⑨ 未来

Morning glow



 二人で部屋を出てアパートの駐車場に降りると、ネスは一台の車の元へと向かう。その車は紺色をしたボディの落ち着いた印象を持たせるもので、なんとなくだけど彼に似合っている気がした。
 実は一年以上の付き合いがあるというのに、こうして彼の愛車を見るのは初めてだったりする。

「見送りはここまで、かな」
「そんな顔しないでよ。この半年、僕が無事でいるって信じてくれてたんでしょ。だったら今度も信じて待ってて」
「……わかった。絶対だよ? 今度こそハンバーグ作るっていう約束、守らせてよね」
「勿論。とびきり美味しいの作ってもらうから」

 そう言うとネスは私をそっと引き寄せ、私も想いを返すように彼の背中に腕を回した。やはり彼から与えられる熱はなんとも心地良い。やがて体を離すと同時に私はひとつの行動に出た。
 ――彼の肩に手をかけ、爪先立ちをした勢いでその左頬に自分の唇を押し付ける。たった数秒の行為。けれど私にとっては十分過ぎる時間だった。
 顔を離すとネスは目を見開き、頬を押さえながらこちらを見下ろしていた。そんな様子を目の当たりにして、悪戯が成功した子供のように笑ってしまう。彼は呆然としていたものの、暫くしてから小さく吹き出した。

「ははっ、やられた」
「……あの時の仕返し。忘れたとは言わせないからね」

 少し得意げに微笑んで見せると、ネスの頬に熱が宿っていくのが分かる。なるほど、受身になるとすぐ表に出るタイプか。
 また彼の新たな一面を見つけられて内心喜んでいた私だったけど、当分はこうして触れ合うこともできない。――あの頃感じていた切なさが、波のように押し寄せてきていた。
 でも今の私と以前の私には決定的に違う部分がある。それはネスをどれくらい信じているかだ。ネスが私のことを心から信頼してくれているというなら、私も彼と同じ、いやそれ以上に信を置こうと決めたから。もう待つことに迷いはない。
 ネスはゆっくりと私から離れると、運転席に乗り込む。やがてエンジンがかかると窓が開かれ、彼が顔を出す。

「……次に会った時には覚悟しておいて」
「臨むところだよ」

 こちらもいい加減仕掛けられっぱなしではいられない。私が強気に返すとネスは少しばかり口角を上げて見上げてくる。数秒ほど見つめ合うと彼は表情を緩め、片手を軽く挙げてみせた。

「ナナシ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」

 お互いの言葉を最後に、車は発進していく。砂利を踏みしめながら進むそれは、次第にスピードを上げていくと駐車場を抜けて曲がり角へと消えていった。ああ、行っちゃった。次に会えるのはいつになるかな。
 いつネスが戻ってきてもいいように、笑顔だけは絶やさず迎えられるようにしよう。そうしたら、今まで以上に思いの丈をぶつけてやるんだから。
 その為にはまず体調を整えないと。残された私は今、自分に出来ることを頑張るだけだ。
 部屋に戻るべく進む私の足取りは、自然と軽いものになっていた。冬の寒さを微かに残しているこの風も、時期に柔らかな暖かさを運んでくれるだろう――




 あの春の訪れから更に半年程の月日が流れ、季節は秋を迎えていた。夏の焦がすような暑さに別れを告げ、穏やかな気候へと移り変わっていく。
 私は今でも清掃会社に勤め続けている。この頃には仕事を卒なくこなせるようになり、新人の教育を任せられることも増えてきた。――そして、誕生日を迎えたことで二十代を卒業し三十路に突入した。
 先輩方からは良い人を紹介しようかなどと冗談を言われることも増えたけど、私は毎回のように軽く流しつつ『彼』の帰りを密かに待ち続けている。

「お疲れ様でした。お先に失礼します」
「ああ、また来週も頼むよ」

 今日も仕事を終えて会社を出ると、自宅へと足を向けた。最近のニュースを見ていると、以前のような物騒な事件も減ってきているように感じる。
 やはり、あの黄金像が世間に与えていた影響は私が想像していた以上に根強いものだったようだ。
 ふと思いに耽る私の頬を掠めるように、一枚の紅葉がひらりと舞い落ちてきた。気付けば夏の頃より日が短くなってきていて、五時過ぎとなると辺りは薄暗い。
 肌を撫ぜる風にも仄かな冷たさを感じていた。そういえば初めてネスと出会ったのもこんな秋の日だったな、と思い返す――


 あの日は作業の出来栄えも良好でその上に給料日でもあり、会社を出た私は上機嫌で近所のコンビニへと向かっていた。
 その道中のことだった。浮ついていた私は背後から迫る気配に気付くこともできず、突然突き飛ばされたと同時にまんまとバッグを奪われてしまったのである。
 思い返してみれば、当時の私はあまりにも注意力が散漫になっていた。だからあんな輩に狙われても不思議ではなかったんだ。すぐに起き上がれないまま、途方に暮れていた時のこと。

"――大丈夫ですか?"

 頭上から声をかけられて顔を上げると、いつの間にか一人の男性が心配そうにこちらを見下ろしていた。後に彼の名がネスであるということを知る。
 平凡な人生を歩んでいた私に突如訪れた出会い。この出来事が今後私の人生を大きく変えていくことになるなんて、この時は夢にも思わなかった。

「懐かしいなあ」

 街道を逸れて人気の無い住宅街を進みながら、ぼそりと呟く。確かこの辺りだったなと、当時の記憶に思いを馳せながら。
 そんな時だった。背後から何者かが近付いて来る気配を感じた私は咄嗟に振り向く。眼前には迫り来る男の顔があり、こちらと目が合うと途端にその表情を強ばらせた。男は慌てた様子で立ち止まると、震える手で懐からナイフを取り出す。

「お、おい女! さっさとそのバッグ寄越せ!」
「嫌です! 誰か……誰か来て!!」

 声が震えつつも出せる限りの大声で叫んでやると、やけになったのか男はナイフを振り上げて突進してきた。
 先程から誰一人通りかかることのない静かな道で、私の行動がどれだけの意味を成すだろうか。
 闇雲にナイフを振り回しながら迫ってくる姿に、以前自宅に押し入り私を襲ってきた強盗の姿が重なった。一切抵抗できずに、為すすべもなく殺されかけた記憶が鮮明に蘇る。
 あんなに悔しい思いをするのは二度と御免だ。強張る体に鞭を入れて横っ飛びに避けたものの、足が竦んでその場に跪いてしまった。体が心についてきてくれないもどかしさに唇を噛む。
 体勢を立て直そうと顔を上げると、勝ち誇ったように笑みを深める男と視線がかち合う。ああ、またしても私はこんな目に。街灯に煌く刃が私の体を切りつけようとした時だった――
 突然男の顔は笑顔を貼り付けたまま硬直し、薄く開かれた口から短い悲鳴を漏らす。そのまま膝から崩れ落ちるとその場に力なく転がった。
 よく見ると微かに痙攣している。一体何が起こったのかと、取り敢えず周囲を見渡そうとした時だった。

――やっぱり、僕の勘って当たるんだよね」

 聴き慣れた声がした方へ、ゆっくりと顔を向ける。そこにはひとりの男性が右手を構えて立っていた。当時の面影を残しつつも、より大人の深みを増していたネスの姿。
 思いもしていなかった人物の登場に、私は目を丸くするばかり。もっと感動的な再会の場面を夢見ていた私にとって、あまりにも唐突すぎるものだったからだ。
 でもこれが却って私達らしいのかもしれない。ネスは倒れた男の側に屈むと、慣れた様子で手早く拘束していった。
 そして携帯を取り出すと警察に通報し始める。一連の流れを見守っていると、ふと彼と視線が合った。以前と変わらぬ屈託のない笑みを向けられると、勝手に頬が熱くなる。

「久しぶりだね、ナナシ」
「ネス……何時スリークに来てたの?」
「三十分ぐらい前。用事が済んだらすぐ君の家に向かおうって思ってたんだ。話はこの男を警察に引き渡してからね」

 それから数分後、最寄りの交番から駆けつけてきた警官に通り魔の男を引き渡すと、ネスは私の方へと歩み寄ってくる。そっと肩に手を置かれ、私の鼓動は早鐘を打ち始めた。

「さ、君の家に行こう。積もる話もあるけど――とにかく二人きりになりたい」

 ネスは切なげに瞳を揺らしながら私の腰に腕を回すと、そのまま抱き寄せてくる。誰も通りかかりませんようにと願いながら、彼の肩にそっと頭を預けた。

「また助けられちゃった……ありがとう」
「間に合って良かったよ。後数秒遅れてたらと思うと……それにしてもナナシってさ、いつも災難に見舞われてる気がするんだけど。そろそろお祓いとかに行った方が良いんじゃない?」
「ちょっと、怖いこと言わないでよ。ただの偶然だっての!」

 会話の内容に反して、私達を包む雰囲気は穏やかなものだった。寄り添いながら歩き、やがて私の家に着くと二人でお茶を飲みながら心ゆくまで語り合った。ちなみにネス曰く、先程の男は像とは関係無いただの悪漢だったらしい。
 ネス達が探していた最後の黄金像は様々な人の手を渡り、なんと――このイーグルランドから東に位置するチョンモ国のランマという場所へと流れていたというのである。
 そこにはネスの昔からの友人が住んでいて、今回は彼と協力して像の対処をしたんだとか。
 独特な造形と黄金に輝く外見から価値のある美術品だと思われていたらしく、闇市にてかなりの高値で取引されていたという。
 幸い短期間で転々と場所を移していたこともあってか、現地への被害は最小限に食い止められていたようだ。
 懸命の探索の末、最後の像も無事に回収できたとのことで、事務所の監視下にあった例の組織の人間達も全員警察に引き渡したという。
 像の効力によって壊れた彼等が自我を取り戻せる可能性は限りなく低いものの、全くのゼロという訳ではない――とネスは瞳に小さな輝きを込めて語った。
 事務所の所長曰く、彼らの精神の根底にある『心』が僅かでも残されていれば希望はある、ということらしい。私としても、どうか自身を取り戻した上で罪を償ってほしいと思う。
 こうしてネスとその友人達、探偵事務所の活躍によって私達市民を惑わし苦しめてきた『黄金像事件』は幕を下ろしたのであった。

「国外に持って行かれたと分かった時はかなり焦ったよ。道理でいくら国内を探しても見つからない訳だってね。それから――

 ネスの口から次々と紡がれる内容は私の過ごした半年間よりも遥かに重みのあるもので、やはり彼は常人ならぬものを抱えながら生きてきたんだと思い知らされる。
 今更だけど、こんな平凡な女が彼ほどの人物と出会い関わりを持つこと自体奇跡に近いんじゃないか。

「ところで……僕がいない間、寂しくなかった?」

 ネスはどこか悪戯っぽい笑みを含ませると、私の顔を覗き込んできた。その問いに答えるついでに、私は彼の肩へもたれ掛かるようにして身を寄せる。

「当たり前でしょ。どんだけ会いたいと思ってたか分かる? 無事でいるとは信じてたけど、やっぱり寂しかった」
「ナナシ、この一年で随分素直というか……積極的になったよね。なんだか、嬉しい」

 そう言ってネスは目を細めると、私の頬にそっと片手を添える。この展開、まさか今此処で半年前のリベンジをするつもりなのか。諦めの悪い彼なら充分やりかねない。
 しかし急に迫られたところで、こちらは心の準備というものができていないというのに。やんわりと離れようとすると肩を掴まれた。どうやら悟られたみたいで、彼の表情は優越を含んだものへと変わっていく。

「前に言ったよね。『次に会った時には覚悟しておいて』って」
「あ、あれ? そんなこと言ってたっけー……?」
「全く、ムードというものがないなあ。とぼけたって無駄だよ」

 ネスの言う通り、私は一語一句鮮明に覚えていた。強気に返答してやったことも、全て。あの時は別れの寂しさに後押しされて大胆な行動に出たけど、いざ彼を前にすると羞恥心が湧き上がってしまう。
 今は大人しく引き下がるわけにはいかない。何とか彼の腕の中で身を捩ってみるものの、それは素手で堅牢な壁を叩くようなもので。終いには抱きしめられたまま床に倒され、覆い被されてしまう始末だ。

「観念した?」
「うぅ……分かったよ、降参!」

 耳元で囁かれ声を震わせながらも白旗を上げると、ネスは満足げに口角を上げた。そしてゆっくりと顔を寄せてくる。
 あの日のお預けから半年。今度こそ、その時が来たらしい。静かに目を閉じて、彼の唇が降りてくるのを待つ。
 その刹那――私とネスの体の僅かな隙間から、波打つような重低音が鳴り響く。それが腹の虫だということに気付くのに、時間はかからなかった。
 視界を埋め尽くしてる彼の顔が紅潮していくのを見て、思わず溜息がこぼれる。私達には寸止めの呪いでもかけられているんだろうか。

「……どっちがムード無いんだか」
「仕方ないんだよ。昼抜いてたし」

 相変わらず不摂生な食生活を送っているらしい。呆れながらも壁掛時計に目をやると、その短針は既に十九時を指し示していた。無理もないかと思い直し、バツが悪そうに俯くネスを押し返して上体を起こした。
 丁度冷蔵庫には昨日買っておいた挽肉やパン粉、玉葱が入っている筈。これはいつか来るべき約束を果たす為に、欠かさず行ってきたハンバーグ作りの練習に使う材料だ。
 ――これなら一年越しの彼の願いを叶えられるのではないか。さっと立ち上がりキッチンへ向かう私の背に、ネスが遠慮がちに声をかけてくる。

「ナナシ、急にどうしたの」
「……折角だし、約束果たせるんじゃないかって」

 振り返らずに告げれば、背後でネスが小さく声を漏らした。それから数秒の間を置いて、勢いよく立ち上がる気配がする。
 次に彼が歩み寄ってくる足音が聞こえたかと思うと、背中からそっと抱き締められた。まるで壊れ物を扱うかのように優しく、それでいて逃さないようにしっかりと。

「嬉しい……ずっと楽しみにしてたんだ」

 ネスにとっては思いがけないサプライズだったらしい。喜びを隠しきれないと言わんばかりに弾む声で呟くと、私の首筋に顔を寄せる。
 吐息がくすぐったくて身をよじるけれど、回された腕の力が増すばかりで一向に離してくれそうにない。

「こら、そろそろ離してよ。動けないでしょ」

 唯一動かせる右手で額の辺りを軽く叩くと、巻きついていた腕が緩んでいき拘束を解かれた。そのまま席に着くように促すと従ってくれたものの、そわそわと落ち着かない様子でこちらを見つめてくる。
 この一年で鍛え上げたハンバーグ作りの腕前。遂に披露する時が来たんだ。私は小さく息をつくと、背中に熱い眼差しを受けながらまな板の上に並べた材料に手を伸ばした。

***

「お待たせ。マズイとは言わせないからね!」

 タネの形成、焼き加減、研究を重ねた特製のソース。どれをとっても今回は会心の出来栄えだと、確かな手応えを感じていた。しかし一番重要なのはネスの口に合うかどうか。
 ハンバーグの横にサラダやバゲットを並べると、ネスの向かいに腰掛けた。自信はあるといっても、やはり緊張して肩肘張ってしまう。
 彼は目を輝かせながらフォークを手に取ると、一口大に切り分けたハンバーグを口に運んだ。沈黙に包まれる中、咀嚼を済ませた彼の喉仏が上下に動く。
 果たして心から美味しいと言ってくれるだろうか。不安と期待が入り交じった気持ちを抱きながら、私もハンバーグを口に運ぶ。

「……ナナシ。このハンバーグ、」

 彼の口から漏れた声は、かすかに震えているようだった。期待に添えなかったんだろうか。私は黙って俯くと、次に告げられる言葉を待つ。

「凄く美味しいよ。ハンバーグでこんなに感激したの、何年ぶりかな――!」

 ネスは喜々として次のひと切れを頬張り、恍惚の表情を浮かべている。安堵のあまり肩の力が抜けていくのを感じつつ、思わず口元が綻んだ。
 ここまで美味しそうに食べてくれるとは夢にも思わなくて、私は約束を果たし努力が報われた愉悦を静かに噛み締めていた。


 食事を済ませ、食器を流しに運ぶとネスも続いてきた。一緒に片付けたいと言い出してきたので、私達は並んで皿洗いを始める。蛇口から水が流れ食器が擦れる音だけが響く中、ネスが不意に口を開く。

「ねえ、ナナシ。もし……君と一緒になれば、僕は毎日あの味を食べられるんだよね」
「毎日ハンバーグじゃメタボまっしぐらじゃん。同じ分野菜も食べてくれないと」
「一緒になれば、って部分は否定しないでくれるんだ」

 この男はまた突拍子もないことを口にする。横目で見遣ると、ネスはどこか嬉しそうな笑みを湛えていた。私が慌てふためく姿を、待ちわびているかのような目つき。
 こういったやりとりも今では懐かしく感じられる。あの頃の、ちっぽけな意地を張っていた私はもういない。洗い終えた皿を布巾の上に置くと、顔を上げてネスの方に向き直った。

「ネスこそ、端から否定されると思ってそんなこと言いだしたの?」
「ううん、ナナシは受け止めてくれるって信じてたから」
「はあ、まーた私を試したってこと?」
「試すなんて人聞きの悪い。確認したかっただけ」

 いじけた振りをして見せるとネスは肩をすくめて悪戯っぽく笑い、私の手を引いて抱き寄せてきた。
 彼の腕の中にすっぽりと収まる形になり、そっと胸板に頬を押し当てると小気味いい鼓動が伝わってくるのを感じる。
 温もりが全身を包み込む感覚に浸っていると、背中に回された腕が僅かに強まった。少し苦しくて痛いくらいだけど、これは『苦痛』なんかじゃない。
 私達は互いの隙間を埋めるように、更に強く身を寄せ合う。ああ、なんて心地良いんだろう――

「私さ、自分の心に嘘つきたくない。ネスのことを好きだっていう気持ちも本物だよ。だから……もう試すとか、そういうの無し」
「分かってる。もう二度と、あんなことしない」

 いつの間にかネスの顔からは笑みというものは消えていて、黒紫色の瞳は私だけを捉えている。それは確かな熱を孕んでいて、私の心を溶かすように揺らめいていた。
 彼の唇がゆっくりと近付いてくる。静かに瞼を閉じると、遂に柔らかなものが触れ合った。一度離れては再び深く重なり合い、啄むようにして何度も繰り返される。
 吐息混じりの声が漏れると、背中に添えられていた手がするすると這い上がっていく。しなやかな指でそっと撫でられると、ぞくりとしたものが駆け巡っていく。

「んぅ、そういうの、ダメだって……っ」
「こっちは半年もお預け食らってたんだよ? これぐらい許してくれなきゃ」

 再び耳元で囁かれると身体の芯まで響いてきて、思わず力が抜けてしまう。今の私はネスの肩を掴んで、何とか立っているので精一杯だった。
 こうして完全に彼のペースに持っていかれているわけだけど、今となってはこれでいい。互いに熱と想いを与え合い、心の中でかき混ぜていく。
 そういえば、まだ伝えていない言葉があった。これだけは今のうちに言わなければならない。息継ぎの為にお互いの顔が離れると、視線を絡ませる。

「……ネス、あのさ」
「どうしたの?」

 ネスは目を優しげに細め、急かさずに言葉の続きを待ってくれている。私は彼の肩に顔を埋めて、そっと呟いた。

「今まで本当に、お疲れ様。ありがとう……私達の『平穏』を守ってくれて」

 ネス達が、この国を混乱から守るために奔走してきた事実を知っている人間の数はほんの一握り。だけど、彼等がその活躍で救ってきた人々の数は計り知れない。
 その人々の代表というには烏滸がましいかもしれないけど、今彼に直接この言葉を届けられるのは私だけだから。
 頭上からは息を呑むような音が聞こえてきて、今度は優しく頭を撫でられる。彼の手の感触に身を委ねながら、私は心の奥底から幸せを感じていた。
 今思えばネスと出会えたのも祖母と祖父が愛したこのスリークに住み続けていたからこそ。彼の腕の中、黄泉の国で寄り添う二人に思いを馳せる。
 お婆ちゃん、お爺ちゃん。これからはネスと共に、この『平穏』の中を歩んでいきます――



 ナナシとの再会から一ヶ月後、十月の深夜のこと。ネスはフォーサイドの一角にあるボルヘスの酒場にいた。ある人物の到着を待ちつつ、先に注文していたカクテルを味わう。
 やがて入口のドアがゆっくりと開かれ、古びたベルが寂れた音を鳴らす。入ってきたのは分厚い眼鏡と金髪が目を引く青年。彼の来店に気付くと、ネスの頬は緩んでいく。

「ジェフ、久しぶり。忙しいところ来てくれてありがとう」
「忙しいのはお互い様だろう? 僕も君の顔が見たいと思っていた頃だから丁度良かった」

 待っていた人物というのはネスの親友の一人、天才ジェフのことであった。しばらく見ない間に、またひとつ男としての深みを増しているように感じられる。
 挨拶がてら会話もそこそこに、ジェフは席に着くとバーテンダーに赤ワインを注文する。店内にいる客の数はまばらで、話し声もなく静かなものだ。
 年季の入ったジュークボックスから流れるムーディなBGMが、穏やかなひと時を演出している。

「ニュース見たよ。ノーベル賞受賞おめでとう。今夜は僕の奢りってことで、ゆっくり飲もうよ」
「いやだな、もう去年のことじゃないか。でも嬉しい。ありがとう、ネス」

 ジェフは照れ臭そうに微笑み、グラスを傾ける。一口飲むと表情が和らぎ、満足げに息を漏らした。ネスも最初のカクテルを飲み干し、次のものを注文していく。

「プーから聞いたよ。例の件、無事に解決できたみたいだね。声が弾んでたから、相当嬉しかったんだな」
「うん。プーの協力がなかったら、もっと被害が広がっていただろうからね。本当に頭が上がらないよ」
「僕も君もポーラも、昔から彼に頼りきっていた時期があったからね。今でも感謝しきれないぐらいだ」

 二人で遠い過去を思い出し、懐かしそうに微笑む。そして同時に酒を呷った。暫くして、ネスは話題を変える。そろそろ自分の近況報告をしてもいい頃だろうと思っていたからだ。
 まだ自分の親や妹にも打ち明けていない――大切に胸の奥にしまっていた話。まずは親友である彼に聞いて欲しかったということもあり、こうして飲みに誘ったのである。

「僕……時期が来たらナナシにプロポーズしようと思ってる」
「去年話してた例の女性のことか。いつの間にそこまで進展してたんだ?」
「いつの間にとは言うけど……本当に、長い道のりだったんだよ」

 ネスはため息混じりに苦笑しながら語ると、ジェフもつられて笑う。彼には楽しい年上の友人ができたとだけ伝えてきた。ジェフも事情を理解してるからか、ナナシについては追求してくることはしなかった。
 しかし彼は昔から何かと察しがよく、ネスとは別のベクトルで物事や状況を判断する力に長けていた。だからこそネスが抱えてきたものを見抜いた上で、話の続きを静かに待っている。

「この仕事をやってるとさ、色々と考えさせられることも多くて。ナナシは、そんな僕にいつでも『平穏』と『癒やし』を与えてくれる人なんだ」
「……君の仕事は常人に務まるものじゃないだろうしな」
「それにナナシは危なかっしい部分もあってさ。これからは側にいて守っていきたいって、いつの間にかそう思うようになってた」

 そうしてグラスの中に揺らめく酒を見つめるネスの頬は、少し紅潮していた。恐らく、酔いが回っただけではないだろう。
 親友の変化を間近で見ていたジェフはそう直感すると、ある事に気付く。――探偵の中でも極めて特殊な立場にるネスでは、恋人に寄り添い続けるのは難しいことではないのか。
 それをかなぐり捨ててでも添い遂げようというなら、道はひとつしかないのではと。

「もしかして探偵、辞めるのかい?」

 ジェフなりに気遣い、遠慮がちに聞いてみたもののネスは動揺することもなく静かに口を開く。その横顔には探偵ではなく、ひとりの男としての姿が浮かび上がっていた。

「最初はあの人への恩返しのつもりで頑張ってきたけど……今となっては探偵も性に合ってるのかなって思い始めてる。それに、この仕事をしてたからナナシに出会えたし。ただ、そろそろ独立して活動したいと思ってるんだ」
「ということは今の事務所を離れるのかい? 独立となると軌道に乗るまで大変だというのに。君にとってそれを乗り越えてでも求めたいものがあるのか?」

 ジェフは興味深そうに尋ね、グラスを傾けた。その質問にネスは考え込むように俯く。理想像は思い描けていても、そこに至るまでの具体的な説明となると難しいものだ。
 的確かつ簡潔に。昔からそういったことが不得意なネスにこの質問は少し酷だっただろうかと、ジェフは内心苦笑する。
 暫くの間険しい顔を見せていたが、ようやくまとまった答えが見つかったらしい。ネスは顔を上げるとぽつりと話し始めた。

「実は今回の件で周りに甘えてばかりだって自覚したところもあってね。所長に一人前になったと言われて浮かれてた部分もあったと思う。だから敢えて一人で活動してみるのも大切な経験になるはずだと確信してるんだ。それで、今以上に依頼人の心に寄り添えるような仕事をしたい。探偵になってからの七年で貯めた資金で、まずは自分の事務所を開こうって考えてる」
「それが今の君にとっての新しい目標というわけだね」
「うん。今は所長にこの話を持ちかけてるところ。単に独立するといっても簡単な話じゃないし、少し時間をくれって言われてるんだ。後にこの話が通って独立できたら――ナナシに、プロポーズする」
「ネスの思い、伝わるといいな。所長さんにも、ナナシさんにも」

 ジェフが期待を込めて微笑むと、ネスは嬉の色を滲ませてはにかんでみせる。それから暫くして、二人は互いの近況についてより深く語り合った。
 二十六歳という年齢に至るまでに散々味わってきた苦楽も、経験も全て包み隠さずに。やがてアルコールが回ってくると、ジェフの恋人の話題にもつれ込む。

「そういえばジェフ、君達はもうすぐなんでしょ? ここまで長かったよね」
「ああ、来月の末には式を挙げる予定になってるんだ。トニーも渋々だけど応援してくれてね。ネスにも来て欲しいところだけど、仕事の予定的にも難しいことは承知してるから」
「僕だって親友の結婚式に出られないのは寂しいよ。だから今の内にお祝いの言葉だけでも言わせて。おめでとうジェフ。彼女と二人で末永く幸せに過ごしていけるように、いつまでも祈ってるから」
「……ありがとう、ネス。君こそ、この先ナナシさんと上手くいくことを心から願ってる」

 地球の命運を懸けたあの冒険を経て、運命の出会いを果たしてから十四年。ネス達の絆は大人になった今でも決して断ち切れることはない。互いの幸せを願う二人の間には、朗らかな笑い声が絶えなかった。
 これから進む道も決して平坦なものではない。――それでも彼らは『平穏』の中その先にある未来を求めて、一歩ずつ確実に歩みを進めていくのだった。



0話も含めると10話分となりましたが、ようやく完結することができました。
実は、最初はほのぼの短編のつもりで書いていた作品でした。一話のマッサージのくだりにその名残があります。
 その頃はよく某探偵アニメの歴代主題歌を聴きまくっていて、ふと「探偵やってる大人ネス良くない?」となり、その中でも「Try again」や「I can't stop my love for you」の歌詞に影響を受けて連載を書いてみようと思いついたのが始まりです。
歴代主題歌の中で特に好きなのでつい聴き込んでいました。
 年齢操作+自分の嗜好詰め合わせなのでかなり変わり種な作品ということを承知の上での連載でしたが、拍手を送っていただけて、実際に感想をいただいた時にはその場で手が震えていました。
お陰様で最後まで書き終えることができ、今まで読んでくださった方々には本当に感謝しています。

 今後はネタが浮かんだから、連載ページの方にその後の一幕を描いたショートストーリーでも掲載できたらいいなと考えております。本当に短いものですが……。
 今までお読みいただきまして、本当にありがとうございました。今後はもう一作の連載にも着手しつつ短編の方も作品を増やしていきたいです。

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