②
あの後公園でナナシと話し合って、旅は来月の8月後半にすることで話はまとまった。ハイ・スクールはまだ夏休みの真っ最中だし、バイトは日分の連休を取ることにしてあるから、僕もナナシも今月中にそれぞれのシフトに希望休を入れてある。
少し無理があることは分かっていたけど、店長には何とかこの希望を受け入れてもらった。その代わり今月の残りと来月の前半はいつも以上に頑張ってもらうと言われたけど。
その約束通り翌月になるといつも以上に僕の出勤日が多く詰められて忙しくなったけど、ナナシとの旅のことを思うとそれも苦ではなくなっていた。
彼女も同じように楽しみにしてくれてるようで、たまに会う度に"当日は何処に連れて行ってくれるの"とか、"今から凄くどきどきしてるんだ"とかそんな話をしていた。
ちなみに家族には友達と旅行に行くとだけ伝えてある。正直にナナシと二人きりでなんて言った日には、なんてからかわれるか分かったものじゃないし。
大変なこともあったけどこうしてお互いに着々と準備を進め、遂にその日がやってきたんだ――。
早朝5時、支度を終えた僕は待ち合わせ場所のバーガーショップに向かった。今の僕は黒地のTシャツに紺のジーンズという格好で、昔から遠出をする時はこういうシンプルなスタイルが落ち着く。
そして、当時被っていた赤いベースボールキャップも。日頃から洗って大事にとってあったから、今でも充分使える思い出の帽子だ。
太陽も登りきらないこの時間帯は涼しくて、時々吹いてくる風も優しいものだった。それだけでも僕の足取りはひたすらに軽くなる。
森を抜けて、図書館の前を通り過ぎればおなじみの通りに差し掛かる。通りかかる人も少なく、ランニングをしている人とすれ違ったぐらいだ。
信号を渡ればバーガーショップは目の前。よく見ると店の前で人影がそわそわとしているのが見えた。僕にはそれが誰なのか分かっているから、つい口元が緩んでしまう。その人物はこちらに気付くと、表情をぱっと明るいものにさせた。
「あ、ネス。おはよう!」
「おはよう、ナナシ。待たせちゃったかな」
「ううん、起きてからいてもたってもいられなくて、つい30分前に来ちゃった」
この日のナナシはTシャツにデニムのショートパンツという動きやすくラフな服装に纏まっていた。その黒髪は纏めてポニーテールにしてあって、普段とは違う雰囲気にときめいてしまう。
背中には大きめのアウトドアリュックを背負い、それには五日分の着替えの他に年頃の女子には欠かせない色々なものが詰め込まれているらしい。
まるで旅行に行くかのようなノリだったから、僕の気持ちもつい緩んでしまう。これは"冒険"であって"観光旅行"じゃない。そうとは分かっていても、目の前で瞳を輝かせているナナシの姿を見ていると自然に気持ちが高ぶってくる。
そう、僕も久々の"冒険"ができることに心を躍らせていたんだ。日々の生活の中で少しずつ薄れていたものが、再び色濃くなっていくような心地良い高揚感。
「ナナシってば張り切りすぎだよ」
「しょうがないでしょ、今日までずっと楽しみにしてきたんだからさ。ネスこそどうなの?」
「実を言うと、僕も」
そう言ってお互いに声を上げて笑う。こうして僕とナナシのささやかな"冒険"が始まったんだ――。
この数日間は天気が良いということはテレビの週間予報で確認済み。だから気兼ねなくこの澄み渡る朝焼けを楽しみながら歩を進ませる。向かう場所は既に、ナナシを誘ったあの日から決めていた。かつて僕と仲間達とで巡った"ぼくのばしょ"。他の誰でもない、永遠に僕だけの場所。この特別な地に残るかつての僕等の足跡を、ナナシにはその目で見て、感じてほしいんだ。
それに僕自身、あの旅で巡ってきた場所がこの六年でどれほど変化しているのか気になっていたというのもあるし、ナナシとの旅で巡る場所としてはうってつけなんじゃないだろうか。
もう昔のように危険な生物は見かけないだろうし、もし残っていたとしても奴らは僕の姿を見ると一目散に逃げていく。彼女を守りながら進むにしても問題ないだろう。とは言っても5日間で8箇所全てを回るのはとてもじゃないけど無理な話。まずPSIを使う所を誰かに見られたらまずいし、目立ちそうなテレポートもなるべくは封印しておきたい。
だからせめて一部だけでも立ち寄れる大まかなルートを僕の方で考えておいたんだ。今でも入れるようになっていればいいんだけど。
「ねえ、まずは何処に行くの? 今まで聞いても教えてくれなかったし」
「まあまあ焦らないで。着いてからのお楽しみだよ。もう"冒険"は始まってるんだからさ」
隣でそわそわしているナナシに笑いかけると、彼女は少し緊張したのか表情を引き締めた。今日のナナシはこの短時間で様々な表情を見せてくれる。
これからどんなリアクションを見せてくれるのか、今から楽しみで仕方がない。彼女は今まで僕の話の中でしか昔の旅のことを知らない。だからこそこれから進む道を一緒に歩んで、彼女が感じ取ったものから出る感想を聞きたいんだ。
「今から行く場所はね、僕にとって最初の一歩となった場所なんだ」
「つまり、始まりの場所ってことだよね」
そう呟くとナナシは静かになり、黙々と僕の後に続いてくる。今僕達が向かっているのはオネットの北に広がる森。かつてこの森には僕と学友達だけの秘密基地があったんだけど、今では朽ち果て森の一部となりつつある。あの頃はここで好きな女の子の話が上がる度にナナシのことでからかわれたっけ。
ハイ・スクールに進学してからは忙しくなったりして顔を合わせる機会が減ってしまったけれど、彼らとは今でも友人だし時々顔を合わせては近況報告したりしている。そんなことをちらりと思い出しながら秘密基地の跡地を横切り、やがて一軒の小屋の前にたどり着く。ドアの横には錆び付いた看板が付いていて、所々文字がかすれていた。
「え、ここって……もしかして前にネスが言ってた"ジャイアントステップ"って所に通じてる小屋?」
「うん、そうだよ。前に話した"ジャイアントステップ"。これからそこに入るんだよ」
「ええっ、勝手に入って大丈夫なの? ここってまだ市の管理下にあるんでしょ」
「大丈夫だよ、新しい宿舎が建ってから此処は使われてないし。その証拠にほら、鍵すらかかってないんだ」
小屋をまじまじと見つめているナナシの横顔は期待半分、不安半分といった感じだ。確かにここは一応管理されているけど、その割には補修もされずに当時より老朽化が進んでいた。管理下にあるとされていても、結局形だけなのは昔から変わらない。錆び付いたドアノブに手をかけて回すと、軋むような音を立ててドアが開かれた。部屋の中に滞留していた砂埃が微かな風に乗って舞い上がる。
「確かに長年放置されてるっぽいけど……ネスってば昔この小屋を出た所を警察に見つかって出頭したって話してたじゃん」
「あの時はまさか警官がいるとは思わなくて驚いたな。素直に看板読みましたって答えたのに"反抗的なガキ"呼ばわりされてさ。全くひどい話だよ」
――旅に出て間もない頃、この町の悩みの種であったシャーク団のボスであるフランクを懲らしめたことで、ピカール市長は僕を認めて此処の小屋の鍵を貸してくれた。それなのに鍵について責任を追及するなと言い出したり、警察にも話を通していなかったせいで怒られて出頭する羽目になったんだ。
その上警察署に向かうと、ストロング署長からツーソンへの道の封鎖を解く条件として警官5人抜きという滅茶苦茶な提案をされた。今となっては笑える話だけど、当時の僕は必死だったんだ。そのピカール市長は長年の支持率低下が響いたのか2年前の選挙でとうとう落選し、それが切っ掛けなのか今は別の街で暮らしてるらしい。
「はは、見てよ。この壁の穴も全然補修されてないや」
「うわ……こんな小屋で寝泊まりしてた当時の芸人さんが気の毒だなあ」
「確かにね。でもこの穴が無かったら"ジャイアントステップ"には入れなかったわけだし」
僕とナナシは市の杜撰な管理体制に苦笑しながらも、穴が塞がれてないことに感謝しつつ外へ出た。
小屋が放置されているということは勿論、その周辺にも特に大きな変化がある訳ではないということ。目の前には"ぼくのばしょ"へと続く洞窟の入口が――当時と変わらないままぽっかりと大口を開けていた。
不思議なことに、あの頃から誰かが立ち入った形跡も見受けられない。まるでここだけ当時の頃の景色をそのまま切り取ったかのように変わり映えのないものだった。かつて僕に力を与えた後もこうして、誰も寄せ付けない場所として有り続けてきたんだろう。
「ここは昔から変わらないな」
「中、真っ暗だね」
目を凝らしながら恐る恐る中の様子を伺うナナシに、僕は持ってきた懐中電灯を手渡す。それを受け取る彼女の手はどこかぎこちなくて、まだ緊張が抜けていないことを表していた。
「もしかして、怖い?」
「え、いや、そんなことないよっ?」
ナナシは慌てて否定するものの、その声は明らかに上ずっていた。昔から怖がりなんだから無理しなくていいのにと思いつつも、それを口にすると反発されそうだったので敢えて何も言わないことにした。僕も初めて入った時は少し躊躇ったから気持ちは分かるけど。
「洞窟に入ったら、絶対僕から離れないように。いいね?」
「う、うん……ネスこそ、ゆっくり歩いてね」
この洞窟には大型の蟻や鼠といった攻撃的な生物が潜んでいる。慣れている僕はともかくナナシに危害が及ぶ可能性は充分にある。だから万が一に備えて念押ししておく必要があったんだ。
彼女は言われた通り僕にぴったりとくっついて、そろそろと歩いている。その様子に内心可愛いと思いながらも、懐中電灯のか細い明かりを頼りに正しい道順を思い出しながら進んでいく。
やはり僕を恐れているのか単に生息数を減らしたのか、幸い道中は危険な動物が飛び出してくることはなかった。やがて崖の前に着くと上の方を照らしてみる。ロープはまだ繋がってるみたいで、試しに強く引っ張ってみたけどぐらつくこともない。これなら二人で登っても大丈夫だろう。
「まさか、ここを登るの?」
「うん、そうだよ」
「……私、クライミングって初めてなんだよね」
僕が頷くとナナシが困り顔を浮かべる。どうやら渋りだしたようだ。しかしこのままじゃいつまで経っても先に進めない。どうにか彼女に勇気を奮ってほしくて、僕は精一杯励ましてみるしかなかった。
「大丈夫だよ、僕が付いてるから。ゆっくり登ろう」
「……分かった」
ナナシは意を決したように息を吐くと、ロープを強く握って足を崖の出っ張りにかけた。そして慣れない動きで少しずつ慎重に登り始めると、僕もそれに続くようにロープを掴んだ。この崖を登り切った先に広がる光景。それはかつての僕にとってひとつの覚悟を決めた場所でもある。
ようやく上りきり、出口の穴を抜けるとあまりの眩しさに目が眩んだ。洞窟を通っている最中に朝日が昇りきっていたらしい。目が明るさに慣れてくると、視界に入ってきたのはあの頃と変わらない巨大な足跡。この"ジャイアントステップ"こそ、僕の本当の意味での始まり――初めの一歩。僕の隣ではナナシが感嘆の声を上げていた。
「これが、"ジャイアントステップ"! 本当に大きな足跡があるんだね。オネット山のすぐ近くにこういう場所があったなんて……」
「そうだよ。此処が"ぼくのばしょ"」
「此処が、話に聞いてたネスの場所のひとつなんだ」
ナナシはまじまじと足跡を見つめると、周囲をぐるりと見渡していた。此処はナナシにとっては未知の領域。普通に生活をしていたらまず踏み入ることはないだろう。"ここは誰も寄せ付けない不思議なものを醸し出している"と、以前この場所を発見したフランクもそう話していた。
まさか自分の人生にとってこれ程重要な場所が自宅の近所にあるなんて、旅に出る前は思いもしなかったな。
「前からネスの話で聞いてたけど、実際に自分の目で見ると言葉にできない迫力があるね」
「こういった場所が世界に後7箇所あるんだよ」
「世界中に散らばる自分だけのパワースポット、かあ」
暫くの間ジャイアントステップの景観に見惚れていたナナシの瞳には、強い好奇心の色が濃く浮かんで見えた。これから待ち受ける不安と、それを覆い尽くすように溢れてくる期待感。きっと当時の僕もこういう瞳をしていたと思う。するとナナシがリュックからカメラを取り出した。
「家族からカメラ借りてきたんだ。スマホでも良かったんだけど、折角撮るならカメラの方がいいかなって。ということで早速記念に撮りたいんだけど、いいかな?」
「此処の写真を誰にも見せないって言うならいいよ。僕達だけの秘密ってことで」
僕が出した条件に対し彼女は強く頷くと、巨大な足跡や周囲の風景を次々に撮り始めた。やがて満足したのか嬉しそうにカメラをリュックにしまい込む。
「ありがとう。此処に来てからさ、この旅は最高のものになるって……そう確信したんだ」
「じゃあ、ナナシにとっても記念すべき始まりの場所ってことかな?」
「そうなるかもね」
そう言って照れくさそうに微笑むナナシに、つい僕も嬉しくなって笑顔を返していた。彼女の言う通り、きっとこの旅は最高のものになる。僕の昔ながらの鋭い直感が、そう告げていた――。
こんな感じで二人旅は進行します。
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