⑩
旅を始めて三日目の、午後四時過ぎ。じりじりと焼けつくような日差しを浴びながら、僕とナナシはフォーサイドを目指すべくこの"ドコドコ砂漠"を歩き続けている。
極力PSIに頼らず進むと決めている今回の旅において、最後の目的地であるフォーサイドへ向かう為には避けては通れない道だ。勿論本当にまずいことになったらテレポートを使う気はあるけど。
遠くに見える道路ではまだ渋滞が解消されないのか、車の列が流れていく様子はない。やはりバスを降りて正解だっただろうか。
ナナシは砂漠に足を踏み入れてからも、弱音を吐くことなく僕に着いてきている。それどころか"日焼け止め、たっぷり塗っといて良かった"と言いながら微笑んで見せていた。しかしその足取りは少しずつペースを落としていて、額から吹き出る汗を何度も拭っている。
「ナナシ、これ被っておきなよ」
「それ、私が借りてたらネスが辛くなるじゃん……こっちは大丈夫だから!」
無理に笑顔を作り、差し出した帽子を中々受け取ろうとしないナナシ。彼女の性格ならこうなるだろうなとは予想していたから、今度は有無を言わさず頭に被せてやる。
「わ、ちょっとネスっ、私は大丈夫だってば、」
「なら、交代で被るってことで良いよね? 被らずに返してきても僕は受け取らないよ」
僕の強引な提案にナナシは少しの間黙り込むと、やっと頷いてくれた。気遣ってくれるのは本当に嬉しいけど、僕だって同じぐらい君のことを考えているんだ。どうかそれだけは伝わってほしい。
こうして今は帽子と売店で買い込んでおいた"ぬれタオル"で体感温度を誤魔化してはいるけど、それもいつまで保つかは分からない。渇きに耐えかねて何度もペットボトルの水を口に含むけれど、この気温で温くなった液体は僕達の心を癒すまでには及ばない。
途中で獰猛なサソリ"スケルピオン"といった砂漠ならではの生物とも遭遇したけど、彼らも僕の姿を見るなりすぐに逃げていくので今のところ無駄な戦闘をしなくて済むのは助かる。
「ネス、ちょっと休憩……! あそこに、日陰になる岩場あるよ…… 」
そうして掠れ気味の声を漏らすナナシの頬は赤く染まっており、苦しげに肩を上下させている。その上何度も柔らかな砂に足を取られているからか、お互いに体力の消耗も激しいものとなっていた。ぬれタオルの枚数も心許ないし、このタイミングで休める場所が見つかって本当に良かった。
岩場の影に腰を下ろした途端に疲労がどっと押し寄せてきて、思わず溜息が漏れてしまう。バックパックから悲しいほどに軽くなったペットボトルを取り出すと、残りの水を少しずつ喉に流し込んだ。
「私が持ってる水、次ので無くなりそう……多めに買っておいたんだけどな」
「僕も。ここから水を節約しないと……って、あれは――」
帽子で首元を扇ぎながらぼんやりと周囲を見渡していた時、数本の木が生えている光景が目に飛び込んできた。こんな砂の海に青々とした植物が育つとすればサボテンぐらいだろう。それにこの一帯の景色には見覚えがある。僕の記憶が正しければ、あの木々の根本には――。
「ナナシ、まだ動けそう?」
「え、まあ少しなら……何か見つけたの?」
「うん。とても素晴らしいものをね」
首をかしげるナナシに笑いかけると、早速彼女の手を引いて歩き出す。どうか蜃気楼ではありませんようにと願いつつ砂を踏みしめて行くと、やがて予想通りのものが見えてきた。
透き通る水源を囲むように生えている植物達は砂上に緑と黄のグラデーションを作り出し、周囲の木々もこの暑さをものともせず大きくみずみずしい葉を風に揺らして佇んでいた。今の僕達にとって、目の前の光景はまさに楽園と呼べる場所だ。
「お、オアシスだあ……! 水が、こんなに……」
「待ってナナシ。見た目は綺麗だけど飲む前に一回沸かさないと。この辺りは動物達も飲みにくるからさ」
「あ、そうだよね。私ってばつい……」
手で掬った水を口元まで近づけようとしていたナナシの顔は、すっかり緩みきってしまっている。無理もない、これだけ喉が渇いていたら今すぐにでもがぶ飲みしたくなるよ。
砂漠に湧く水自体は長い間砂の中でろ過されていて、不純物も少なく正に"磨かれた水"そのもの。だけど動物の生息地域と被る場合、水中に病原菌や寄生虫がいる可能性もあるから飲む前に煮沸消毒した方が安全だ――と、昔の旅でジェフが教えてくれたのを思い出したんだ。
「一応焚き火台とか鍋持ってきてあるんだ。使う機会があって良かった」
ナナシは自分の荷物から折り畳み式の焚き火台と小鍋を取り出し湧水を汲み始めた。その間に僕は近くの岩場の影に向かい、落ちている手頃な枝を集めて着火の準備を始めた。
焚き火台の下に薪をセットし火のついたマッチを放り込むと、程なくして小さな炎が上がり始め、パチパチと枝が燃える音が響く。
「ネスー、そっち火着いた?」
「うん。薪も燃え始めたし大丈夫そうだよ」
そしてナナシが水の入った小鍋を台の上に置けば準備はOKだ。岩壁が風避けとなってくれるお陰で、火の勢いは揺らぐことなく増していく。
時計を確認すると、短針は五時を跨ごうとしていた。夏ということもありまだ明るいけど、無理をして進んでも日没までに休める場所を確保できる保証はない。となれば、今日は此処までか。ここまでで砂漠の約半分以上は進めたと思うし丁度いいな。
「これで水は確保できそうだし、今日はここで野宿ってことで」
「賛成! 外で寝泊まりとか、ジュニアスクールの頃にやったキャンプ以来だなあ……」
楽しげに笑うナナシの顔にはまだ滝のような汗が流れていて、隠しきれない疲労の色が滲み出ていた。幸いこの岩には大きく抉れたような部分があり、この中でならゆっくり身体を休めることもできそうだ。
砂漠の夜は一気に気温が下がるし、日中との温度差で身体に負担がかかってしまう。とにかく、夜中に冷えきった砂の上で寝袋を広げずに済むのはありがたい。
しかしこの砂漠には"デザートウルフ"といった肉食動物も暮らしている。今夜の間だけでも遭遇しないことを願うだけだ。
やがて鍋の水が小さな泡を立て始め、湯気が立ち上っていく。沸騰するまでの間に僕とナナシは岩壁に背を預けると、バックパックから食料になるものを取り出していく。
「カロリーブロックと、スキップサンドしかないや。昼間の売店で買い足しておけば良かった……」
「僕はバターロールとカップ麺。このラーメン分けようか?」
「いいの? なら私のスキップサンドも分けて一緒に食べよう!」
途端に目を輝かせるナナシの顔に、ふと僕の愛犬であるチビの姿が重なって見えた。今では老犬だから大人しいけど、子犬の頃は嬉しいことがあると彼女のように瞳を期待で煌めかせていて――要は目の前のナナシが犬を彷彿とさせるってことなんだけど、それはさておき。
水も充分沸騰したところで鍋を下ろし、カップ麺にお湯を注いで三分待つ。出来上がった中身を紙の器に半分ほど移してナナシに手渡すと、二人して熱々のスープが絡んだ麺を啜っていく。
「美味しい……! まさか砂漠でカップ麺を食べる日が来るとは思わなかったなあ」
「まあね、本当ならあの渋滞さえなければとっくにフォーサイドに着いてたんだけど……」
そう返して遠くに見える道路を眺めてみたけど、相変わらず車の流れは殆ど停滞したままだった。確かバッファローの群れが横断した後は、交通誘導をしている警察が周囲の安全確認とかもするからそこでも時間がかかっているんだろうな。
ラーメンを食べ終えると、今度はナナシから分けてもらったスキップサンドを食べつつ会話に花を咲かせる。内容はバイト先の愚痴、最近ハマっている音楽といった他愛のないもの。
だけど砂漠のど真ん中で彼女と二人きりというこの非日常な状況が、言葉に表せない程に心を弾ませるんだ。そして話は未来のことにまで及んでいく。
「ネスはさ、スクール卒業したらどうするか決めてるの?」
「まあね。僕さ……警察官を目指そうと思ってて、卒業と同時に警察学校に入る予定なんだ。実は以前からストロング署長に声かけてもらっててさ」
「そうなんだ、何か意外。ネスが警察……想像できるような、できないような」
途端に難しそうな顔を見せたナナシに思わず苦笑するしかなかった。切っ掛けは"あの冒険"を終えてから三年後、十五歳の誕生日を迎えた頃。
偶然オネットでストロング署長と会った時、彼は当時の僕の活躍を懐かしげに思い返していた。そして"君も警察官になり、私達と共にオネットの治安を守ってみないか"と提案してきたのである。
突然の話に当時は戸惑うだけで中々踏み切れずにいたけど、あれは将来について何も浮かばなかった僕に訪れた転機だったんだ。勿論そこに至るのは険しい道程だということは覚悟の上。
「で、ナナシこそどうなのさ」
「私は昔から決めてるよ。でも今はまだ秘密ー」
「え、なんだよそれ。僕は正直に答えただろ」
「まあまあ、今後のお楽しみということで」
どこか楽しげに口角を上げたナナシに、僕はこれ以上追求をする気も削がれてしまう。進路が決まっているというならそれは良いことだしね。後は互いに胸を張って生きていけるような未来であれば、それが何よりだ。
「はあ、分かった。楽しみにしてるよ」
「ありがとう。絶対に叶えて、ネスをびっくりさせてみせるよ」
ナナシははにかみながら微笑むと空を見上げ、僕もそれに倣う。気付けば空は橙から濃紺色へと変わり始め、一番星が輝き出していた。あの星からしてみれば、僕らの人生なんてほんの一瞬。
このナナシと旅も、かつての"冒険"のようにいずれ遠い過去へと移り行く。だからこそ、いつまでも色褪せることのないように今この瞬間を心に刻み付けていくんだ――。
ドコドコ砂漠編、次で今度こそ終わりです。書きたい場面が凝縮されてるものでどうしても長ーく。
続き