⑥
柔らかな温もりの中、額にかかっている冷たさが心地良い。そういえば私、どうしたんだっけ。確か夜中に目覚めて、水を飲もうとしたら強盗に襲われて、それで――。
意識が覚醒すると共に、私は勢いよく起き上がった。額に乗せられていたタオルが掛け布団の上にぱさりと落ちた。慌てて辺りを見回すと、そこは私の部屋でひとまず安堵する。
やはりあの一連の出来事は夢だったんだろうか。私は心の中で疼くものを抑えるように、胸に手を当てていた。すると突然部屋のドアが開かれ、そこからネスが顔を覗かせた。
「起きたみたいだね。気分はどう?」
「ネ、ス……?」
「君の寝癖、凄いことになってるよ?」
目の前のネスはいつも私に見せていたような悪戯っぽい笑みを向けている。もしかして私はまだ夢の中にいるんだろうか。そう思ってしまう程に私は彼の姿を求め続けてきたから。
そっと自分の頬をつねってみると、じんわりと痛みが伝わってきて顔を顰めた。私の行動を黙って見ていた彼は笑いを堪えようとしているのか、次第に肩を震わせ始める。
――夢じゃないんだ。私が人生最大の危機を迎えたことも、それからネスが救ってくれたことも全て。
本当に、私の目の前にネスがいる。気付けば私の瞳からは勝手に熱いものが溢れそうになっていて、慌てて腕で顔を覆う。こうなると彼も笑うのを止めて、肩をすくめると私の側に寄ってきた。
「さっきからどうしたんだよ。自分の頬抓ったり突然泣き出したり」
「だって……ネスが私の前にいるのが、ゆ、夢みたいで」
「はは、大袈裟だな。ナナシって本当は泣き虫だったんだ」
「誰のせいだと、思ってんの……っ」
涙目で睨みつけてやるとネスは苦笑しながら私の頭に手を添えてきた。その後は何も言わず優しく撫でてくれて、次第に落ち着いてきた。
もっと触れて欲しいとさえ思えてしまう程の心地良さに浸っている内に、脳内では不穏に揺れ動くものがあった。あの時の一連の出来事をゆっくりと辿りながら違和感の元を突き止める。
そうだ――昨夜のことが現実なら、強盗はあの後どうなったのか。
突然私の前にネスが現れたことに意識が持っていかれていて、とんでもない事を忘れるところだった。そもそも何故ネスは突然私の家に現れたのか。
「あの男はどうなったの? というか……何でネスは昨日私の家に?」
「うん、実はね。ある物を探してて、それがスリークにあるってことを突き止めたからこの町に来たんだ。そしたら君の住むアパートに妙な男が入っていくのが見えて、嫌な胸騒ぎがしたから後をつけたんだよ。強盗の方は大丈夫。ナナシが寝てる間に片付いたから」
「片付いた、って……?」
落ち着いて部屋を見渡してみると、奪われた物は全てバッグから取り出されて居間のテーブルの上に置かれていた。
通帳やカードの入った財布なども無事のようで一先ず安心する。しかし肝心の強盗の行方はどうなったのか。
疑問を拭えないといった様子の私に対し、ネスは何かを躊躇うように窓に視線を向ける。カーテンの隙間から差し込む陽光が彼の横顔を照らし、そして意を決したかのようにゆっくりと口は開かれた。
「あの強盗は、探偵事務所の方に連れて行った」
「え、警察に通報したんじゃなくて?」
「その話をする前にやらなくちゃいけないことがあるんだ」
ネスは小さく溜息をつくと、カーテンを全開にして掃き出し窓を開くとベランダへ出た。外に出て一体何をするのか見当もつかず、私はただその行動を見ているだけ。
彼は何かを探すかのようにベランダを念入りに調べ始め、次に天井を見上げてじっくりと目を凝らしていた。すると何かに気付いたようで、目を見開かせると上に向けて腕を伸ばした。
物干し用の棒を固定している金具が外されると同時に紙の擦れるような音が聞こえてきて、腕を下ろした彼の手には新聞紙で包まれた物体が握られていた。
それは両手に収まるぐらいの小ささだけど、ここに住むようになってから今までそんな物をベランダに置いた覚えは無い。私の背を冷たいものが伝う。
「……ここにもあったとはね」
「な、何それ」
「これは、人々の中にある暗部の象徴だよ」
複雑そうに眉を顰め、ネスはそれを机の上に置くと包装を剥がしていく。中から現れたのは――黄金に輝く小さな像だった。人の形をしているけど、その頭部には角のようなものも見られる。
まじまじと見つめていると、またあの声が脳内に響いてきた。今度の声は今までにはない強い圧を含んだものだった。
"――目を覚ますのだ。君は彼の幻に囚われかけているだけだ。さあ、このまま甘やかな幻影に囚われる前に私に全てを委ね――"
次第に思考すら奪われ、意識が持っていかれそうになる寸前で声は途切れた。ネスの人差し指には残光が纏っており、恐らく超能力で像を破壊したんだろう。
折れた首の部分からは電気がショートしたような音と共に小さな煙が上がっていた。よく見ると機械の部品のような物も見えている。
「一見ただの小さい像に見えるけど、これは人や動物に強力な幻聴をもたらすマシーンなんだ。それも、かなり質の悪いものさ」
未だ呆然としている私に、ネスは分かりやすく説明してくれた。この像は常に聞き取れない波長を持つ音を放っていて、近くにあるだけで人間が持つ不安や苛立ちといった負の心を増幅させ、人格を歪ませていく。
そしてこれは近付く生物に奇妙な声で語りかけるという幻聴をもたらす。その声には怒りや苦悩といったものを鎮める効力があり、精神的に追い詰められた人々はこの像に救いを求めるようになってしまう。
最終的には完全に依存し、像に心そのものを支配されてしまうのだという。ネスは像の仕組みを語りながら、着々と分解し処分していく。
こんな物がいつの間に自分の家のベランダ置かれていたのかも分からず、背筋が凍りつく思いだ。自分の心が漠然とした不安でかき乱されていたのも、全てこれのせいだったというのか。
彼の話ではこの像は少なくとも去年からイーグルランド中に配置されていて、昨夜私を襲った男も長い間像の影響を受け続けた末に、平然と強盗をするような人格へと変貌してしまったらしい。
ここまで語り終えるとネスは一息つき、分解した像を袋に包むと黒いバッグに詰め込む。彼が仕事をしている姿を見るのは初めてで、今まで私に見せてきた飄々としたものとは違う大人びた表情に一瞬胸が高鳴ってしまった。
――そして胸の内に抱えてきた想いが、今にも溢れそうになる。
「……ネス。今まで、どうしてたの?」
「ナナシ……」
「半年だよ。半年もずっと行方知れずで、私は、ネスに何かあったんじゃないかって……怖くて、それでもいつかまた会えるって信じたくて、」
一度声に出してしまえば堰を切ったように溢れていく。止めようと思えば思うほど感情は激しくなり、気付けば再び頬を涙が伝っていた。ネスは眉を下げていて、その瞳の奥には微かな迷いが見える。
彼にそんな顔をさせているのは他でもない私だ。分かっていても、自分では止められなかった。それだけ君のことを心配してたんだよ、ネス。
やがて彼が近付いて来る気配がして、私の肩に手を置くと静かに引き寄せてきた。その温もりを感じながら彼の胸に顔を埋め、ただ泣くことしかできない。
「心配かけてごめん。でも、ナナシがこんなに僕のこと思っててくれてたなんて、嬉しい……」
耳元に囁かれる言葉に、私の鼓動は早まっていく。抱き締める力も強くなり、更に体温が上昇していった。こんな展開、確か以前にも。
丁度ネスが行方不明となる半年前、この家の玄関でのことだ。切なげな瞳をしたネスにこうして突然抱きしめられて、その後。
そこまで思い出してしまって我に返ると、堪らず彼の腕の中から抜け出した。
これには流石のネスも目を丸くして固まってしまったようだ。私自身もどうしたらいいのか分からず混乱していた。今の私はあの時とは違い、彼に抱いてる感情の正体を認めようとしているんだから。
「……ナナシ?」
「あ……えっと、あのね。私は、わたしはぁ……?」
この何とも言えない空気を何とかしたくてどうにか言い繕うとするも、今の私にはそんな余力は残されていなかったらしい。視界が大きく揺らぐと同時にベッドに倒れこむ。
そうだ。私は元々高熱を出して寝込んでいたんじゃないか。ネスが私を呼ぶ声が少しずつ遠ざかり、そのまま意識が遠のいていった――。
「あぁ、寝ちゃった。折角全てを話そうって決意したんだけどな」
残されたネスはナナシに掛け布団をかけ、濡れたタオルを額に被せてやると困ったように微笑む。
しかしその瞳は愛しそうに細められていたということを、ナナシは知らない。
次からネスによる解説パート。長いです。
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