しく辛いものだと痛感させられる。身体が弱って体力が落ちている分、心まで削がれていく気がしてならない。――ただでさえ『彼』のことがあるのに。
 こうして思考にふけっていると、またあの優しげな声が私の心に直接語りかけてくる。この奇妙な声が聞こえてくるのは2ヶ月ぶりか。

"――今も君はこれほど強く想っているのに、彼は何一つ返してはくれない。そんな日々に意味はあるのだろうか?"

 本当に、何処へ行ってしまったんだろう。元気にしているんだろうか。もう二度と私の前には姿を現さないんだろうか。次第に視界がぼやけはじめて、目尻に熱い雫が溜まっていた。
 袖で何度拭っても、拭っても溢れてくる。違う、これは悲しみによるものじゃない。発熱によって勝手に溢れ出たものだ。そうでなければいけないと、私は必死に自分に言い聞かせた。
 何故ならこれを悲しみだと認めてしまえば、弱りきった自分の心を締め付けることになるから。そこまで考えた途端、脳内に次々と浮かんでくるのは彼との思い出の数々だった。
 下らないと思っていたやり取りの数々も、今にして思えばどれもこれもが安らぎで溢れていた。この先もあの何とも言えない心地良い関係が続くと信じ切っていた。
 
"――それなのにある日を境に彼は君の元から離れていったのだ。何故なら彼は元々存在すらしていないのだから。君は有りもしない姿に翻弄されて疲れているだけなのだ。さあ、病める心の全てを私に委ね、君の望んでいた『平凡』な生活に戻るといい"

 穏やかに淡々と語りかけてくるその声は、脳内で何度も言い聞かせるように響いていた。――確かに、突然彼は姿を消した上に連絡もできない。彼がいたという痕跡は何一つ無い。まるで最初から存在していなかったかのように。
 しかしそんなことある訳がない。ネスと出会ってからの1年間、私は彼と色々なことを語り合ったし、触れ合った。これらの記憶は全て、彼が私の側にいたという唯一の証明。
 例え彼がどんな状況に置かれていたとしても、誰に何て言われようと私は諦めたくない。ネスのことを信じていたい。この溢れる想いを受け入れるのも、心の在り方を決めるのも私だけだ。他の誰にも委ねはしない。
 朦朧とする頭の中で、私はひとつの答えに辿り着こうとしていた。やはり私は、ネスのことを――。こうして見ると私も随分と諦めの悪い人間だ。
 最後にネスに会った時、彼は自分のことを"女々しい"と言っていたけれど、私だって君のことを言えないぐらい未練がましい女だと思う。
 今も聞こえてくる声を振り払うように小さく笑うと、限界を迎えていた私の意識は睡魔の中へと落ちていった。

***

 ふと目が覚めると辺りは真っ暗になっていて、時計を確認すると夜中の2時を指していた。何とも中途半端な時間に目覚めてしまったものだ。ベッドのシーツは寝汗で湿っていて、いかに大量の水分が失われているかを示していた。
 思い返せば昨日からまともに食事も摂れていないし、このままでは治るものも治らない。今は水だけでも飲もうと、覚束無い足取りで台所に向かっていた時だった。
 ガチャリ――と玄関の方からドアノブの回る音が聞こえてきた。そういえば私、昨日の配達員とのやり取りの後に玄関の鍵は閉めただろうか。記憶が曖昧で自信がない。
 こうなれば自分で確認するしかないけども、怖くてたまらなかった。この真夜中にドアノブが回されるなんてことは、普通なら有り得ないことだから。
 取り敢えず居間の電気を付けて恐る恐る玄関に向うと、廊下にそれは立っていた。

「あ……? なんだ、起きてたのかよ」

 黒いパーカーを着た男は私の姿を見つけても驚くどころか、面倒くさそうといった様子で舌打ちをする。フードで頭を隠してはいるけど、少しだけ見える顔のパーツには見覚えがあった。
 確かこの男は昨日の朝、隣の部屋と間違えて来た配達員ではなかったか。こんな時間に忍び込むような真似をして、まさか強盗目的だというのか。
 困惑のあまり硬直している私を睨む瞳はギラギラと見開かれていて、正気ではないということを物語っていた。本能的に危険を感じた私はふらつく足に喝を入れてゆっくりと後ずさる。

「大人しくしてろ」

 そう呟くなり男は詰め寄ってきて、ポケットから取り出した布で私の口を塞いできた。抵抗しようとするも、熱で弱りきっていた体では無力だ。あっという間に両腕も縛られてしまい、床に転がされてしまった。
 男はそのまま私の横を通り過ぎると、タンスや机の引き出しなどを次々に開けていき物色し始めた。――まさかこの男は初めから私の家に侵入することが目的で、下見をする為に配達員のフリをしていたというのだろうか。
 しかし今更気付いた所で手遅れだ。目の前で堂々と略奪されているというのに、睨むことしかできない自分が悔しくて仕方がない。
 やがて満足したのか、男は奪った物を詰め込んだバッグを手に取ると私に近付いてきた。その右手にはいつの間に取り出したのか、鈍く光るナイフが握られている。

「はははっ……オレ、一度人間を殺してみたかったんだよなあ。お前が記念すべき第一号だよ」

 耳元で囁かれた言葉に思わず目を大きく見開く。理不尽に何もかも盗られて、最後には命すらも奪われるというのか。
 最後の足掻きにと力を振り絞って体を起こそうとするも、その努力は虚しい結果に終わる。そのまま男に肩を押さえつけられ、ナイフを持つ右手が高く掲げられた。

「ひひっ、じゃあな――

 男の口角が上がった瞬間、刃が振り下ろされようとした。どうやらもう駄目らしい。私の『平凡』だと思っていた人生はここで唐突に終わるようだ。
 行く末は分かりきっていても、反射的に目を瞑って身を固くしてしまう。しかしいつまで経っても想像していた痛みが襲ってくることはなく、そっと目を開いた。

 まず目に飛び込んできたのは、男が右手を振り上げた状態で固まっている姿だった。その目は焦点が合っておらず、次の瞬間にはぐったりとして私の隣に倒れ込んできた。床にナイフが落ちる音が響く。
 一体何が起きたのか。ゆっくりと顔を上げると、そこには一人の青年が右手を構えた姿で立っていた。ぼやける視界の中で必死に彼の顔を捉えようとする。――何故なら、今私の目の前にいるのは。

「……良かった。間に合って」

 ずっと聞きたいと望んでやまなかった声。歪んで見えていた視界が鮮明になった時、私はようやく彼の顔を見ることができた。
 それは紛れもなくネスの姿だった。以前と変わらない優しい笑みを浮かべて、彼はそこに立っている。私は口を塞がれているにも関わらず、無我夢中で彼の名前を呼んでいた。
 すると彼は眉をくしゃりと下げて私の近くに寄り、拘束を解くと同時に抱き締めてきた。私を包み込む腕は微かに震えている。
 ああ、これは熱に浮かされた夢なんだろうか。私は彼の存在を確かめるように抱きしめ返そうとするも、情けないことに腕に力が入らない。
 もう一度彼の顔が見たいのにそれすらも叶わない。こうして彼の体温に包まれながら、意識を落としていった――

飲みすぎは良くない。

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