⑧ 約束

Morning glow



 今、私とネスはテーブルを挟んで静かに向き合っていた。訪れた静寂の中、先程から落ち着けずに何度も足を組み直す。それもそのはず――これから目の前の彼によって今回の事件の真相が語られるのだから。
 ネスはカップに残っている冷め切ったコーヒーを飲み干すと、小さく息を吐く。やがて顔を上げると神妙な面持ちで私を見つめ、口を開く。

「今から約十三年前のこと、あるひとりの人物がフォーサイドで"マニマニの悪魔"という黄金像を手に入れた。それは強力な幻影を生み出すことのできる機械で、所有者の人格に影響を及ぼすだけじゃなく、時には"力"――例えば驚異的な身体能力や人々を惹きつけるカリスマ性といったものを与えたりするんだ。その人は黄金像から発せられる声を"お告げ"として受け取り、目的の為にはあらゆる手段を使うような人格へと変貌していった。そして、あっという間にフォーサイドのほぼ全てを掌握できる程の権力を手にしたんだ」

 私はネスの口から次々に語られる話をなんとか頭の中で整理していた。黄金像、声、変貌。そのどれもが、私達を惑わしてきたあの小さな像のもたらしたものと重なる。
 しかしひとつだけ違うのは、急激な変化を裏付ける絶大な"力"をも与えてしまうということ。まさかそんなものが十三年も前からこの国にあったとは、当時の私には微塵も想像できないことだった。そもそも、一体誰が何のために作り上げた物なのか見当もつかない。
 普通に聞いている分には信じ難い内容だけど、この半年間で私や周囲の人が受けてきた影響を思い返せば受け入れることは難しくない。
 そこでふと、私の記憶の中から一人の人物の顔が浮かび上がる。確かその頃、テレビや新聞で連日のように取り上げられていた男性がいた。
 その人はフォーサイドにおける重鎮ともいえる程の権力を持ち、イーグルランドの政界に彗星の如く現れて世間の注目を一身に集めていた。
 しかし彼は高い支持率を維持していたにも関わらず、何故かある日を境に表舞台から姿を消したのである。確か、名前は――

「ネス、その人ってもしかしてモノモッチ・モノトリーさん……だったり? 当時フォーサイドの次期市長の最有力候補だとか色々言われてたのに、突然テレビにも出てこなくなって……」
「……悪いけどそこは伏せさせて。仮に"Aさん"とするけど、そのある人は"お告げ"に従うままに活動を続け、時には裏で邪魔になる存在を容赦無く消してきた。でもそんなある日、彼はとある出来事から"マニマニの悪魔"を失ったことで途端に失脚することになった。彼の傘下にあった事業も次々に解体されて、何人もの人が路頭に迷うことになったんだ。その中のある一人の男こそが、今回の出来事の発端となった存在なんだ」

 ネスは一旦言葉を区切り、大きなため息をつく。その瞳はどこか遠くを見つめていて、目に映る景色ではなくて記憶の中の光景を辿っているかのように思えた。
 彼がこれ程まで何かに思いを巡らす姿を見ていると、余程のことが引き起こされたんだろうと察する。私が何も言えずに見つめていると、少し間をおいて再び口を開いた。

「男はAさんの側近ともいえる程の重役で、"マニマニの悪魔"のことを把握していた数少ない人物でもあった。実は彼もこっそり黄金像の声を聞いて力を分け与えられていたんだ。そんな彼もAさんが失墜してからというもの、各政治家達から要注意人物として目を付けられてたこともあって、今まで隠してきた黒い噂も次々に暴露され何もかもを失った。そして男はいつしか世間をひどく憎むようになったんだ」
「何それ……そんなの、八つ当たりみたいなものじゃん」
「そう、かもね。やがて男は自分と同じような境遇の人間を集めて一つの組織を作り上げ、復讐にその人生を捧げていたんだ。そして彼は自分の経験や知識を振り絞り、ある計画を思いついた」

 話し続けている今も苦虫を噛み潰したような顔をしているネス。これまでの話を聞いてきた私には、次の展開がなんとなく想像できていた。
 "マニマニの悪魔"に魅入られた人物が、世間に復讐する為に起こす行動といえば恐らく――

「まさか……もう一度"マニマニの悪魔"を再現しようとした、とか?」
「その通りだよ。でも組織の持つ技術では完全なレプリカを作り出すことはできなかった。だけど彼らは長年試行錯誤を重ねた末に別の方法を思いついた。小型化して大量生産することで広範囲に分散させ、一度により多くの人々を陥れる方向にシフトしたんだ。そして去年の夏頃、遂に組織はあの小さな黄金像を完成させ……このイーグルランド中にひっそりとばら撒いていたんだ」

 ここまでのネスの話でようやく確信が持てた。私が見たあの黄金像は"マニマニの悪魔"という機械を元にして作られた物で、本物には優らずとも周囲の人間や動物を狂わせるには充分な力を持つということ。
 そんな悍ましいものを世間への復讐の為に長年かけて作り上げたという、その執念や怨恨の深さに怖気が走る。人間は時に他人や物事に激しい憎しみを抱くことがあるけど、それがこんな形となって現れるなんて。
 改めて人間という生物が抱えうる闇を感じた私の中に、新たな疑問が生じていた。

「さっきから思ってたけど、ネスってばその人達の過去についてかなり詳しいね。それも調査で得た情報?」
「うん。去年からずっと事務所総出で組織を追い続けてたし、既に全員捕らえてあるからね。後は能力を使って記憶を読み取れば色々探り出すのは難しくない。読み取った記憶を元に像の製造ラインも突き止めて、今は完全に機能を停止させてあるんだ。これで事実上組織は壊滅したってこと」

 あまりにもあっさりと放たれた経緯に、私は呆気にとられてしまう。像の回収や影響を受けてしまった人々を助ける他にそこまでしていたとは。探偵事務所の仕事の早さに驚かされ、二の句を継げない私にネスは少しばかり得意げに笑みを浮かべる。

「像が仕掛けられた場所も次々に判明して、残すところ後一つというところまで来てる。全て処分したら組織の関係者も順々に記憶処理を施して警察に引き渡すことになってるんだ。像の製造以外にも幾つも犯罪行為を重ねているからね。ただ……」

 ネスは一旦言葉を止めると、今度は複雑そうに眉を寄せていた。その姿は悲壮感すら漂わせていて、先の展開は決して良い方に向くものではないんだろうと思わされる。

「組織のトップだった男は"マニマニの悪魔"を再現しようと像の仕組みを研究をしていた間、迂闊にも試作品の放つ"声"に意識を奪われ依存するようになっていたんだ。そして数年間像の力に曝され続けてきた訳だから……もう記憶処理だけじゃ元の人格に戻していくのは不可能なんだ」
「それじゃ……もう一生更生できないってこと?」
「そう、なるかもしれない。他のメンバーも捕らえた時には既に世間への憎しみよりも、"声"に促されるままにひたすら像を作り増やすことだけしか考えていなかったんだ。中には自我が薄れていって、今では自分が何者なのかすら分からなくなってる人もいる。刑期を終えたとしても……自我が崩壊したまま施設で生きていくことになるだろうって所長は言ってた」

 元々自分達の目的の為に像を作っていたはずが、いつの間にかその像の声によって自我を奪われた末に"作らされて"いたともいえる訳だ。
 しかしどんな事情があったにせよ悪事に手を出した以上は相応の報いを受けるべきだとは思う。それでも、罪を償った先にあるものを掴むことなく生涯を終えるというのはなんとも残酷な結末だ。
 これも罪の無い人々の心を操り傷つけようという、侵してはいけない領域に踏み込んでしまったことへの代償なんだろうか。
 悔やみきれないといった様子のネスを見つめている内に、私の中には遣る瀬無さというものが広がっていく。時には犯人を追い詰めていく探偵という立場であれ、罪を背負った者には悔い改めて人生を歩み直せるよう願っていると、以前ネスが語っていたのを覚えているから。

「それに、像の回収も一筋縄ではいかなかった。場所が分かっても一部は裏社会の人間達の手に渡ってたりで、そういった人達と接触する機会も増えちゃってね。昔の知り合いから協力を得てなんとかした所もあるけど、あれは中々スリルあったな」

 そう言って目の前のネスは笑っているけど、きっと何度もその身を危険に曝してきたはずだ。彼らが混乱を食い止めるためにこの国中を奔走してきたその裏で、私達一般人は何も知らずに偽りの"平穏"を享受していたんだ。
 そう思ったら胸の奥が締め付けられるように苦しくなって、自然と視線が落ちてしまう。それに、私の中にはひとつの懸念があった。

「あのさ……ここまで聞いといて今更だけど、私にここまで細かに話して本当に大丈夫? その、今回の組織のこととか」

 自ら望んでネスに聞いたのに、いざ真相を知ってしまうとその規模の大きさに萎縮してしまう自分がいた。どんな内容であれ受け止めようと覚悟を決めたのに――
 その上、彼の口からは次々と極秘ともいえる情報が出てくる訳で。そんな私の問いかけに対し、ネスは柔和な笑みを浮かべると思いもよらぬことを言い出した。

「いいんだ。僕は君のことを心から信頼してるから全てを話そうって決めたんだよ」
「でも、仕事の内容は詳しく言えないって普段から言ってたじゃん……もしこのことが事務所の人達に知れたらネスは――

 次に続く言葉はネスの人差し指によって止められた。彼は笑顔を崩すことなく続ける。

「僕には分かるんだ。君は口外しない。絶対にね」
「何で、そんなこと言えんの……」

 私は思わず聞き返していた。根拠の見えない自信を向けられていることに戸惑いを覚える。ネスの瞳には確信めいた力強さが宿っていて、どうしてそこまで断言できるのか不思議でならなかった。
 そんな疑問に対して、ネスは微笑みながら答える。まるで私を安心させるかのように優しく。穏やかに。

「ナナシは僕と出会ってからこれまで一度も、僕が探偵であり超能力者であることを誰にも言わずにいてくれてる。それが何よりの証拠」
「そりゃ言わなかったけど……何で私が今まで誰にも言ってないって分かるの?」
「勘……っていうのは半分冗談だけど。例えば、僕と再会した後に見せてきた君の真っ直ぐな態度。後ろめたさとか、本来そういったものを抱えている人間は目つきや仕草を見ていれば隠したってすぐに分かるから」

 そう締めくくるとネスの瞳はやんわりと細められる。確かに私はこの一年と半年の間、ネスの詳細を隠しながら家族や友人に接してきた。初めて探偵業をしていると明かされた時は口止めされたし、私はそれを守り続けてきただけ。
 だから彼について必要以上に詮索されそうになると何とか躱してきたのである。その代わり友人からは"ミステリアスな年下の彼氏"だと茶化されるし、母からも"いつか家に連れてきなさいね"と冗談交じりに言われるようになってしまったけど。
 でもこれがネスにとって信用に値するかの一番の判断材料となっていたらしい。僅かな部分だけで私が秘密を守っていると見抜いてきた観察眼には驚いたけど、それ以上に深く信頼してくれていたということが嬉しくて堪らなかった。するとネスは「実はね、」と付け足す。

「もしナナシが探偵事務所やそれに関わる話を外部に漏らした時は、速やかに君の記憶からそれらに関連する情報を全て消すことになってるんだよ。勿論……僕との記憶も。それを条件に今まで君と関わり続けることを所長から許可されてたんだ。本来あの事務所は一般の人と繋がりを持つことに関して厳しいから」
「えっ! それじゃ――

 私が口を滑らした瞬間にネスとの思い出を失うということ。彼と出会って得ることのできた眩い"ときめき"も、一人の人間に焦がれる"切なさ"も、全てが最初から無かったことになる。そうしたら、後の私に一体何が残るというのか。
 それを考えるだけで唇が小さく震えてきて、全身から力が抜けていくような気がした。そんなことは絶対にあってはならない。今の私を形作る大事な欠片を、失うわけにはいかない。

「そ、そんな大事なこと、もっと早く言ってほしかった! 私嫌だよ、ネスとの記憶が無くなるとか!」
「君を本気で信じてみたくなったからこそ、敢えて黙ってきたんだ。きっとこの人は大丈夫だっていう直感もあったから。今まで試すような真似をして……本当に悪かったと思ってる。でも、この一年と半年で僕にとって全幅の信頼を置ける大切な存在だって、改めて確信できたんだよ」

 ネスの言葉が胸の奥まで染み込んでいくのを感じながら、私は改めて彼の顔を見つめた。そこには曇りひとつない柔らかな笑みが浮かんでいる。会えない間ずっと、私が求めてやまなかった笑顔。
 今まで試されていたということが事実であっても、これからもずっとこの気持ちは変わらない。――私はネスのことが愛おしい。

「ナナシ。僕は君と繋がり続けていたい。だからこれからも僕との約束、ずっと守っていてほしい」
「当たり前でしょ。絶対、誰にも言わないもん……!」

 思いっきり即答してやると、私の肩にそっとネスの手が置かれる。その手は大きくて温かくて、いつも遠慮なく触れてきては私の体に熱を与えてきた。
 彼が嬉しそうに顔を綻ばせるのが見えたと思ったら、両腕で引き寄せられて包み込まれていた。

「ありがとうナナシ。この半年間、毎日君の姿が頭に浮かんでた。元気にしてるかな、とかたまには僕のこと思い出してほしい、とか」

 ネスは私を抱きしめながら耳元で続ける。これまで何度か仕事でスリークにも立ち寄り、私の自宅付近まで来る機会はあったものの我慢してきたという。
 すぐにも顔を合わせようと思えば可能であった距離。それでも一度も姿を現さなかったのは、彼の中にそれだけの深い理由があったからなんだろう。

「もし会いに行ってたら、僕は今度こそナナシに甘えちゃうかもしれないから。そしたら格好つかないしね」
「どういうこと……?」
「僕はこういう仕事をやってるから……ほんの少しだけ疲れることもある。そんな僕にとってナナシと過ごす時間は"癒し"なんだ」

 抱き締めてくるネスの腕の力は、より一層強くなった。彼の表情を見ることはできないけれど、響いてくる声が今の心を映しているように感じられた。普段から弱音を吐くことはなかったネスが、今はこうして私に寄りかかっている。
 今までネスに救われてばかりだと思っていたのに、実は彼も私の存在を求めてくれていたんだ。半年前のあの日、私に帰るように促された時の彼がとても寂しげだった理由がようやく分かった気がした。

「ナナシといるとさ、平穏な日々に戻れたような気がして心が安らぐんだ。それが、いつの間にか愛おしくなってた」

 ネスは腕を解き、ゆっくり私と向き合う。緩く目尻を下げてこちらを見下ろしているのを見て、私は無意識のうちに自分の胸に手を添えていた。――私はネスが好きで、ネスも私を想ってくれてる。
 それが今、やっと実感として湧いてきた気がする。だけど、ネスの瞳は一瞬揺らいだように見えた。何かを言い淀むかのように。私は何事かと目を丸くする。

「……それにしてもナナシ、半年前より少し痩せたね」
「えっ、そう? あまり変わってないと思ってたけど」

 思ってもみなかった台詞が飛び出してきて、身構えていたこちらとしては面食らってしまう。以前から食生活に変化は無いし、日々の運動量も一定を保ってきた。
 先月行われた健康診断の結果にも特に大きな問題は無い。つまり痩せるということに直結する程のことはしていないはず。

「多分、仕事の量が増えたからだよ」
「もしかしたら僕が散々心配かけたからとか、像の影響が関係あるのかとか……色々考えちゃって」
「やだな、考え過ぎだっての。最近は人手不足で忙しかったからそのせいだって。本当に大丈夫だから!」

 ネスが気に病まないようにと笑顔を作ってみせると、彼はようやくほっとしたような顔を見せる。そして私の左頬に手を添えてくると、ゆるゆると撫ぜられた。
 それがくすぐったくて後ろに下がるように身を捩ると今度は後頭部に回され、距離を固定されてしまった。

「あの、ネス……!?」
「うん?」
「いや、"うん?"じゃなくてさ!」

 私が慌てふためく様を見て口角を上げるネスの顔は、以前見せていたそれとは少しだけ印象が変わっていた。今は"青年"と呼ぶにはあまりにも大人びていて、妙に艶めかしさを醸し出している。待って、いつの間にそんな顔ができるようになったの。
 初めて見る表情に戸惑いながらも、同時に心臓が高鳴っていくのを感じていた。彼は間違いなくこの半年間で更なる修羅場を乗り越えて、より魅力的な男性になっていたんだ。そんなネスに見蕩れていると、今度こそ彼の顔が少しずつ近付いてくる。
 この後どうなるかなんて、答えはひとつしかない。もう今更取り乱したりするのは止めにしよう。私が自分の気持ちに嘘をつけない性分だというのはここ数ヶ月で改めてよく分かったから。後は受け入れるだけだ。
 ――その距離、僅か数センチとなった時だった。突然彼の羽織っていた上着のポケットから振動音が聞こえて、私は固まってしまう。

「……あーあ、良い所で」

 ネスは小さく溜息をつくと、私から顔を離して携帯を取り出した。画面を確認すると立ち上がり、ベランダへと出ていく。その瞬間、私は気を張っていた肩を落としてしまう。折角壁を乗り越えて覚悟を決めたというのに、なんとも間の悪い。
 暫くするとネスが戻ってきたものの、その表情は引き締まったものとなっていた。この前黄金像を処理していた時に見せていたものと同じ雰囲気を纏い、今回の件に進展があったことを予感させる。

「最後の黄金像の場所が分かったんだ。今度こそ終わらせてくるよ」
「……そっか」

 やはり事務所からの電話だったらしい。また危ない橋を渡るようなことをするんだろうか。つい顔の角度を落とすと、頭上でネスが小さく笑う気配がした。彼は私の前にしゃがむと両肩に手をかけて視線を絡ませる。

「全て終わったら、すぐにナナシの元に帰るから。約束する」
「……それってよく言う"フラグ"ってやつじゃない?」

 あまりにもお決まりの台詞だったから、場違いにも吊り上がる頬を抑えられなかった。それを見たネスの心も少しは緩んだみたいで、お互いに小さく笑い声を交わし合う。
 するとネスは立ち上がり、私もそれに続くように腰を上げた。あともう少しでも彼の姿を目に焼き付ける為に、見送ろうと決めたから。

今回で終わるどころか想定以上に長くなった。
次で今度こそ最終話です。

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