良い夢を

Morning glow




 ミルキーウェルを後にした僕らは、元来た道を辿るようにしてサターンバレーを目指していた。
 既に日が落ちてきていて、高い岩壁に挟まれた道には西日が差し込むことは殆どない。
 だけど今は夏の真っ只中。"グレートフルデッドの谷"の時と違って体力を奪われずに済むからありがたいことだ。
 
「うーん……暗くなる前にはサターンバレーに着けるかな?」
「流石に夜になる前には抜けたいところだね。ちょっと急ごうか」

 頷き合った僕達は自然と早足になる。この分なら二十分もかからずにサターンバレーに通じる洞窟に辿り着けるはずだ。
 戻ったらどせいさん達に頼んで宿屋に泊めてもらおうか、なんて考えていた時だった。
 すぐ横にあった茂みが激しくざわつくと同時に――僕達の頭上を、何か黒い影のようなものが掠める。
 思わず足を止めた僕達の前に現れたのは、大きな茸のような物体。黄ばみがかった笠には白い斑点がいくつもあり、見るからに毒々しい。
 それは笠の下から細っこい二本の足を見せると――もぞり、と立ち上がってみせた。最悪なことに、僕はこの姿に見覚えがある。それも途轍もなく嫌な記憶としてだ。
 願わくは二度と出会いたくないと思っていた存在。

「ネス、あれって……もしかして、」
「ああ……まさか今も存在してるなんて思いもしなかった」

 僕達の前で駆け回っているのは、かつて僕と仲間達の間で"いけないキノコ"と呼んでいた生物。
 奴のばら撒く胞子を吸い込んでしまうと頭にキノコが生えていき、やがて正気を奪われてしまう。更には強力な毒まで持ち合わせている――あの"あるくキノコ"の上位種だ。
 ギーグを倒した後、完全にこの地上から消え失せたと思っていたのに。六年経った今も、人が踏み込むことのない大自然という籠の中で密やかに生きてきたのか。
 僕はナナシを庇うように後ろへ下がらせると、右手の人差し指にPSIの光を纏わせる。相手は一体。今の僕の力ならすぐに片付けられる。
 背後ではナナシがリュックから護身用のエアガンを取り出し、引け腰ながらも敵から目を逸らさずに構えをとった。

「私だって、自分の身ぐらい守れるようになるんだ……っ」
「待ってナナシ、奴は一体だけだ。ここは僕に任せて」

 言うと同時に指先に溜めていた力をキノコ目掛けて撃ちだす。鋭い光は貫くようにして命中し、吹き飛んだキノコは地面に転がるとそれきり動かなくなった。
 これでもう大丈夫だろう。ナナシを安心させるように振り返って笑いかけると、彼女は力が抜けたように全身を弛緩させた。

「大丈夫? 先を急ごうか」
「うん、ありが――

 眉を下げて微笑んでいたナナシは、視線を僕の肩越しに移すと途端に目を大きく見開かせた。
 ナナシの視線に倣うように振り返ろうとするも、それは叶わなかった。突然ナナシが体当りしてきたかと思うと真横に突き飛ばされ、よろめいた僕はそのまま膝をつく。
 一体どうしたっていうんだ。状況を整理しようと顔を上げたその瞬間、僕の横を丸い影が駆けていく――

「きゃあぁ……っ! ごほっ、うぅふ……っ、けほっ、」
「ナナシ……っ!」

 悲鳴を聞きつけ咄嗟に立ち上がった僕の目に写りこんだのは――ナナシの頭に飛びつき胞子を撒き散らしているキノコの化物の姿だった。
 僕はすぐさま走り寄りキノコを引き剥がすと、地面へと思いっきり投げつけた。どういう訳か、このキノコの体には僕のPSIで付いたはずの傷が見受けられない。
 まさかあの時、すぐ近くに別の個体が潜んでいたというのか。そうだとするとナナシは、奴の存在に気付いた瞬間に僕を庇って――
 他にも隠れているかもしれないという思考に行き着かなかった。"迂闊だった"では済まされなくなるかもしれない。
 しかし今は悔やんでいる場合じゃないんだ。ナナシは吸い込んだ胞子を吐き出そうと、背を丸めて激しく咳き込んでいる。目尻には涙を浮かべて、苦しそうに。
 こうしている間にも彼女のつむじの辺りから、小さなキノコが顔を覗かせ始めていた。このまま症状が進行していけば――ナナシは間違いなく自我を失ってしまう。

「う、うぅん……なんか、周りが、ぐにゃぐにゃ、する……ネス、何処……?」
「ナナシ、気をしっかり持つんだ。僕は君の側にいるから!」

 悔しいことに僕の力ではこのキノコを取り除くことはできない。ヒーラーと呼ばれる人物、或いは専門の知識を持つ人の手によって引き抜いてもらうしか、確実な治療法はないんだ。
 確かサターンバレーには、医療技術に長けたどせいさんも暮らしている。彼の元にナナシを連れていけば、すぐにこの忌々しいキノコを除去してくれるはずだ。
 キノコの他にも別のモンスターが潜んでいる可能性は十分ありえる。一刻も早くここを抜け出すべく、彼女に背を向けて負ぶさるように促そうとした時だった。
 今まで弱っていたはずのナナシが、別人かのように勢いよく立ち上がる。もしかして一時的に正気を取り戻したのか。
 具合を確かめようと腕を伸ばした瞬間――ナナシは今まで握り締めていたエアガンの銃口を、僕に向けてきた。

「ナナシ……?」
「こ、来ないで、それ以上来ないでよ……! 一体なんなの……ネスは何処!?」

 叩きつけられた声は上擦っていて、彼女の全身は小刻みに震えていた。僕に狙いを定めているエアガンが、かたかたと無機質な音を立てる。
 間違いない、今のナナシはキノコによる幻覚に冒されている。目の前にいる僕の姿を"ネス"として認識できていないのが何よりの証左。

「落ち着いて、僕がネスだよ。君は今、幻覚を見ているだけなんだ」
「違う……違う! ネスの声を真似たって騙されるもんか……っ!」

 段々とナナシの感情が昂ぶるのが伝わって来る。彼女は不規則な呼吸を繰り返しながら、人差し指を引き金にかけた。怯え切った彼女の姿には、今にも発砲しそうな気迫さえ感じられる。
 幻覚に囚われた彼女を説得するのは容易ではないし、下手に刺激を与えれば本当に撃たれかねない。
 僕に残された手段はたったひとつ。ナナシを刺激しないようにゆっくり右手を前へかざすと、虚ろな瞳に念を送る。

"ごめんね、ナナシ。どうか今は眠ってて――"

 ”さいみんじゅつ”が効いてくれたらしい。ナナシの瞳が緩やかに閉じられると、その場に膝から崩れ落ちる。その身体を支えながら、僕は静かに息をついた。
 もしもあの時、胞子を浴びたのがナナシではなく僕だったら――自分が彼女に襲いかかる光景を想像してしまい、背筋を冷たいものが伝う。
 あの一瞬の間、ナナシは反射的に僕を庇うことだけを考えていたのかもしれない。だけどその行動は結果的に、彼女自身を守ることにも繋がったんだ。

「サターンバレーに戻ったら、すぐに治療してもらうからね」

 背負っていたリュックを前に掛け直し、眠るナナシを負ぶると僕は足を急がせた。背中にかかる体温は少しだけ高くて、規則的な寝息が耳元にかかると場違いにも頬に熱が集まっていくのを感じる。
 何を考えてるんだ僕は。今はそんな余裕なんてないだろ。とは言うものの――幼い頃から付き合いがあるのに、ここまで密着したことは一度もなかったな。
 つい過去を振り返っていると、ナナシの体が小さく身動ぐ。そして、柔らかなものが僕の首筋に押し付けられた。
 これは多分、唇だ。意識し始めると落ち着いてきた心拍数が急上昇して、身体中が燃えるように火照りだす。
 再び彼女の頭が動くのを感じると、小さな呻き声が聴覚を刺激する。

「ナナシ……起きた?」

 まだ幻覚を見ている可能性もある。ナナシを驚かさないように優しく話しかけてみるも、返答はない。
 代わりに伝わってきたのは肩にかかる重み。どうやら寝ぼけていたらしい。それならいいかと再び歩みを進めようとした時――

「うぅ、ん……ネス、だ……す……」

 どこか甘みを含んだ声で僕の名を呟くと、ナナシは寝息を立て始めた。今のは一体何だったんだろう。
 最後の部分はよく聞き取れなかったけど、今彼女が見ている夢には僕の存在があることは確かで。内容はどうであれ、その事実に気持ちが高揚している自分がいた。
 
「……ナナシ。その言葉、今度は起きてる時に聞かせてよ。君が僕のこと、どう思っているのかを」

 気付けば胸の内が声として漏れていた。例え反応が来ないことを分かっていても、夢の中の君に届くように――

***

 月が浮かび始める頃。サターンバレーに戻ると早速どせいさん達に事情を話した。彼等の家にナナシを運び込むと、急いで治療の準備に取り掛かる。

「ナナシはだいじょうぶ。キノコをひっこぬくだけ。すぐおわるです」

 治療の内容は単純なもので、どせいさんの言う通り治療はすぐに終わった。彼がナナシの頭から生えているキノコを軽く引っ張ると、あっさりと抜け落ちたのである。
 本当にいつ見ても、キノコを除去する瞬間は呆気なさすぎる。自力で引っ張った時はどうしても取れなかったのに。
 相変わらずどういう原理か分からないけど、彼女が助かったなら何よりだと納得するしかない。
 程なくして眠っていたナナシが目を覚ます。何度か瞬きをすると、ゆっくりと頭を傾けて僕達の方に視線を向けた。

「ナナシ……良かった。気分はどう?」
「ネス、どせいさん……? あれ……私達、足のあるキノコに襲われて……」
「大丈夫、後から出てきたキノコも僕が倒したよ。それで、ナナシが気絶してた間にサターンバレーまで戻ってきたんだ」
「そうだったんだ……私、あんなこと言ったそばからまた迷惑かけて……本当に、ごめん。どせいさんも、ありがとう」

 か細くなった声で呟くと、ナナシはそのまま黙り込んでしまった。このままでは彼女はまた自分を責めてしまう。
 もうそんなこと、させない。僕はナナシの両手を取ると、そのまま彼女の顔を覗き込んだ。潤みを湛えた黒い瞳には僕の顔だけが映っている。

「そんなことない。あの時、ナナシは僕を庇ってくれたじゃないか。あの行動があったからこそ、僕達はほぼ無傷で帰ってこられたんだよ。だから――ありがとう」
「えっ、いや、そんな……私はただ、無我夢中で――

 照れくさくなったのか、ナナシは頬を一瞬にして赤らめ狼惑している。その姿が可愛くて思わず口角が上がるも、彼女に表情を悟られないよう窓の方に視線を向けた。
 この様子だと、幻覚を見ていた時の記憶はないみたいだ。正直、僕にとってはありがたい。
 当然ナナシが僕にエアガンを向けたことも、胸の内に秘めておくことにした。彼女にはこれ以上、自身を責めて悩んでほしくないから。
 
 その後、どせいさん達の厚意で宿屋に泊まらせてもらうことになった僕達は、ナナシの身体のことも考えて早めに休むことに。このサターンバレーには温泉が沸いており、僕とナナシは別々に入浴を済ませると用意された部屋へと通された。
 明日は"冒険"を始めてから三日目となる。次の目的地はイーグルランド一の大都会"フォーサイド"。そこは"ぼくのばしょ"のひとつが隠されている街であり――この旅の終着点として定めている場所でもある。
 実はフォーサイドへの道のりにもひとつの懸念がある訳だけど、今は考えていても仕方がない。先程から強烈な眠気に襲われて、脳を使う余力も残されていないんだ。
 昔から体力に自信はある。だけど、今日一日様々なハプニングに見舞われて僕自身もかなり疲労していた。
 隣のベッドに横たわるナナシは、既に眠りの世界に落ちていた。月明かりに照らされた寝顔は、僕の中に確かな安らぎを与えてくれる。

「ナナシ……これからもずっと、僕の側にいてほしい」

 誰の耳にも届くことのない"想い"を宙に溶かすと、僕も静かに瞼を閉じた――

ネスの方がキノコでやられてたら、間違いなくナナシさんは……。

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