④
デパートで買い物を済ませた僕達は、グレートフルデッドの谷へ向かう前にツーソンの町並みを少しだけ見て回ることにした。
カオス劇場の前を通りかかった時、ナナシは"トンズラブラザーズ"の公演ポスターを見つけると足を止める。彼女も彼らのファンで、中々チケットが取れないと昔から嘆いてたな。
「今年のチケットも取り損ねちゃったんだ……毎年競争率高すぎるよ」
「まあ、大人気バンドだからね。仕方ないよ」
「そうだけどさ。いつになったら生公演観に行けるのかなあ……」
本当はナナシと一緒に劇場も見て行きたかったけど、今回は時間がないしそれはまた今度かな。僕は彼らと知り合いだし、旅していた頃に貰ったバックステージパスを今でも大事に持っている。これでまたナナシと一緒に遊びに行く予定が作れるだろう。
それはひとまず置いておいて――今僕が一番気になっていたのは"ヌスット広場"と呼ばれる青空市場だ。六年前にこの広場の元締めだったトンチキさんが亡くなった後、どう変化していったのか自分の目で確かめたかった。
前に一応ポーラから話だけは聞いていたけど、ヌスット広場は年々治安が悪くなる一方らしい。それというのも新しい元締めは常にガラの悪い男達を引き連れていて、毎月の場所代を払えない人達に暴力をふるったり家まで行っては強引な取立てをしているという。
おまけにツーソンの警察はどういう訳か、この男達に手を出せないらしく野放しになっているとのことだった。デパートの南にそのヌスット広場はあり、遠くから見る分にはあの頃とあまり変わりはないように見えた。しかし広場に足を踏み入れた瞬間、僕達を包む空気は変わった。
相変わらず店の並びは充実しているものの、店員達の顔には昔のような活気というものが感じられなかった。一見笑顔で営業しているんだけど、目だけは笑っておらず何かに怯えているようだった。僕が初めてここに来た時はどの店からも客寄せの明るい声が響いていたというのに――これがかつて活気に溢れていたヌスット広場の今だというのか。
やはりトンチキさんがいなくなった後からおかしくなっていったんだろうか。湧いてくる遣る瀬無さを堪えつつ、僕は周囲を眺めていたナナシに声をかけるとその場を離れた。
「あれ、買いたいものがあるんじゃないの?」
「いや……ただ見に来ただけ。そろそろ谷の方に向かおう」
僕の声は自分でも驚く程に沈んでいた。ナナシは振り返って広場の方を見つめていたけど、察してくれたのか同じように黙り込みそれ以上は何も言わなかった。変化するというのは必ずしも良い事ばかりではない。そんなことは子供の頃から痛いほど分かっているのに、いざ現実を見せ付けられると心が思考に追いつかなくなる。
待て、これから足場の悪い難所を歩くというのにこの空気のままではいけない。僕はひとまず気持ちを切り替えようと努めた。さっきからナナシが気遣わしげに僕を見てくるし、こんな調子では彼女を不安にさせてしまうだけだ。
やがて街の南部に差し掛かりポーラスター幼稚園の前を通った時、園児達の楽しそうな歌声が聞こえてきたものだから僕達は自然と笑顔になれた。さっきポーラが園児のバースデイパーティーをすると言ってたし、きっと今日は笑い声が絶えない一日になるんだろう。ツーソンの町を抜けると小さな洞窟が見えてきて、一旦そこで足を止めるとナナシの方に向き直る。
「この洞窟を抜けるとグレードフルデッドの谷。村までの道は結構入り組んでるから、休憩しつつ進んでいくよ」
「確か日が暮れるまでにハッピーハッピー村に着く予定になってるんだよね?」
「丁度昼時だから今から向かえばぎりぎり間に合うと思うんだ」
二人してリュックを背負い直し、小さな洞窟を抜ければそこがグレードフルデッドの谷だ。この洞窟自体は本当に短くてたった数分で抜けられるんだけど、問題はここから先なんだ。ハッピーハッピー村への道は地面の起伏が激しくて、きつい傾斜も所々にある。
更に道を一本間違えると長く入り組んだ所へ迷い込んでしまう。ルートを把握していなければ時間通りに村にたどり着くのは不可能だろうな。これでも橋が修復される前よりはかなり楽になってるんだけども。こうして僕は食料のカロリーブロックを片手にナナシと談笑しながら谷を進んでいった。
「そういえばネスってさ、旅から帰ってきた後から運動神経良くなったよね。クラスの皆も先生もえらく驚いてたもん」
「旅して体を動かす機会が増えたのが大きいかな。その前からだって一応ベースボールクラブに入ってたけど、残念ながら中々振るわなかったし。ずっとサードの補欠止まりだったの、知ってるでしょ?」
「でも次の年には地元チームのキャプテン候補にまでなってたじゃん。私今でも運動は苦手な方だし、ネスのこと少し羨ましかったんだ。今回は……なるべく足引っ張らないように頑張るから」
ナナシのことを足手纏いなんて思うわけがない。僕としてはこうして一緒に歩いてくれるだけで充分に嬉しいんだけど。起伏の激しい地面に足を取られそうになりつつも頑張って進む彼女の姿に、いつの間にか昔の自分の姿を重ねていたのもあるからかな。
谷を歩いている間も日光は容赦なく僕達に照りつけてくる。ナナシの額にも玉のような汗が浮かんでいるのに気付いた僕は足を止めさせ、一度休憩することにした。
ここからは長い上り坂になっていて、ここまでくればもうすぐこの谷を抜けられる。時計を見ると午後四時を回っていたけど、この調子なら予定通りにハッピーハッピー村に到着できる。
ナナシは岩壁に寄りかかると力なく腰を下ろした。ここまでペースを落とさずに歩いてきたから流石にきつかっただろうな。リュックから水の入ったペットボトルを取り出すと、一気に飲み干していた。
「ふう、キツい……」
「結構歩いたからね。この坂を登りきればもうすぐだから」
「そっかあ、もう少しで抜けられるんだね」
それから暫く二人で近くを流れている川をぼんやりと眺めている内に少しずつ日が陰ってきた。もう村は近いし一気に進んでしまおう。彼女はチョコレートを食べ終えると、僕に向かって微笑みかけるとゆっくり立ち上がった。
「よし! 後ちょっとって分かったら体が軽くなったかも」
「それは良かった。じゃあ出発しようか」
僕達は荷物を担ぎ直すと再び歩き出した。太陽は山の向こうに沈みかけており、谷に差し込む光は弱々しくなっていた。それでもまだ暑いことに変わりはないんだけども、日光に照らされないだけでも疲労の溜まり方は全然違う。
「うぅ、思ってたより長い坂だね……」
「この辺りは切り立った崖が多いんだ。それももうすぐ終わるから頑張ろう」
僕が励ますように笑いかけると、ナナシもなんとか返してくれる。しかし急斜面の道は疲れ切った身体を追い込むには十分で、一歩踏み出す度に軽く息が上がるようになってしまった。
僕でもこうなるんだからナナシは尚更辛いだろう。谷の出口はちょっとした洞窟になっていて、僕達がハッピーハッピー村に到着した頃には丁度夕陽が沈みきっていた。
――かつてカーペインターという人の手によって支配されていたこの村は、解放されて以降は大きな事件が起こることもなく平穏な時を刻んでいるようだった。
その人も、ギーグの配下が仕掛けたマニマニの悪魔という幻影マシーンによって狂わされた人間の一人だった。狂いだした彼はハッピーハッピー教の教祖となり、村中の人間を洗脳して何もかもを青色に染め上げ、他所者を徹底的に排除しようとしていた。
当時この村に誘拐されたポーラを救出しにきた僕と闘い、目が覚めた後は元の優しげな人格に戻った。その後は洗脳されていた村人達の目も覚めて、青一色に染められていた村も元に戻ったんだ。
ここに来るのは六年ぶりで、スーパーマーケットや小さな民宿といった施設が立ち並んでいるのを見てその発展ぶりに驚くばかりだった。それもあるのか通りかかる人も昔より多い気がする。村の中心にある教会も健在で、大幅に改装されて白塗りの壁の立派なものになっていた。
「ここがハッピーハッピー村。とはいっても、僕もここに来るのは六年ぶりだけど、えらく景色が変わったなあ……」
「もう村じゃなくてひとつの町みたいだね」
確かに今の規模を考えれば町といっても過言ではない。スーパーマーケットのある通りには小さな屋台が並んでいて、食欲を刺激する香りが漂ってきた。
それに所々から賑やかな音楽も聞こえてくる。通りかかった人に声をかけてみると、今日は月に一度の夜店が並ぶ日だという話を聞けた。納得していると突然僕のすぐ横から独特な重低音が響く。何事かと思い隣りを見るとナナシが小さく俯きながらお腹を押さえていた。
「……しょうがないじゃん! チョコレートじゃ足りなかったから」
「分かってるって。僕もそろそろ我慢できなくなってきたし……折角だから夕飯がてら何か買っていこう」
お互いに小さく肩をすくめると、幼子がはしゃぐような勢いで屋台に駆け出していった。この時の僕等は疲れていたことも忘れるぐらいテンションが上がっていたんだ。
様々な食べ物が並べられている光景に目移りしつつ、良い匂いを溢れさせるこんがりとした鶏肉の串焼きや地元の食材を挟み込んだハンバーガー、デザートにとカラフルなチョコバナナまで買ってしまった。一通り屋台を巡った僕達は、近くの民宿で部屋を取った後で夕食を摂ることにした。
串焼きは微かに香草の風味がして、齧り付く度に肉汁が溢れてきてジューシーだ。手作りハンバーガーも大手チェーン店で作られているものとはまた違った味わいがあり、デザートのチョコバナナはビターなチョコの中にバナナの優しい甘みが広がる。
ナナシもハンバーガーにかぶり付きながら幸せそうに目を細めていた。食事を堪能した後は浴場で疲れた身体を癒し、明日に備えて早めに寝ることにした。
一応部屋は別々に取ってあるから、僕としてはナナシを意識せずに寝られて安心かな。ナナシも同じ考えだったみたいで、部屋を分けると決めた時には安堵の表情を浮かべていた。流石に僕達みたいな年頃の男女が同じ部屋で寝泊りは、気まずすぎるからね――。
グレードフルデッドの谷は本編でも難所だった。
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