⑨
三日目の朝八時過ぎ。これで旅も折り返しに入ったということになる。昨日は早めの休息をとったこともあってか、ナナシはすっかり元気を取り戻していた。こうして身支度をしている今も、彼女は小さく鼻歌を奏でながら櫛で髪を梳いている。
「その様子だと、身体の方は大丈夫そうだね」
「うん。ネスとどせいさん達のお陰だよ」
はにかむような笑みを浮かべながら後頭部で髪を纏めていくナナシ。彼女の黒髪は窓辺から差す朝日に照らされて艶めいていた。
本当に、綺麗だ――おっと、見惚れている場合じゃない。僕は軽く頭を振ると、急いで出発の準備を進めていく。その間も頬に宿る熱は中々引いてはくれなかった。
***
九時頃、いよいよ出発の準備が整った。サターンバレーの中心部では、どせいさん達が僕らを見送る為に集まってくれていた。彼等に感謝を伝える僕の後ろで、ナナシは別れを惜しむように瞳を細めている。
「みんな、色々とありがとう。お世話になりました」
頭を深々と下げるナナシに、どせいさん達はそれぞれ別れや励ましの言葉をかけていく。この出会いと経験が、彼女にとって素敵な思い出となってくれたら嬉しい。
僕としても、六年ぶりにみんなの元気な姿を見ることができて本当に良かった。これからもこの秘境の奥地でひっそりと、のんびり平和に過ごしていくことだろう。
「そろそろ行こう、ナナシ」
「うん……それじゃあみんな、元気で!」
寂しさを振り切るように大きく腕を振った僕達は、手を繋ぐと一緒に駆け出す。これはテレポートの為の助走だ。昨日久しぶりに使ったことで感覚は取り戻せたと思うし、力を溜めるにはスペースも十分ある。そのはずだったのに、ふと繋がれた手を通じてナナシを意識すると同時に昨日のことがフラッシュバックしてしまう。
集中しろと心の中で念じていても、浮かぶのは行き先であるスリークの町並みではなく昨夜の彼女の姿で。なんとかしなければと焦りつつ、頭を振った僕の前には一本の木があり次の瞬間――衝撃と爆発音に包まれ、気付けば二人して黒焦げとなっていた。
ああ、やってしまった。慌ててナナシの様子を伺うと、彼女は事態を把握できていないのか呆然としている。やがて"けほっ"という声と共に口から煙を吐くと、ようやくこちらに真っ黒な顔を向けてきた。
「大丈夫……!? ごめん、テレポート失敗した。ちょっと意識が逸れて……」
正直に告白すると、ナナシは何も返さず僕の顔を見つめる。次の瞬間、彼女は腹を抱えて小刻みに震えだす。一体何事か聞き出そうとするも、突如響いた笑い声によって喉の奥に引きかえしてしまった。
「ネスの顔……っ、炭かぶったみたいに……真っ黒で……!」
そう言って再び背を丸くする彼女を見て、僕が呆気にとられる番だった。なんだか一連の流れがおそろしく間抜けに感じられ、次第に僕も釣られて頬を緩ませる。ひとしきり二人で笑った後、目尻に涙を浮かべて息を切らせながらナナシは言った。
「もう一度、やってみよう? 何度失敗したって、私は平気だから」
「分かった、君がそう言うなら……」
再びナナシと手を繋ぎ直し、静かに呼吸をする。煩悩や雑念ごと吐き出すように深く、長く。こうして脳内に立ち込めている霧を晴らすような感覚をイメージすることで、スリークの風景が鮮明に浮かんできた。よし、今なら大丈夫だ。
まず小走りで勢いをつけ、ナナシと一緒に速度を合わせながら加速していく。目まぐるしく流れていく景色は次第に一本の線となり、足元からふわりと浮遊感が湧き上がってくるのが分かった。成功の兆しを感じて目を開ければ、そこには思い浮かばせていた通りの風景が広がっている。
「ふう、今度こそ成功したな」
「やっぱり超能力って凄いね……!」
感心した様子で周囲を見渡すナナシは、二度目のテレポートということもあり割と落ち着き払っていた。近くにあった停留所の時刻表を確認すると、次のバスは五分後に来るとのこと。ナイスタイミングじゃないか。
さて、これで次の目的地"フォーサイド"へ向かうことができる訳だけど――ここでもひとつの懸念がある。今度こそ杞憂に終わってほしいけど、まずは行ってみなければ分からない。相変わらずこの行き当たりばったりな所が僕の旅ならではなんだよな、と軽く開き直ってみる。
程なくして来たバスに乗り込み窓の外を眺めると、スリークを包むかのように広がる森林の緑はトンネルを境に砂塵が舞う景色へと様変わりしていった。
「ここから"ドコドコ砂漠"かあ……でもバスなら楽々だね。空調効いてて快適だし!」
「そうだね。昼過ぎにはフォーサイドに着くと思うし、バス降りたらすぐにホテルの部屋取りに行こう」
「そっか、夏の時期はすぐ埋まっちゃうもんね」
街に着いた後の予定を組みながら、車内に流れる涼しい風に癒される僕達。しかし快適な旅もここで足止めとなる。バスは緩やかに速度を落とすと、やがて停止してしまった。しかも"あの時"と全く同じ場所でだ。六年ぶりのデジャヴに僕はただ苦笑するしかなかった。いや、まさかな――。
"現在バッファローの大群が道路を横断している為、この先一時通行止めとなっており……"
運転手からのアナウンスが流れる中、乗客達は揃って溜息を吐くこととなった。この大渋滞が解消されるのは早くて午後の三時過ぎとの見込みで、降りて自力で歩く人と辛抱強く車内に残る人で別れる事に。
勿論僕とナナシは前者で、ここでバスを降りるしか選択肢は残されていなかった。スリークに引き返して立て直す案も出たけど、徒歩で戻るにも時間がかかる上に残りの休日も限られていることを考え、先に進むことを決めたんだ。
なんとか気持ちを切り替えて外に出た途端、砂の混じった熱風と夏の日差しが、バスの空調に甘やかされた身体に容赦なく襲いかかってきた。道路はフォーサイドへ向かおうとしている車で埋め尽くされていて、時折クラクションや怒鳴り声などが響いてくる。中には車から降りて売店に向かう人達までいる有り様だ。
「またか、またなのか……」
「そっか……確かネス達、六年前の時もここで足止めされちゃったんだっけ」
気遣わしげに目を伏せるナナシに、力なく頷くしかなかった。当時はやっとのことでスリークのお化け問題を解決し、ようやく次の目的地"フォーサイド"への道が開けたと喜んでいた矢先。このドコドコ砂漠のど真ん中で渋滞に見舞われ、何時間もこの灼熱の砂原を進み続けたという苦い思い出がある。
あの時は偶然砂漠で埋蔵金を探しているという人の小屋に泊めてもらえたけど、今回は頼れそうな宛はない。最悪野宿になるかも、とナナシに伝えると彼女は吹き出る汗を拭いながら笑顔を返してきた。
「ふふ、こういうのも旅の醍醐味……って言うのかな?」
「君も知ってると思うけど、この砂漠には危険な動物達が暮らしてるんだ。それでも進む覚悟は、できてる?」
「もちろん。ここまで来て今更足踏みなんてしてられないもん。それに、私だって本気でこの旅をやり遂げたいから」
こんな状況にも関わらず、ナナシの瞳は凛と輝いていた。更なる困難を前にしても笑みを浮かべる姿は、リリパットステップで見せたものよりも頼もしく感じられて――あれ、顔がさらに熱くなってきた。これも熱気のせいだな。うん、そうでなければ。
「分かった。ここから先、何が現れても絶対僕から離れないで」
こめかみから滴る汗をそのままに微笑みを交わした僕とナナシは、目の前に広がる砂漠へと足を踏み入れた――。
ドコドコ砂漠編は長くなるので二分割に。入れたいシーン詰めてたら一話分にするには長くなってしまい…。
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