⑦
「はい、お待たせ」
台所から戻ってきたネスの手にはトレーに乗せられた卵粥があった。ベッドの上にいるこの場所からでも美味しそうな匂いを漂わせていて、まともな食事を摂れていなかった私の胃を刺激する。
「……美味しい」
「そうか、口に合って良かった。おかわりもあるからね」
黄身と卵白の柔らかな風味、お粥の優しい甘さが身体を満たしていく。胃が弱っていた私にとって最高の夕御飯だ。顔を綻ばせながら黙々と食べている私の側で、ネスは椅子に腰掛けると嬉しそうに目を細めていた。
「ネスってこういうの作れたんだね。何か意外」
「学生の頃"卒業して家を出るなら自炊はできるようにしなきゃね♪"って母さんに言われて、料理とか教えてもらってたんだ。だから簡単なものなら作れるよ」
詳しく話をする前にまずは体調を整えてほしいというネスの願いにより、私は大人しく養生している。今彼は私の住んでいるアパートの近所にある"スリーク・サンセットホテル"に連泊し、こうして毎日私のところに通っては看病をしてくれている。
仕事の方はいいのかと聞くと、ようやくこの件にひと段落が着いた所だからと返された。今まで別件の依頼もこなしながら像の処分の為に奔走してきた分、いい加減少しは休ませて欲しいと所長に文句を言ってみた所、了承してもらったんだとか。
これもネスが探偵として数年間積み重ねてきた実績と信頼によって得られた時間であるらしい。この半年間殆ど休暇を取れなかったと愚痴をこぼしている彼を見て、相当大変な仕事を任されていたということは安易に想像できる。
だからこそその時間を私の看病に費やしてもらっているという状況に申し訳なくなってくるのである。
「ねえ、今はネスにとって貴重な休暇なんだよね? 私のことは大丈夫だし、折角なんだから羽を伸ばしてきなよ」
「いいの。僕が君の所にいたいと思ってるからここにいるんだ。それに二回も目の前で気絶されて大丈夫だって言われても説得力無いでしょ」
ネスの放つ正論に返す言葉もなかった。彼の心配している通り私の風邪は軽いものではない。たった二日で治るはずもなく、結局職場に電話を入れて一週間程休む事になってしまった。
そういう訳で私はこうして彼の好意に甘えることになったのである。ただでさえ人手不足だというのに申し訳ないとは思いつつも、こうしてネスと一緒に過ごす時間ができて嬉しいというのも事実だった。
それでも早く復帰できるように努めないと。お粥を食べ終えて器をトレーに戻すと、不意にネスの手が私の額に触れてきた。
少しひんやりとした感触が火照った顔には気持ちよくて、浸るように目を閉じていると少しずつ体が軽くなっていく感覚を覚える。
「ほら、まだ熱もあるし。今ヒーリング使ってみたんだけど、気分はどう?」
「えっと、ヒーリングって……?」
「僕の使える超能力の中には身体を癒すものもあるんだ。今使ったのは免疫力が落ちて弱った体を活性化させる力」
私の知る超能力とは物体に触れずに浮かばせたり、テレパシーで思考を読み取ったり透視したりといった世間でも有名なもの。このように人体に影響を与える力まで存在していることに驚きを隠せない。
思っていたより奥が深いものなんだなと感心していると、ゆっくりとベッドに倒されて掛け布団をかけられる。
「でも一番は自分の持つ本来の治癒力に任せるのが一番良いんだ。僕がしてるのはその補助ってところ。力ですぐに回復させると体がついていけずに後から大きな負担がかかることもあるからね」
一度言葉を区切るとネスは小さく息を吐いた。私は改めて自分の身を案じてくれている彼に感謝すると共に、少しでも安心させたくて強気に頷いてみせる。これは私の意地みたいなものでもある。
「ありがとう。すぐに元気になってみせる。そしたらこの借りは必ず返すから」
「……それなら、ナナシの作るハンバーグが食べたい」
はにかみながらこちらを見つめてくるネス。ふと私の脳裏に浮かんだのは、切なげな表情でタダ飯の約束を取り付けてきた当時の彼の声だった。
「分かってる。半年前からの約束だもん。一日たりとも忘れてないんだから」
「ナナシ、覚えててくれてたんだ……」
「当然でしょ。あんな風にお願いされたら、さ」
私がそう言うとネスは頭を掻きつつ視線を逸らし、「楽しみにしてる」と小さく呟いた。その頬にはほんのりと熱の色が浮かんでいる。もしかして彼なりに照れていたりするんだろうか。
普段は何事にも余裕そうに構えているけど、以前からこういう仕草を見せることはあった。
久しぶりに見た光景に口元を布団で隠しつつ微笑むと、彼は咳払いをして立ち上がる。そして壁に掛けてあった上着を手に取ると、羽織りながら私の方に向き直った。
「今日はもうホテルに戻るけど、ナナシも早く寝るんだよ。これまでの経緯、明日になったら全て話すからさ」
一転して真剣なものへと変わったネスの表情を見て、私もまた小さく頷くのだった。彼が音信不通となっていた半年間。この国中に蔓延していた"異変"。この前私を襲った強盗のこと。
――これらは全てあの不気味な"黄金の像"がもたらした一本の糸として繋がっている。いつの間にか巻き込まれていた身として、これらに関する顛末を知りたかった。
***
翌日の朝八時。朝日が昇りきった時間帯。私はベッドから起き上がり軽食を作ることができるまでに回復した。昨日ネスがかけてくれた"ヒーリング"とやらが効いている証拠かも知れない。
しかし三月といえば冬から春へと変わりゆく季節の節目であり、まだ朝は冷え込む日々が続いている。今日も油断せずしっかり体を癒していかないと。
それに今日はネスが今までのことについて語ると言っていた。一体どのような話が展開されるのか、不安を抱えながらも着替えを済ませてネスの到着を待つ。
そわそわと落ち着かずにテレビを見ながら待っていると家のチャイムが鳴り響き、焦る気持ちを抑えつつ出迎えに行った。
「やあ、おはようナナシ。待たせたかな」
「おはよ。大丈夫だよ。ほら、上がって」
中に招き入れてリビングに通すと不意にネスの右手が私の頬に触れてきて、思わず固まってしまう。対する彼は少し表情を緩めると私の顔をじっと見つめた。
彼の手は冷たくもなく温かくもなく、ただ私の体温と同化していくような不思議な感覚を覚えさせられる。
「うん、顔色も良くなってきたね。ここまできたら直に治るよ」
「い、いきなりはやめてよ。びっくりしたじゃん!」
相変わらずこういうことをしてくるから心臓に悪い。つい声を荒げる私に、ネスは笑いながら謝るとソファに腰を下ろした。それに合わせて私はキッチンに向かい、コーヒーを二人分用意すると彼のもとへ持っていった。
ネスは砂糖を、私はミルクを入れながらそれぞれマグカップに口をつける。こういうのも、本当に久しぶりだ。最後に一緒にコーヒーを飲んだのは去年の夏頃だったか。
喫茶店でひとり物思いに耽っていたら、突然私の前に現れて。あの時のネスの姿を思い出す度に勝手に熱が上がってくる気がして、思考を閉ざした。すると視界の外でカチッ、とカップを置く音がした。
「……早速本題に入ろうかな。長い話になるけど、大丈夫?」
「うん。私も気になってることが沢山あるし、早く聞きたかったんだ」
ネスはまず例の強盗について語り始めた。確か警察に引き渡す前に、ネスの勤める探偵事務所に連れて行ったと聞かされたのは覚えている。
「順を追って説明していくよ。まず、あの強盗はナナシが寝ている間に事務所に連れて行ったことは話したよね」
「うん。何で警察に通報しなかったのか気になってたんだ」
「あの男は相当長いこと間近で像の影響を受け続けていたようだから、警察に引き渡す前に事務所にいる能力者達で記憶処理を施さないといけないんだ。あそこまで人格が歪んでしまうと象から引き離しただけじゃ汚染された精神は元には戻らないから――それだけあの像の持つ力は強力なんだよ」
彼が言うには探偵事務所にいる超能力者の中に人の記憶を読み取る力を持つ人物がいて、いつから像による影響を受けていたのか、余罪がないかなどいった情報を読み取っていくのだそう。
その後経過を観察した後に、問題がなければ警察に引き渡されるらしい。そこまで説明されたものの、私の中にはまだ引っかかることがある。
「その、記憶処理っていうのをしないといけないのは分かったけど……警察はこういうのって了承してくれてるの?」
この質問には答えにくいようで、彼は難しそうに眉間に皺を寄せて渋い顔をしつつも口を開く。
「ああ……うん。そこはちゃんと裏で許可されてるから心配ないとだけ。悪いけどこれについては詳しいことは話せないんだ」
確かにそこまでの話となると、そう簡単に言えることでもないか。まだ気になるところではあるけど、追求しても彼を困らせてしまうだけだ。私はとりあえず納得して相槌を打った後、話の続きを促した。
「この前も言ったけど、あの像はこの国中にひっそりと配置されていた。ということはそれだけ像による影響を受けてしまった人達がいるということになる。だから僕達はこの半年間、国中を巡って像の回収や処分をしつつそういった人達を一時的に保護して記憶処理をしてきたんだ。最後は探偵事務所のことも記憶から消した上で、元の生活に戻ってもらってる」
ネス曰く、その人達の中には私の職場の同僚も含まれているということで、ここ一ヶ月の間に複数の作業員が一斉に休暇を取っていた謎が解けた。私が何も知らずに日常を過ごしている間に、あの不気味な像の影響がここまで及んでいたという事実に戦慄する。
かくいう私自身も、数ヶ月の間像によって精神を蝕まれつつあったのである。もしネスに助けられずに像の言葉に耳を傾けながら過ごしていたら――今頃私はどうなっていたんだろう。
不安に駆られる中であの奇妙な声に全てを委ね、あの男のように犯罪に手を染めていたんだろうか。友人や身近な人物にも危害を加えていたかもしれない。
今後だって、もしかしたら何かの拍子に人格が変わってしまうかもしれない。そう思うと恐ろしくて堪らなかった。
「あの、私も事務所に連れて行くんでしょ? 何回か像の声聞いちゃってるし……」
「君は直に長い間像を見たり触れたりしてきた訳じゃないんだよね? そこまで影響は受けてないと思うけど、声はどのくらいの頻度で聞こえてきたの?」
思い返せば、あの奇妙な声はいつも私の心が弱りきっていた時に聞こえていた気がする。その言葉はどれも私の苦しみを癒そうとする一方で、大切なものまでも捨てさせようと促していた。きっと、こういう声を聞けば聞くほど本来あるべき心を削がれていくんだろう。
「えっと、確か二ヶ月に一回ぐらいだったかな……精神的に疲れてる時とかに聞こえてきてさ」
「それくらいなら記憶処理を施す必要は無いよ。一応仲間にも君の経過を伝えてたんだけど、問題は無いだろうって」
ネスが笑顔で告げるもののまだ不安が残る。彼はそんな私を見て安心させるようにそっと肩に手を置いてきた。その表情は今までに見たこともないような、慈愛を感じさせるようなものだった。
「もしまた異変が起きたら、その時はすぐにナナシの元に駆けつける。だから――もう大丈夫だよ」
「ネス……ありがとう」
ネスの声は、あの像に囁かれた時の無機質なものとは真逆の安らぎを与えてくれた。私は胸を撫で下ろすと同時に、ネスがこうして助けてくれることに改めて感謝する。
もし彼との出会いが無かったら、私は今の自分を失くしていただろうから。それともそれにすら気付かず、何も知ることのないまま偽りの"平凡"な人生を歩んでいたかもしれない。
ひったくり犯から助けてくれたことから始まり、それからも色々と支えてくれた。私を信頼してくれただけでなく、自分の秘密まで明かしてくれた。
私の人生の中に"ときめき"を与えてくれた。そして今回に至っては命まで救われた。振り返ってみればネスに助けられてばかりだ。
今までの私はただ年上というだけで対等に振舞ってきたけれど、実際は彼の達観した部分に甘えてばかりだった気がする。彼はそんな私にも、いつでも暖かなものを向けてくれていた。
"――ねえ、そろそろ本気でネスに伝えるべきなんじゃないの?"
像の声でもない、誰のものでもない。私は確かに自分自身の声を聞いた。近い未来、私は堂々と伝えられると思う。君のことが好きだと、今度は私が精一杯支えていきたいと。
しかし今の私にはまだ知るべきことがあるということを、彼の真剣な表情が物語っていた。
「後は……そもそも何故こんなことが起きてしまったのか、これから話すよ」
「うん、お願い」
これからネスが語る内容がどんなものであれ、それを受け止めなければならない。この日、今回の事件の発端を知ることになった私は、人間という生物が抱える闇の深さを垣間見ることとなる。
今度こそ核心へ。コーヒーのくだりとかは番外編の話に入ってます。
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